「チップでプール付きの家が建った男と、何千冊ものメモ帳を持った男の話。」
前回の話に、続きがある。
コーヒーを50杯用意するようになって半年。私がコントロールする側になった頃、当時のホールマネージャーが黙って私に手渡してくれたものがある。
新しい一冊のアドレス帳だった。
あの時は、その意味をまだわかっていなかった。
そのホールマネージャーは、伝説の人だった。
チップだけでプール付きの家が建ったという話が、厨房にまで伝わってくるほどの人だ。
お客様をレストランでお迎えする時、名前で呼ぶのはもちろん、奥様やお子さんの名前まで覚えていた。そして、こんな会話ができた。
「今日は、ご自宅からお越しでいらっしゃいましたか?」
「ああ、そうですが。」 「あちらは、雨模様だったようですが……」
お客様の自宅の場所まで把握して、その日の天気まで調べて、さりげなく会話に織り込む。これが自然にできた人だ。
でも私が驚いたのは、その凄さよりも別のことだった。
この人、努力している感じが、みじんもなかった。
どちらかというと、ちょっと抜けた感じの、あっけらかんとした人だった。お客様のデータを必死に覚えているというより、ごく自然に振る舞えていた。本当は陰で凄まじい努力をしていたんだろうと思う。でも私には、その欠片も見えなかった。天才というのは、こういう人のことを言うのかもしれない。
一方で、真逆のタイプの伝説がいた。
ドアマンだった。
この人は、お客様の車を覚えていた。車種はもちろん、色、ナンバープレートの番号。それだけではない。夜、遠くからでも判別できるように、ヘッドライトの形まで記憶していたという。
お客様が車を停めた瞬間に、ドアの前に立ち、そっとドアを開ける。
お客様の名前をさりげなく呼びながら気の利いた一言を添えてお迎えする。
この人の秘密は、何百何千冊にも及ぶメモだった。
お客様の情報を書き続け、読み返し、叩き込む。ひたすら地道な努力を積み重ねた人だった。
ホールマネージャーとは、何もかもが正反対だった。
でも二人には、一つだけ同じことがあった。
お客様を喜ばせることへの執着が、圧倒的だったことだ。
やり方は違う。天才と努力家。感覚と記録。でも向いている方向は、完全に同じだった。
あのアドレス帳は、結局一度も使わなかった。
何年も意味がわからないまま、それでも大事に持ち続けた。伝説のマネージャーがくれたものだから、きっと意味があると思っていた。
本当の意味に気づいたのは、自分の店を始めてからだった。
お客様の顔と名前を覚えること。好みを知ること。次に来てくださった時に、その人だけの会話ができること。
あの人が伝えたかったのは、そういうことだったんだと思う。
ただ、時代は変わっていた。
今はPCがある。アドレス帳じゃなくてもいい。
形は変わっても、伝えたかったことは何も変わっていない。
天才でなくていい。メモ一冊から、PCの一行から始めればいい。
あの頃のホテルには、そんな生き方を体で教えてくれる人たちがいた。
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