名曲の誕生秘話|2度の困難を乗り越えた希望の歌
こんにちは。ショウイチです。
今回は、名曲『What a Wonderful World(この素晴らしき世界)』を取り上げたいと思います。
子供の頃、この曲を聴いた時、ガマガエルのようなガラガラ声に対して醜く感じてしまったことを覚えています。さらに、ルッキズム的な視点からあまりいいと感じませんでした。子供って残酷ですよね。
時は過ぎ、年齢とともにそう言った考え方は変わっていきました。他の歌手がどれだけの美声でこの曲を歌っても、結局オリジナルのルイ・アームストロングが歌ったガラガラ声が一番しっくりきました。なぜでしょうか?
人は、成長するごとに考え方も変わり、分からなかったものが理解できるようになるのです。本人も知らず知らずのうちに心に芽生える「魂の鼓動」のようなものが、この名曲からは伝わってきます。
この名曲に秘められた想いとはどんなものだったのでしょうか?
長く残る芸術には、どのような視点や秘話があったのか?
これから、それをゆっくり、じっくりと解きほぐしていきたいと思います。
みなさんは、そんな秘話があったのかと驚かれるでしょう。
少し長くなりますが、最後までお付き合いいただきたいです。
1.『この素晴らしき世界』は、なぜ生まれたのか?
1968年に発表された『What a Wonderful World(この素晴らしき世界)』。
「緑の木々」「青い空」「赤いバラ」──。
ただ穏やかな世界を歌った一曲だと思っている人も少なくありません。しかし、この歌が生まれた時代を知ると、その印象は大きく変わります。
この曲は、平和な時代に生まれた歌ではありませんでした。
その理由は、これからお話しするルイ・アームストロング自身の人生と時代背景が大きく関わっています。
2.貧困と差別の中で育った少年とその後
ルイ・アームストロングは1901年、アメリカ・ニューオーリンズの貧しい家庭に生まれました。
幼い頃から人種差別と貧困に囲まれ、少年院でコルネットを手にしたことが、彼の人生を大きく変えます。
その後、卓越した演奏技術によってジャズ界の頂点へと上り詰めますが、成功しても差別が消えることはありませんでした。
南部では白人と同じホテルに泊まれず、客席は人種によって分けられ、黒人音楽家として数え切れないほどの屈辱を味わいます。
それでも彼は音楽をやめませんでした。
怒りを音楽に変え、人々を笑顔にすることを選び続けたのです。
さて、一つ一つ紐解きましょう。
3.少年院でコルネットを手にしたことがキッカケ
少年院でコルネットを手にしたというエピソードは、のちに「ジャズの父」と呼ばれるルイ・アームストロングの人生において、音楽(楽器)との運命的な出会い果たし、人生が180度ガラリと変わった決定的な転換点になりました。
少年時代のルイは、ニューオーリンズの非常に貧しいスラム街で育ちました。1912年の大晦日の夜、11歳だった彼は新年を祝うために仲間たちとふざけ合い、ピストル(銃)を空に向かって発砲してしまいます。それが警察官に見つかって現行犯逮捕され、非行少年たちのための施設(少年院・孤児院)送られてしまいました。この逮捕がなければ、彼のその後の人生は全く違うものになっていたはずです。
けれども、その施設には、音楽を通じて少年たちを教育・更生させる熱心な指導者(ピーター・デイヴィス教官)がいました。最初、ルイは希望していたコルネットではなくタンバリンやドラムを任されていましたが、やがて念願のコルネット(トランペットによく似た金管楽器)を手にすることになります。 彼はこの楽器を手にしたときのことを、のちに「自分と音楽が結婚した時だった」と表現するほど、強烈な情熱を傾けました。
当時の彼にとって、少年院での生活は過酷なものでしたが、「コルネットを吹けるならどんな雑用も苦にならなかった」と言うほど、彼は楽器に夢中になりました。生まれ持った抜群のリズム感や肺活量、そして音楽への才能が一気に開花し、施設内のバンドで頭角を現すことになります。
一歩間違えれば犯罪や貧困の連鎖の中で埋もれてしまうはずだった一人の少年が、音楽(コルネット)の力を借りて自らの人生を切り拓き、世界的な芸術家への道を歩み始める「すべての出発点」になったのですね。
4.ジャズ界のトップへと上り詰めるサクセスストーリー
ルイ・アームストロングがニューオーリンズの貧困からジャズ界の頂点へと上り詰めた過程は、まさに「個人の才能と革新性が、一時代の音楽の歴史を塗り替えたサクセスストーリー」です。
その歩みを、時系列で見ていきましょう。
①どん底からの出発(ニューオーリンズ時代)
1901年、ニューオーリンズの極貧の地区で生まれた彼は、幼い頃から働きに出る生活を送っていました。11歳の時に銃の空撃ち事件を起こして少年院送りとなりますが,そこで音楽指導者と出会い、コルネットを手にしたことで音楽の才能が一気に開花します。先ほどお話ししたことですね。
少年院を出た後、地元の天才コルネット奏者であったキング・オリバー(Joe "King" Oliver)に可愛がられ、彼の背中を追いかけて腕を磨いていきました。ミシシッピ川を往復する蒸気船のバンドなどで演奏経験を積み、楽譜の読み方やプロとしての技術を叩き込まれました。
②シカゴへの進出と「ソロ」の確立(1920年代前半)
1922年、師匠であるキング・オリバーに請われて当時ジャズの中心地の一つだったシカゴへ移り、「オリバーズ・クレオール・ジャズ・バンド」に加入。彼の演奏は瞬く間に評判となりました。
バンドのピアニストだったリル・ハーディン(のちの妻)から「あなたはバンドの片隅にいる器ではない、もっと主役になるべきだ」と強く背中を押され、独自の道を歩み始めます。一時期ニューヨークの有名楽団(フレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラ)で腕を鳴らしたのち、再びシカゴへ戻りました。
