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風まかせ文芸部【線香花火】



『せんこう花火』が誕生した背景には、1970年代初頭の深夜ラジオブームと、吉田拓郎というひとりのミュージシャンの「遊び心」や「実験精神」が深く関わっています。

〈 ラジオから生まれた『せんこう花火』の舞台裏 〉

1. プロには書けない「素人の生々しさ」を求めた吉田拓郎

1970年代初頭、吉田拓郎は深夜ラジオのカリスマとして絶大な人気を誇っていました。番組内で彼は、「プロの作詞家が書くような、お行儀がよくてまとまった言葉はつまらない」と発言し、リスナーである普通の若者たちから詩を募集する企画を立ち上げます。
そこに届いたのが、当時全くの無名だった古屋信子さんの詩『せんこう花火』であり、同じアルバム『元気です。』に収録されている大名曲『春だったね』の作詞を手がけた田口淑子さんの詩でした。拓郎は、素人だからこそ書ける「剥き出しの孤独」や「日常の何気ない生々しさ」に強く惹かれ、その場でギターを持ってコードをつけ始めたと言われています。 

2. 「死に忘れたトンボ」というフレーズへの衝撃

古屋信子さんから送られてきたハガキをラジオのブースで読んだ拓郎は、「死に忘れたトンボが一匹、石ころにつまづきました」というフレーズに強い衝撃を受けたと後に語っています。
普通の人間なら「死にかけたトンボ」や「弱ったトンボ」と書くところを、「死に“忘れた”」と表現したセンス、そして本来は空を飛ぶはずのトンボが「“石ころにつまづく”」というリアルで不器用な描写。この独特な言語感覚に拓郎は「これは天才だ」と唸り、あっという間にメロディを書き上げました。 

『せんこう花火』に投影された当時の拓郎の心境
メジャー化への戸惑いと「虚像」への疲れ
1972年初頭、シングル『旅の宿』が大ヒットし、吉田拓郎はアンダーグラウンドだったフォークソングを歌謡界のメインストリームへと押し上げる革命児となりました。しかし、一躍スターダムにのし上がったことで、メディアや大衆から過剰なイメージ(若者の教祖、反体制の旗手など)を押し付けられるようになります。
誰もが自分に熱狂する一方で、本当の自分を見てもらえない。そんな「祭りのあとのような虚しさ」や「都会の真ん中で感じる強烈な孤立感」が、「ひとり歩く私」や「弱り果てたトンボ」の姿に重なったと言われています。

3. 「莫大な印税」にまつわるラジオでの笑い話

この公募企画から生まれた『せんこう花火』と『春だったね』が収録されたアルバム『元気です。』は、オリコンチャートで14週連続1位を記録する歴史的な大ベストセラーとなります。
これに伴い、作詞をした素人の古屋さんと田口さんの元には、莫大な額の「作詞印税」が入ることになりました。
後年、拓郎は自身のラジオ番組でこの件を振り返り、「あのときハガキをくれた素人の女の子二人、僕のアルバムが売れまくったおかげで、とんでもない額の印税が入って人生変わっちゃったんじゃないかなぁ(笑)」「普通の女の子だったのに、突然大金持ちになっちゃってどうしただろう」と、嬉しそうに、かつユーモアを交えてラジオのリスナーに語り種(ぐさ)として話していました。 

4. 2分未満で終わる「ハガキサイズ」の構成

『せんこう花火』は、曲の長さがわずか1分40秒ほどしかありません。これは、リスナーがラジオに送ってきた「ハガキ1枚に収まる短い詩」のサイズ感を、あえてそのまま薄めずに楽曲化したからです。
拓郎は詩を無理に引き伸ばしてAメロ・Bメロ・サビのような一般的なJ-POPの構成にするのではなく、深夜にハガキを読んだ瞬間の静かな空気感をそのままレコードに閉じ込めるように、短く、語りかけるように歌い上げました。 

ラジオを通じてリスナーとダイレクトに繋がり、そこから生まれた楽曲が日本の音楽史に残る大ヒットアルバムの核になっていく。このスピード感と型破りなスタイルこそが、当時の吉田拓郎が「時代の最先端」と呼ばれた理由でもありました。

 以上、A I による解説でした。

  

 線香が 花火だったら 盆ボボン!

 

なんでやねん!


                            

                                                                                                  (おしまい)

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