『ガロア 天才数学者の生涯』 加藤文元(中公新書)



ガロア 天才数学者の生涯
『ガロア 天才数学者の生涯』

 インフェルトの『ガロアの生涯 神々の愛でし人』は小説だったが、ガロアの事実に即した生涯とはどのようなものだったか。
 ガロアの生涯については多くの本が出ているが、現時点で最も新しく、目配りがきいているのは加藤文元氏の『ガロア 天才数学者の生涯』だろうと思う。

 この本を読んで驚いたことがいくつもあるが、その第一はガロアの生涯が『レ・ミゼラブル』とほとんど重なっていたことである(なぜ気がつかなかったのだろう!)。
 ジャン・バルジャンが徒刑場から仮釈放されるのは1815年だが、ガロアはその4年前に生まれている。コゼットの恋人のマリユスはABCの会という共和派の過激集団のメンバーだったが、ガロアはそのモデルとなった団体に属していた。物語のクライマックスは1832年の6月5日にはじまるパリ暴動だが、ガロアの死はその暴動に係わっていた可能性が指摘されている。ガロアは暴動の5日前の5月31日に亡くなり、6月2日には葬儀がおこなわれ2000人以上の共和派の同志が集まっている。
 もし前日にラマルク将軍が亡くなっていなかったら、ガロアの葬儀をきっかけにパリ暴動が起きたとする見方があり、そこからガロアは革命のためにみずからを人柱にしたという自殺説が出てくる。
 『レ・ミゼラブル』に描かれているように、当時のパリは民衆の不満で一触即発の状態だった。ガロアは決闘で命を落とさなかったとしても、マリユスのような同志とバリケードに立てこもって、銃撃戦で死んでいたかもしれないのである。

 つぎに驚いたのは、長らく悪役として描かれてきたコーシーが実はガロアの庇護者だった可能性があることである。
 他人の研究に無関心なコーシーが珍しくガロアから送られてきた論文を読み、科学アカデミーの席上で報告すると予告した。科学アカデミーの議題にするとはガロアの研究のオリジナリティに報告者が責任をもつということである。これは異例中の異例であり、コーシーがガロアの真価を理解していた証左となるはずだが、これまでは無視されてきた。というのもコーシーは結局報告せず、論文もなくしたとされてきたからだ。
 ところが近年コーシーが報告でガロアをとりあげなかったのは、ガロアに科学アカデミーの数学論文大賞に応募を勧めたためという説があらわれた(科学アカデミーの議題にすると論文は既発表になり、応募できなくなってしまう)。
 コーシーはアーベルの論文も無視したことになっていたが、すくなくとも五次方程式に関する論文は読んでいて、ガロアにアーベルを教え、アーベルにないガロア独自のアイデアを強調して書き直すようアドバイスした可能性まであるという。だとしたらコーシーは論文をなくしたのではなく、書き直すように本人にもどしたのである。
 ガロアは大賞に論文を応募しているし、コーシーに対しては何ら不平を述べていないから、この推定は説得力がある(論文の査読はフーリエが担当するが、急逝したために論文は行方不明になる)。

 ガロアはエコール・ポリテクニークの入試に失敗し、当時二流校とされたエコール・プレパラトワールに入学するが、ここでもコーシーの世話になったらしい。
 ガロアのような天才なら「二流校」のエコール・プレパラトワールくらい難なく入れると思いがちだが、現在のエコール・ノルマルの前身だけに、エコール・プレパラトワールの学生は国家公務員に準ずる身分で給料がもらえ、就職先も保証されていた。当然倍率も高かった。
 当のガロアは最先端の数学以外にはまったく興味がなく、入試の成績は惨憺たるものだった。入試の物理担当の試験官の所見はこんな具合だ。

 私はここまでロクな答えもできない学生に出会ったことは初めてだと言い得る。彼はまったく何も知らない。

 彼には数学の才能があるということを聞いていたが、またく驚くべきことだ。なにしろ試験において見る限り彼にはほとんどまったく学識があるようには見えない。……たとえ彼が世間で言われているような人物だったとしても、私は彼が良き教師になれるとは到底思えない。

 天才は単なる秀才とは違い、かくもあつかいにくい代物なのだ。
 こういう成績でよく入学できたものだが、そもそもエコール・プレパラトワールの出願期限は過ぎていて、受験できたこと自体が異例中の異例だった(ガロアは教育大臣に受験を認めてもらう請願書を出している)。リシャール先生は一介のリセ教師にすぎず、教育大臣を動かすような力があったとは考えにくい。コーシーが裏で動いてくれたのではないかという説が出てくる所以である。
 というわけで、ガロアはなんとかエコール・プレパラトワールにすべりこむ。ガロアは無理解な大人たちから迫害された悲劇の天才とされてきたが、すくなくともこの時点までは迫害されるどころか特別な待遇を受けていたようである。

 しかしガロアはこの後いよいよ政治にのめりこみ、エコール・プレパラトワールを放校になる。
 ガロアは前年に応募した論文がフーリエの死で行方不明になったために、1831年1月再度書き直して科学アカデミーに提出する。この三度目の論文が幸い残ったのでガロア理論が世に知られるようになったが、科学アカデミーの大賞はとれなかった。
 査読報告が残っているが、加藤氏は「そもそも論文の目的を把握することに失敗している。これは驚くべきことだ」と評している。

 1831年10月ガロアは二度目の逮捕で懲役6ヶ月となるが、コレラ騒動のために監獄からフォートリエ療養所に移される。この時療養所長の娘のステファニー・デュ・モテルが親切に接してくれ、女性経験のなかったガロアは彼女の親切を自分に気があると誤解し、一方的にのぼせあがったらしい。
 ガロアの決闘は謎が多い。大きくわけると陰謀説、自殺説(革命の人柱説)、恋愛説の三つの見方があるが、加藤氏は陰謀説は論外とし、自殺説については革命のきっかけにするなら人の集まりやすい月曜日が好都合なのに、決闘は水曜におこなわれていると疑問を呈している。断定はしていないが、消去法で恋愛説に傾いているような印象を受ける( わたしも片恋説が妥当ではないかと思う)。

 市街戦で重傷を負ったマリユスはジャン・バルジャンに救われるが、ガロアにはジャン・バルジャンはいなかった。
 フーリエがもうちょっと長生きしていたら、あるいはコーシーが七月革命で亡命しなかったら、ガロアは正当に評価され、あんなにも政治にのめりこまなかったかもしれない。しかし早すぎる死も含めて、これが運命だったのだろう。

(初出:書評空間 2013/12/27)
(改訂:2026-02-17)

2026-02-17のノート


ガロア 天才数学者の生涯
『ガロア 天才数学者の生涯』

 本書の増補改訂版が2020年に角川ソフィア文庫から刊行された。

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