[余白物語_2]正解じゃない椅子
その椅子には、名前がなかった。
正確に言えば、
「正解」と呼ばれる名前だけが、
最初から与えられていなかった。
背もたれは少し低く、
脚は揃っているのに、
わずかに高さが違う。
座れないわけじゃない。
でも、
長く座る前提で作られていないようにも見える。
部屋には、
いくつかの椅子が並んでいた。
正しい角度。
正しい高さ。
正しい用途。
誰が見ても
「これが正解だ」と分かる椅子たち。
人は自然と、
その中から一脚を選ぶ。
選ばれなかった椅子は、
端に寄せられる。
その椅子も、
最初は端にあった。
誰かが座ると、
少し音が鳴る。
不安定に見える。
完璧じゃない。
「それ、正解じゃないよ」
そう言われたことが、
一度や二度じゃなかった。
それでも、
その椅子はそこにあった。
壊れもしないし、
消えもしない。
ただ、
誰にも勧められないまま、
静かに置かれていた。
ある日、
一人の人がやってきた。
急いでいる様子もなく、
かといって、
何かを探しているわけでもなさそうだった。
部屋を見渡し、
正解と書かれた椅子を一通り確認してから、
なぜか、その椅子の前で立ち止まった。
座る前に、
少し迷った。
周囲の椅子と比べて、
やっぱり、
どこか頼りない。
でもその人は、
静かに腰を下ろした。
思ったより、
悪くなかった。
しっくりくるわけでもない。
でも、
拒絶される感じもしない。
座ると、
背筋が自然に伸びる。
無理に正す必要がない分、
自分の重さがそのまま伝わってくる。
しばらくして、
その人は言った。
「ここ、
ちゃんと座れますね」
誰に向けた言葉でもなく、
確認するような声だった。
時間が流れた。
正解の椅子に座った人たちは、
それぞれの役割を終えて、
立ち上がっていく。
誰も、
その椅子のことを気に留めない。
でも、
その人だけは、
まだ座っていた。
途中で立ち上がる必要がなかった。
正しい姿勢を保つ努力も、
間違えないように気を張ることも、
必要なかった。
ただ、
座っていられた。
やがて、
部屋の明かりが少し落ちる。
「正解」の文字が、
見えにくくなる。
そのとき初めて、
椅子の違いは、
ほとんど分からなくなった。
その人は、
ゆっくり立ち上がり、
振り返らなかった。
椅子は、
そこに残った。
正解でも、不正解でもなく、
使われた痕跡だけを残して。
翌日、
その椅子は
また端に寄せられていた。
でも、
床にはわずかな跡が残っていた。
「誰かが、
ここに座っていた」
それだけが分かる、
小さな跡。
正解じゃない椅子は、
今日もそこにある。
選ばれなくても、
説明されなくても。
必要な人が来たときだけ、
静かに、
座られる場所として。
余白
正解じゃない椅子は、
失敗の代用品じゃない。
まだ名前がついていないだけの場所だ。
誰かがそこに座ったという事実が、
正解の代わりになることもある。
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