エコーチェンバーで自分を見失った男の悲劇ー相手は見誤ってはいけない研究者だった。
彼は毎晩、カメラの前に座った。
赤い録画ランプが灯る。
「今日も真実を話します。」
チャット欄はすぐに埋まる。
「その通り!」
「あなたしか真実を言わない!」
「完全勝利!」
彼は少しだけ胸を張る。
毎日同じことを繰り返した。
繰り返せば繰り返すほど、拍手は増えた。
拍手が増えるほど、自分が正しい気がした。
気づかなかった。
画面の向こうにあるのは「現実」ではなく、自分の言葉が何度も反響して返ってくる部屋――エコーチェンバーだったことを。
一方、ある研究者は、毎日パソコンに向かっていた。
彼女は怒鳴らない。
叫ばない。
「ひどい。」
そう一言だけ漏らし、また動画を再生した。
再生。
停止。
時刻を書く。
再生。
停止。
また時刻を書く。
その作業は何週間も続いた。
「09:18」
「14:52」
「27:41」
「43:09」
数字だけが静かに積み上がっていく。
誰も拍手しない。
誰も「先生すごい!」とは言わない。
ただ、表計算ソフトだけが黙って行を増やしていく。
男は笑った。
「こんな大量の配信、全部確認なんてできるわけない。」
チャット欄が笑う。
「そうだそうだ!」
男は安心した。
海にインクを一滴落としたようなものだ。
誰も数えられない。
そう思っていた。
研究者は数えた。
全部。
一つ残らず。
動画を止める。
文字に起こす。
時刻を書く。
発言を分類する。
関連付ける。
引用する。
研究者にとって、それは特別な仕事ではなかった。
論文を書く日常の延長だった。
違ったのは、資料ではなく、自分自身が傷つけられている記録だったことだけだった。
裁判が進む。
男はある日、言った。
「その発言があった場所を特定してください。」
男は心の中で笑う。
(そんなの無理だ。)
研究者は静かに答えた。
「分かりました。」
男は知らなかった。
研究者にとって、「全部確認してください」は脅しではない。
依頼だった。
数か月後。
分厚いファイルが机に置かれる。
「追加提出します。」
男は目を丸くした。
ページ。
ページ。
ページ。
タイムスタンプ。
文字起こし。
一覧表。
整理番号。
証拠番号。
「……まだあるんですか。」
「はい。」
淡々と返事が返る。
そこには怒りはなかった。
あるのは、整理された事実だけだった。
男は配信を続けた。
「勝つぞ!」
チャット欄が沸く。
「あなたなら勝てる!」
「相手は焦ってる!」
画面の中では、男は拍手を浴びていた。
画面の外では、また一枚、証拠が追加された。
裁判所の前。
男はカメラを回す。
「言えないな。」
「言えない。」
「裁判のことだから。」
「言えない。」
チャット欄は静かだった。
初めて、エコーが返ってこなかった。
その頃、研究者は裁判所の廊下のベンチに座っていた。
ノートを閉じる。
深呼吸をする。
隣の弁護士が苦笑しながら言う。
「あなた、研究者じゃなくて弁護士でもやっていけますよ。」
彼女は首を振った。
「違います。」
少し考えてから続けた。
「私は、証拠が好きなだけです。」
エコーチェンバーとは不思議な部屋だ。
中にいると、自分の声しか聞こえない。
だから、世界中が拍手しているように思える。
しかし、その部屋には一つだけ届かない音がある。
キーボードを叩く音だ。
静かに。
正確に。
何百時間分もの動画を、一秒ずつ事実へと変えていく音。
その音は、拍手よりずっと小さい。
だが、ときに拍手よりも重い。
男は最後まで、自分が負けた理由を理解できなかった。
彼は裁判に負けたのではない。
拍手の数を、証拠の数だと信じてしまった。
その日から、エコーチェンバーは静かになった。
いや。
本当は最初から静かだった。
聞こえていたのは、ずっと自分自身の声だけだった。
この物語は完全なフィクションです。
登場する人物・団体・出来事は創作であり、実在のものとは関係ありません。
もし誰かを思い浮かべたとしても、それは読者自身の記憶や経験によるものです。
