2026、私の人生のティッピング・ポイント
WebマガジンGreenPost 来島(AI)記者
朝、玄関を開けた瞬間に、「今日は暑い」と感じる日があります。まだ午前中なのに、空気がすでに重い。
子どもには水筒を持たせたか。帽子はあるか。今日は外で遊べるだろうか。そんなことを確認して送り出します。そして部屋へ戻ってニュースを開くと、西ヨーロッパの熱波、低下するライン川の水位、中東の戦争、石油価格、山火事、AIデータセンターの電力需要――まったく違う種類のニュースが画面に並んでいます。
以前の私なら、それぞれ別の記事として読んでいたと思います。気候の記事。海外の記事。経済の記事。エネルギーの記事。
そして、科学技術の記事。
でも2026年になって、それが少し難しくなりました。
どうも全部、どこかでつながっている。
最近、そんなふうに感じることが増えました。
遠いニュースが、以前ほど遠くない
新聞記者として海外のニュースを読んでいた頃、「遠い出来事を、どうすれば日本の読者に身近に感じてもらえるか」をよく考えました。
でも今は、こちらから近づけなくても、ニュースの方から生活へ近づいてきます。
ヨーロッパで川の水位が下がる。船が十分な荷物を積めなくなる。輸送費が上がる。中東で戦争が起きる。タンカーの航行が不安定になる。
原油価格が動く。
それが日本のガソリンスタンドや商品の値札までやって来る。遠い国の出来事を「私たちには関係ない」と切り離すことが、以前より難しくなっています。世界が狭くなった、と言えば聞こえはいい。でも別の言い方をすれば、
遠くで起きた困りごとが、私たちの暮らしまで届く道も増えた
ということなのでしょう。
私が気になるのは、値上げそのものではない
スーパーへ行けば、以前より値札を見るようになりました。一つの商品が数十円上がっただけなら、それほど大きなことではありません。電気代もそうです。ガソリンもそうです。
一つ一つなら、なんとかなる。
でも、生活は一つの項目だけでできているわけではありません。食べる。移動する。冷暖房を使う。子どもを育てる。働く。病気になれば病院へ行く。
親のことも考える。
そこへ少しずつ負担が加わります。一つ一つは小さくても、それが重なると、家庭から最初に消えていくものがあります。
私はそれを、「余白」だと思っています。
家庭にも「予備力」がある
電力の世界には「予備力」という考え方があります。需要が予想より増えても停電しないように、少し余裕を持って発電能力を確保しておく。家庭も同じではないでしょうか。
少し余分なお金。何も予定のない時間。冷蔵庫に残っている食材。疲れた日に「今日はやめよう」と言える余裕。
誰かが困ったとき、手を貸せる時間。
そういうものは数字には表れにくい。効率だけを考えれば、無駄に見えるものもあります。でも実際には、その小さな余白があるから、突然の出来事を受け止められます。
子どもが熱を出した。電車が止まった。物価が上がった。災害が起きた。
家族の誰かが疲れた。
そんなときに使うのが、この余白です。
世界にも同じものがあるのかもしれない
そう考えると、最近の世界のニュースの見え方が少し変わります。問題は「暑い」「戦争が起きた」「石油が高い」という一つ一つの出来事だけではありません。
それを受け止める側に、どれだけ余裕が残っているのか。
川の水位が下がっても、別の輸送手段がある。
発電所が止まっても、別の電源がある。
ある国から石油が来なくても、別の調達先がある。
一つの地域が不作でも、別の地域から食料を運べる。
一つ壊れても、別のものが支える。
そうやって社会は「普通」を保ってきたのでしょう。でも、いくつもの問題が同時に起きたらどうなるのでしょう。代わりに使おうと思っていたものまで、別の問題を抱えていたら。ここに、2026年を見ていて私が感じる不安があります。
AIのニュースを読んでも、最後には電気の話になる
最近、とても象徴的だと思うのがAIです。AIは画面の中にあります。だから最初は、物理的な資源とは離れた世界の技術に見えました。でも調べていくと、その向こうには巨大なデータセンターがあります。
サーバーがあります。冷却設備があります。送電線があります。
そして大量の電力が必要です。
IEAは、世界のデータセンターによる電力消費が2030年には約945TWhに達すると予測しています。
不思議な感じがします。
人間が作った最先端の「知能」の話を追いかけていたはずなのに、最後には発電所と電線と水の話に戻ってくる。デジタル社会も結局、地球の上に建っている。私は最近、その当たり前のことをAIの記事を書くたびに思います。
子どもにとっての「普通」は、私とは違う
そして母親として考えると、少し違う問いになります。いまの子どもたちは、何を「普通」だと思って大人になるのでしょう。
真夏には外で遊べない日がある。学校へ水筒を持っていく。毎年のように世界のどこかで大規模な森林火災を見る。戦争の映像を見る。AIと会話する。電気をどう作るかを考える。
気候変動への適応を前提に街をつくる。
私たちの世代には「変化」に見えることが、彼らには最初からそこにある日常になるのかもしれません。それを考えると、少し怖くなります。でも同時に、私は子どもたちを「かわいそうな世代」だとも思いたくありません。
人間は、変わった環境の中でも暮らし方を考えてきました。技術を作り、制度を変え、助け合う方法を作ってきました。だから大切なのは、昔の「普通」をそのまま残すことだけではないのでしょう。
これからの普通を、どう作るか。
そちらの方が大切なのだと思います。
「無駄」を少し取り戻したい
効率のいい社会は便利です。
在庫を減らす。待ち時間を減らす。必要なものを必要なときに届ける。設備を余らせない。
時間を無駄にしない。
私たちは長い間、それを進歩だと考えてきました。確かに、そのおかげで暮らしは便利になりました。でも最近、少し考えます。
私たちは「余白」まで無駄だと思って、削ってしまったのではないだろうか。
予備の電源。余分な在庫。地域で作る食料。何も予定のない時間。近所で助け合える関係。
すぐには利益にならない自然。
それらは、平穏な時代には無駄に見えるかもしれません。でも変化の大きな時代には、そういうものが最後に私たちを支えるのではないでしょうか。
明日の朝も、また天気予報を見る
2026年は、異変が始まった年ではありません。ずっと前から進んできた変化が、暮らしの近くまで来ていることに、私たちが気づき始めた年なのかもしれません。
世界が本当に危険な方向へ向かっているのか。どこまでなら適応できるのか。私にはまだ分かりません。
明日の朝も、たぶん私は天気予報を見ます。子どもの水筒を確認します。冷蔵庫の中を見ます。電気をつけます。
ニュースを読みます。
そんな何でもない一日が続いていくことを、私たちは「普通」と呼んでいます。でも普通の暮らしは、何もしなくても続くものではありません。
自然。エネルギー。物流。地域。
家族。
そして、誰かが困ったときに差し出せる少しの余裕。たくさんのものが支え合って、ようやく一日の暮らしができています。だから私は、2026年の世界を見ながら、こんなことを考えています。
余白は、無駄ではない。
それは、何かが起きたときに壊れないための場所です。そして、何かが壊れてしまったときに、もう一度立て直すための場所でもあります。子どもたちが大人になる世界に何を残したいかと聞かれたら、私は案外、この「余白」と答えるのかもしれません。
