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何者?皇族から山岳修験の祖となった「蜂子皇子」とは

今から約1400年前の飛鳥時代。世の泰平を願い、山での修験に励み続けたと言われる「蜂子皇子(はちこのおうじ)」。生涯を過ごしたのは、山形県庄内地方にある出羽三山という山岳信仰の聖地です。

どうして、皇族として生まれた皇子が、縁もゆかりもない東北の奥地で修験に励み続けたのでしょうか。その生涯を、地元に語られてきた伝説をもとに辿ってみます。

蜂子皇子の読み方について
正式には「はちのこおうじ」と読むそうですが、「はちおうじ」と言う説もあります。地元民としては、どちらでもない「はちこのおうじ」に慣れ親しんできたため、記事では「はちこのおうじ」と敬称させていただきます。


出羽三山とは?

山形県の沿岸部にある庄内地方には、全国でも有数の米どころである庄内平野が広がっています。

だだちゃ豆や庄内柿などの在来作物も多く、果物の栽培も盛んで、豊かな食文化が受け継がれています。庄内地方の南部に位置する鶴岡市は、2014年に日本ではじめてユネスコ食文化創造都市に指定されました。

そんな庄内平野に裾野を広げるのは、標高1,984メートルの月山(がっさん)。深田久弥著「日本百名山」にも選ばれており、豪雪地帯ならではの豊富な雪融け水が夏まで平野の田畑を潤して、私たちの生活を豊かにしてくれています。

深い雪に覆われる2月の月山(鶴岡市郊外から撮影)

山の恵みをもたらしてくれる月山には、もうひとつの顔があります。それは、山岳聖地の聖地・出羽三山の主峰。出羽三山とは、月山、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称で、今も鶴岡市には出羽三山の信仰が深く生活に息づいています。

出羽三山を開山した「蜂子皇子」

出羽三山を開山した蜂子皇子は、亡くなるまで修験の道に身を投じてきたため山岳修験の祖とも言われます。人々の苦悩を取り除いた事から「能除仙(のうじょせん)」とも呼ばれ、怪異な容貌に描かれたものが多く存在します。では、蜂子皇子とは一体どのような人物だったのでしょうか?

蜂子皇子の肖像画(出羽三山神社の参集殿)

 クーデターから逃れ、東北の地へ

562年、時は飛鳥時代。
蜂子皇子は、第32代崇峻天皇の第三皇子として、今の奈良県にある都で生まれました。592年11月3日に蘇我馬子が起こしたクーデターで、父である崇峻天皇が暗殺され、蜂子皇子は従兄弟の聖徳太子にかくまわれて、現在の京都府宮津市由良から船で都を脱出しました。

船で北上していた蜂子皇子は、あるとき岩の上で八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見ました。乙女の恵姫(えひめ)と美鳳(みおう)の手招きによって上陸したのが、山形県鶴岡市の由良海岸だと伝えられます。

コロナ渦でマスクを着用中

由良海岸には「八乙女浦」という地名が存在しており、海岸には恵姫と美鳳の八乙女像があります。ふたりが乗っているのは、蜂子皇子が修行したという「権現穴」を模したものです。(写っていなくてすみません)

乙女たちによって迎えられた蜂子皇子は、しばらく由良海岸の「権現穴」に籠って修行をしていました。ある日、ひとりの翁がやってきて、「ここから東の方に大神の鎮座する山がある」と、東に行くように話して消えてしまいました。

蜂子皇子は、近くの荒倉山(あらくらやま)の山頂に立ち、東の方向に白く輝く荘厳な山の姿を目にします。これが、のちに「月山」となる山でした。

荒倉山の近くの県道から月山をのぞむ

 由良海岸から、羽黒山へ

東に神の存在を感じた蜂子皇子は、さらなる修行の場を求めて、羽黒山を目指して東へ進むことにします。羽黒山は、当時「自然」を神として崇拝する神聖な山で、すでに修験が行われていたそうです。

