善意への嫉妬――支援を妬む社会が生む“静かな弾圧”
はじめに:見えない圧力は「感情」のかたちで現れる
訴訟や圧力、攻撃的な言葉。
言論弾圧と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、そうした直接的な力だろう。
しかし、もっと静かで、もっと厄介な弾圧がある。
それは、支援を妬む感情という形で現れる。
社会の中で誠実に発信を続ける人が、
訴訟や中傷の的になってもなお活動をやめない。
そんな姿に、多くの人が共感し、寄付や購読、動画配信などを通じて支援する。
けれども、その支援の輪が広がるほどに、
別の場所では、**「潤っている」「もう被害者ではない」**という声が上がる。
——これは単なる感情論ではない。
沈黙をつくり出す、現代的な言論弾圧の最終形である。
1. 「支援されているなら被害者ではない」という倒錯
飯山氏の支援者の多くは、彼女の言論活動を守りたいという善意から寄付などで応援している。
訴訟や攻撃の中で孤立しがちな個人を支えることは、本来、健全な市民社会の表れである。
しかし、SNS上ではしばしばこうした支援が、
「だから彼女は困っていない」「カンパで儲けている」と揶揄される。
まるで支援があること自体が、“被害者ではない証拠”かのように語られるのだ。
だが、支援とは余裕ではなく、生き延びるための手段である。
訴訟が続き、社会的圧力の中で発信を維持するには、
経済的基盤と信頼のネットワークが不可欠だ。
支援を妬む感情は、その現実を無視している。
2. 「支援=特権」という社会の誤解
この倒錯は、社会的な嫉妬と深く結びついている。
支援が集まる人に対し、
「人気だから」「目立つから」「同情を利用しているから」
という言葉が投げつけられる。
それは、支援という行為を「不純」と見せかけるためのレトリックであり、
実際には何の根拠もない。
しかもそれを発信するのは、かつて同じ理念を掲げていた元支援者であることが少なくない。
一部の元支援者は、支援の理念よりも「誰が注目を集めるか」「誰が資金を得るか」に囚われ、
その感情の延長線上で、支援の正当性そのものを疑わせる言葉を放っている。
嫉妬と自己正当化が結びついたとき、最も陰湿な弾圧が生まれる。
こうした言説は、被害者を再び傷つけるだけでなく、
「支援=疑わしいもの」という空気を社会に植え付ける。
3. 「助ける人」まで叩かれる社会
いま起きていることの本質は、支援される人の問題ではなく、支援する人の萎縮である。
寄付をすると、「信者」「お金の使い方がわからない人」と揶揄される。
支援を呼びかければ、「被害を商売にしている」と中傷される。
結果として、支援は見えない場所へと潜り、
支える声は次第に減っていく。
この「支援を妬む空気」こそが、沈黙をつくる。
本来、支援とは「自由を支える手段」であるはずなのに、
いま、それが“攻撃の口実”になっている。
4. 嫉妬が弾圧に変わるとき
弾圧は必ずしも権力から始まるわけではない。
ときに、同じ社会の中の嫉妬や怨念が、
権力よりも静かに、しかし確実に人を黙らせる。
飯山氏をめぐる現象は、その典型だ。
彼女が沈黙しないこと自体が批判の対象になり、
彼女を支える人々まで「異常」「盲信」とレッテルを貼られる。
——こうして、権力が命令しなくても、社会は自ら黙る。
誰も禁止していないのに、言葉が減っていく。
それが「善意への嫉妬」がもたらす静かな弾圧の正体だ。
結び:支援を疑う社会に、自由は育たない
支援を受ける自由、支援をする自由。
そのどちらも、言論の自由を支える両輪である。
「支援されている人はもう大丈夫」
「寄付を集める人は信用できない」
そんな空気が広がるとき、私たちは知らぬ間に弾圧の側に立っている。
嫉妬を煽ることで、善意を消し去る社会。
それこそが、最も静かで、最も狡猾な弾圧のかたちなのだ。
