こたつガス「エジソンの研究ノート第一話」

金曜日。
塔増英治、50歳。オオミヤ電気株式会社、乾電池製造ライン、副班長。勤続30年。今日も1時間の残業を終え、午後7時12分に工場を出た。
誰も「お疲れさま」とは言わない。英治も言わない。30年そうだ。
駅前のスーパーに寄る。惣菜コーナー。7時を過ぎれば、半額シールの時間だ。英治の目が、から揚げ弁当を捉えた。498円。半額で249円。残り一つ。
同時に、反対側から手が伸びた。50代の女。
英治の手が、一瞬早かった。
マイケル・ジョーダンがレイカーズ相手に見せたエアウォーク。あの滞空時間が、英治の右腕にはあった。
弁当を掴み、目も合わせずに立ち去る。
(すまないな)
思ってはいない。
酒売り場で、スーパーのPB発泡酒、500mlを2本。これで今夜は足りる。足りなくても、足りたことにする。金がないのではない。使う相手がいないだけだ。友達、0人。彼女、生涯0人。家族との連絡、年に0回。
アパートに帰る。築34年。英治より4つ年上だ。
靴を脱ぐ。電気をつける。テレビをつける。こたつをつける。この順番は、365日変わらない。
こたつに足を突っ込み、から揚げ弁当の蓋を開ける。発泡酒のプルタブを引く。
テレビでは、芸能人が旅館の飯を食って「うまーい」と叫んでいる。
(お前にから揚げ弁当249円の旨さが分かるか)
分かるわけがない。英治は冷めたから揚げを噛んだ。これがいい。
発泡酒を流し込む。1本目が15分で空いた。2本目を開ける。金曜の夜だ。急ぐ理由がない。急いだところで、待っている人間がいない。
腹が膨れた。
そして、それは来た。
ブッ。
こたつの中に、音が篭もった。
3秒後、熱を帯びたそれが、こたつ布団の隙間から這い出してきた。
「……くせえ」
英治は呟いた。自分で出したものだ。分かっている。だが、こたつという密閉空間が、ガスを熟成させた。から揚げと発泡酒の化学反応。それは、もはや英治のものではない、別の何かだった。
もう一発、来た。
ブブッ。
今度は長い。こたつ布団が、わずかに揺れた気がした。
臭い。
臭いが、出る。止まらない。金曜の夜、一人こたつで、自分の屁に燻される50歳。
そのとき、英治の目が変わった。
――――
(待て)
(この臭気は、なぜ逃げない)
こたつの構造を、英治は見た。四方を布団で覆われた空間。熱源であるヒーターが中央下部にある。暖かい空気は上昇するが、布団が蓋をしている。つまり、ガスは内部に滞留する。
(換気すればいい。だが、換気すれば熱も逃げる)
これだ。こたつの保温性を維持しながら、臭気だけを除去する方法。
英治の脳が回り始めた。乾電池を30年作ってきた男の脳が。
(小型ファン。活性炭フィルター。電源は単三2本で十分だ。こたつの脚に沿わせて排気ルートを確保し、フィルターを通して外に出す。吸気は布団の隙間から自然に入る。負圧を利用する)
英治はこたつから出た。押し入れから段ボールを引っ張り出す。工場から持ち帰った試作用のモーター。百均で買った小型ファン。活性炭は、冷蔵庫の脱臭剤を分解すれば手に入る。
リビングの床に部品を並べた。テレビはもう見ていない。
2本目の発泡酒も忘れている。
設計図を描き始める。大学ノートに、正確な寸法で。
――――
土曜日。日曜日。
英治は計算を続けた。ファンの回転数。フィルターの表面積。消費電力。こたつ内の容積に対して必要な換気量。
だが、月曜日の夜、英治はペンを止めた。
活性炭フィルターの交換頻度。小型ファンの耐久性。密閉性を保つためのシール材。試算を重ねるほど、コストが膨れた。
試作だけで、3万円。
半額弁当を何日食えば3万か。
120日だ。
英治はノートを閉じた。
結論。
こたつから出て、おならをする。
以上である。
72時間の研究。大学ノート8ページの設計図。結論は、立ち上がること。人類が二足歩行を獲得した時点で、答えは出ていた。
英治はノートを本棚に差し込んだ。本棚には、同じようなノートが何冊も並んでいる。全て、同じ結末を迎えた研究の記録だ。
――――
金曜日。翌週。
英治は今週も、から揚げ弁当と発泡酒でこたつにいた。
学習した。今週はおならが来たら、立つ。こたつから出て、台所の方で放出する。それが最適解だ。
腹が鳴った。
来る。
英治はこたつから立ち上がった。研究の成果だ。
だが、遅かった。
立ち上がる動作が、腹圧を変えた。
ブビビビッ。
音が、違った。
温かいものが、下半身を伝った。
英治は3秒間、直立したまま動かなかった。
それから、静かにトイレへ向かった。パンツを脱いだ。
被害は甚大だった。
風呂場で、英治はパンツを手洗いした。50歳。金曜日の夜。風呂場の蛍光灯の下で、自分のパンツを洗っている。
涙が出た。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。悲しいのではない。虚しいのとも違う。ただ、50年生きて、金曜の夜に一人でパンツを洗っている、その事実の重さだった。
蛇口の水は冷たかった。
テレビからは、誰かの笑い声が聞こえていた。