今では、由良海岸から羽黒山まで車で1時間ほどの距離ですが、昔の庄内平野は、蛇行して氾濫を繰り返す最上川によって湿地となっており、移動は容易ではありませんでした。現在の庄内平野の姿は、先人たちが長い年月をかけて土壌を耕し、改良を重ねて出来た賜物なのです。

現在は面影もありませんが、1,400年前の荒倉山の付近には大きな湖が広がっていました。蜂子皇子が湖のほとりで漁師に道を尋ねると、船に乗せてもらい対岸に渡ることができました。道なき道を歩き、雪解け水で増水した赤川を命からがら渡ることもありました。

長い月日をかけてようやく羽黒山が近くなった時、蜂子皇子はついに行先を見失ってしまいます。自らの修行が足りないのではないかと観音菩薩に助けを求めたところ、どこからともなくやってきたのが、およそ3mもの両翼をもつ三本足の八咫烏(やたがらす)でした。大きな翼を羽ばたかせて、蜂子皇子を羽黒山へ導いたと言われています。

羽黒山の山頂にある八咫烏のモニュメント

「羽黒山」の由来は、八咫烏に基づいているとの説も。また、サッカー日本代表のユニフォームにデザインされていることでも知られていますね。

八咫烏に導かれた皇子は、地面の中から放たれる光の存在に気がつき、土を掘りました。そこには光輝く観音像があり、この地が「東の聖なる地」だと確信したのです。

 出羽三山を開山

羽黒山の阿古谷(あこや)という場所で修行に励み続けていた蜂子皇子。ある日、出羽国(現在の秋田県と山形県沿岸部を指す)の国魂である「伊氏波神(いではのかみ)」の姿を拝することになります。そこで、羽黒山の山頂に「出羽(いでは)神社」を鎮座したことから、出羽三山の長い歴史が始まります。

羽黒山山頂の三神合祭殿。茅葺屋根の厚さは2.1mにもなる。
手前の鏡池は由良海岸と繋がっているとの伝説も。

出羽三山には「羽黒山」という山の名前があっても「羽黒神社」は存在しません。羽黒山の山頂には、出羽三山それぞれの神様が鎮座する「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」があり、そのひとつが「出羽(いでは)神社」です。

人々の苦悩を取り除くために、厳しい修験に励み続けた蜂子皇子の存在は朝廷の耳にも届き、「能除太子」という名を授かることになります。そして、蜂子皇子はある夢を見ました。

夢の中には、かつて見た白く輝く峰が出現し、皇子を羽黒山に導いた八咫烏がその峰に向かって飛び去っていく姿でした。蜂子皇子は春を待って、夢に出てきた雪山を登ることにします。

4月初旬の月山(西川町スキー場ルートより)

現在の月山は、残雪期の春山になると西川町が運営するリフトを使って登ることができます。2,000メートル近い山を、この時代に切り開いていくとは、さすが厳しい修験に耐え抜くだけの健脚です…。

そして、山の頂で阿弥陀如来の姿を拝することになります。そこは夜と死後の世界を支配する「月の神」の土地だと気がつき、月山山頂に「暮礼山月山寺(ぼれいさんがっさんじ)」という寺院を建立しました。

月山の山頂に鎮座する「月山神社」

最後は湯殿山です。蜂子皇子が月山を下ると、そこはお湯の湧く大地でした。そこでは大日如来の姿を見たことから、光と再生をつかさどる太陽神の土地として湯殿山を開山。こうして、出羽三山のすべての山が開山されました。

湯殿山神社の大鳥居

出羽三山を巡ることは、古来より「生まれかわりの旅」と伝えられてきました。「現在」を司る黒山から始まり、「過去」を司る月山で死を経験し、「未来」を司る湯殿山で再生するとされています。

