人はなぜ悩むのか? 一つのこたえ
古代ローマのストア派の哲学者エピクテトス(50年頃〜135年頃)は、その教えをまとめた『提要(ていよう・エンケイリディオン)』第五章の中で、こう述べています。
人を不安にするのは、物事ではない。物事についての意見だ。
エピクテトスは、奴隷として生まれ、片足が不自由な身体で生涯を過ごした人物でした。彼が到達したのは、私たちを本当に苦しめているのは、出来事そのものではなく、その出来事に対して自分が下す判断や意見なのだ、という洞察です。
同じ雨に降られても、ある人は「最悪だ」と嘆き、ある人は「涼しくていい」と喜ぶ。雨という出来事は同じなのに、心の反応はまったく違う。悩みの正体とは、出来事そのものではなく、出来事の受け止め方にあるのではないでしょうか。
エピクテトス自身、奴隷という、自分では変えようのない境遇に置かれながら、その境遇の受け止め方だけは、誰にも奪えない自分の領域であると見抜いていました。
私たちが日々悩むことの多くも、実は出来事そのものではなく、それをどう意味づけるか、という自分自身の心の働きに起因しているのかもしれません。
法華経・薬草喩品(やくそうゆほん)第五に、こんな言葉があります。
「未だ度(ど)せざる者は度せしめ、未だ解(げ)せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃(ねはん)せざる者は涅槃を得せしむ」
まだ迷いを超えていない者には超えさせ、まだ理解していない者には理解させ、まだ安らかでない者には安らかにさせ、まだ涅槃に至っていない者には涅槃を得させる、と説かれています。
ここで注目したいのは、久遠実成の釈尊が、私たちの外側の状況を変えることを約束しているのではないという点です。安ぜしめる、涅槃を得せしむ----これらはすべて、私たちの心の状態そのものを指しています。
エピクテトスが「物事についての意見」が私たちを苦しめると説いたように、法華経もまた、外の出来事ではなく、心が安らぐこと、迷いを超えること、その内なる転換にこそ、悩みからの解放があると教えているのではないでしょうか。
人はなぜ悩むのか?
その一つのこたえは、出来事の中にではなく、出来事をどう受け止めるか、という私たち自身の心の中にあるのかもしれません。

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