 東北地方で唯一の皇族の墓所

出羽三山の礎を築いた蜂子皇子は人々のために修験に励み続け、641年6月20日に羽黒山で息を引き取ります。享年79歳でした。飛鳥時代の平均寿命が30歳前後と言われる中で、この時代では長寿であったことが伺えます。

皇族である蜂子皇子の墓所は、現在も羽黒山山頂の境内にあります。東北地方で唯一の皇族の墓所として現在も宮内庁が管理しており、大正時代までは宮内庁の職員が駐在していました。2024年には秋篠宮悠仁さまが非公式で参拝されています。

蜂子皇子の墓所

蜂子皇子によって開山された出羽三山は神仏が習合する「三所権現」として、皇室や武将たちの崇敬を集めるようになり、山岳信仰の聖地として全国に広く知られるようになりました。

西のお伊勢参り、東の奥参り
江戸時代になると、西日本の伊勢神宮への参拝とならんで、東日本の出羽三山を詣でることが流行となるほど参拝者が大勢やってきたと言います。

神仏分離令による危機

神仏習合だった羽黒山の山頂付近には、かつて多くの大寺院が立ち並んでいましたが、江戸時代末期に宗教を巡る情勢が一変しました。

山頂付近ではかつて大寺院が立ち並んでいたと言う。
寺院跡のひとつは斎館として使われている。

明治時代になると、政府は海外諸国と渡り合うために国家統一を図り、日本の宗教は「神道」として一神教にするために明治政府は神仏分離令を発令しました。廃仏毀釈の運動が広がり、羽黒山でも歴史的価値のある多くの仏像や仏具などが破壊されました。

破壊された仏像
顔が削られた仏像

それまで、仏や神が同じ場所に鎮座する山として在り続けた「三所権現」は「出羽三山神社」と改めることになります。

蜂子皇子が礎を築いた羽黒修験。神道の出羽三山神社と、神社の門前宿坊街である手向地区の天台宗の寺院「正善院」によって現在も受け継がれています。異なる宗派が修験を執り行い、境内にはかつての神仏習合だった時代を色濃く残す光景が多く残されています。

大晦日の年越し。山伏の恰好をした神職たちが
神仏習合の名残りである鐘楼を突いている。

今も信仰の息づく街

12月になると、鶴岡市では「松の勧進(かんじん)」という行事が始まります。これは羽黒修験のひとつ「冬の峰」の一環で、出羽三山神社の山伏たちがほら貝を吹きながら、鶴岡市の家を一軒づつ回ってお札を付与します。

松の勧進は出羽三山神社のある手向地区から始まり、半月ほどで市街地へやって来ます。山伏たちは一般家庭のみならず、市役所や鶴岡の企業などを訪れて手厚く迎えられます。

鶴岡で生まれ育った人にとっては、山伏が法螺貝を吹きながら街中を闊歩する姿は普通の光景ですが、移住者の中には「突然うちに山伏がやってきて驚いた」と話す方もいます(笑)

「冬の峰」は羽黒修験の中で最も格式の高いとされ、12月31日の「松例祭」をもって満願を迎えます。

雪景色の中に法螺貝の音が聞こえるようになると、「冬がやってきたなぁ」という気持ちになるのは、出羽三山の歴史が今も息づいている証だと思います。

稲作の恵みによって豊かな暮らしをしている私たちは、その恵みを与えてくれる山々を崇めます。そして、蜂子皇子が礎を築いた山岳信仰が今もこの土地の生活に深く根付いています。それが、これからも受け継がれていくことを願います。

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記事を作成するにあたり参考にさせていただきました。
御由緒(出羽三山神社)
八乙女伝説(ホテル八乙女)
蜂子皇子(Wikipedia)
蜂子皇子ゆかりの地めぐり補遺編(蝶と里山の浪漫紀行)
蜂子皇子が蘇我馬子に命を狙われ逃亡(武将ジャパン)
羽黒山の名前について(羽黒観光協会)
羽黒山むかしむかし(鶴岡市広報 R2)


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