③歴史的名盤の誕生と「ジャズの黄金律」の決定(1925年〜1928年)
「ホット・ファイブ」「ホット・セブン」の結成をした彼は、自身の名義でレコーディンググループを結成し、歴史に残る数々のセッションを行いました。
それまでのジャズは「全員が同時にアドリブでドンチャン騒ぎをする(集団即興)」スタイルでしたが、彼は圧倒的な技術で「主役が前に出て華麗にソロをキメる」という現代のスタイルを定着させました。彼の吹くトランペットの音色、抜群のノリ(スウィング感)、そして歌の代わりに声を楽器のように響かせる「スキャット」の技術は、当時の音楽家たちに衝撃を与え、誰もが真似る「絶対的なお手本」となりました。つまり、音楽界の常識を破壊をしたと言えるでしょう。
④世界的なポップアイコン、そして「サッチモ」へ(1930年代以降〜晩年)
1930年代以降はビッグバンドを率いたり、映画やラジオに多数出演したりして、アメリカ国外(ヨーロッパなど)へも進出。国境や人種の壁を越えたスーパースターとなりました。
1947年からは小編成のバンド「オール・スターズ」を結成し、世界中を飛び回って「音楽の外交官」と呼ばれました。1964年には、当時のビートルズ全盛期の中で『ハロー・ドーリー!』が全米チャートの1位を記録するなど、生涯現役を貫きました。
少年時代の逮捕という絶望的な淵から、自らの「音」一筋で這い上がり、ジャズという音楽そのものの形を定義して世界を征服しました。彼の頂点への道のりは、個人のエネルギーが世界を変えた最高の軌跡を描いていますね。
5.「ジャズの父」と呼ばれた理由
ルイ・アームストロングは「ジャズを発明した人」ではありません。
ジャズはニューオーリンズで自然に生まれた音楽です。
しかし彼は、それまで複数の演奏者が同時に即興演奏するスタイルだったジャズに、「ソロ」という新しい価値を与えました。
トランペット一本で物語を語るような演奏。
歌うように吹く表現。
そして独特のスウィング。
現代ジャズの基本形を作り上げたことから、「ジャズの父」と呼ばれるようになったのです。
6.激動の1960年代
1960年代のアメリカは、希望よりも不安に包まれた時代でした。
ベトナム戦争は泥沼化し、若者たちは戦場へ送られていきます。
一方、国内では公民権運動が続き、人種差別を巡る衝突や暴動が各地で発生していました。
街には怒りがあふれ、社会は深く分断されていました。
ルイ・アームストロング自身も1957年のリトルロック高校事件では、政府の対応を厳しく批判しています。
普段は政治的発言を控える彼が、公然と怒りを表したことは当時大きな話題となりました。
彼は、決して現実から目を背けていたわけではありませんでした。有名になりながら、現実を誰よりも知っていた人でした。
公民権運動で黒人として同胞のために戦っていたんですね。日本にそんな覚悟ができる有名人がいるのでしょうか?ほとんどの人が、権力に寄り添う態度を示すことを考えると非常に感慨深いですね。
7.「世界は本当は美しい」
そんな時代に、一つの企画が持ち上がります。
「憎しみではなく、希望を歌う曲を作ろう。」
作曲したのはジョージ・ダグラスとジョージ・デヴィッド・ワイス。
殺伐とした世の中だからこそ、人間の優しさや子どもたちの未来を歌いたい。
そんな願いから生まれたのが『What a Wonderful World』でした。
この曲を歌える人物は誰か。
その答えが、ルイ・アームストロングだったのです。
8.深夜2時、ラスベガスのレコーディング
1967年8月16日。
場所はネバダ州ラスベガス。
当時ルイはトロピカナ・ホテルで毎晩ショーに出演していました。
公演を終えたあと、深夜2時頃からスタジオへ向かいます。
疲れ切った身体で始まったレコーディング。
しかもスタジオの近くには線路があり、貨物列車が通るたびに録音は何度も中断しました。
朝方まで続いたセッション。
その長い夜の末に、一つの歴史的な録音が完成します。ここから、一気にブレイクすると皆さんは考えますよね?それでは続きをどうぞ。
9.レコード会社は、この曲を評価しなかった
ところが完成した曲は、所属レコード会社の社長には気に入られませんでした。
彼が望んでいたのは、『Hello, Dolly!』のような陽気でアップテンポなヒット曲でした。
静かなバラードである『What a Wonderful World』は「売れない」と判断され、アメリカではほとんど宣伝されなかったのです。
せっかく録音したにもかかわらず、本国では埋もれてしまいます。
しかし!!
海を渡ったイギリスでは、人々の心をつかみ、チャート1位を獲得しました。評価されなかったのはアメリカ市場においてだけだったのです。
10.ルイは、その奇跡を見ることなく旅立った
1971年。
ルイ・アームストロングは69歳でこの世を去ります。
彼が心を込めて歌った『What a Wonderful World』が、生前、本国アメリカで本当の意味で評価される日を見ることはありませんでした。
11.20年後に起きた奇跡
1987年。
映画『グッドモーニング, ベトナム』で、この曲が印象的に使用されます。
ロビン・ウイリアムズ主演の映画ですね。またどこかで、この名映画についても紹介したいのですが、今回は先に進みます。
戦争の悲惨な映像の中に流れる、
"I see trees of green..."(歌の歌詞)
そのコントラストは、観客の心を強く揺さぶりました。
不思議なものですね。平和や愛を唄うこの曲が、ベトナム戦争という悲惨な状況を題材とした映画で取り上げられて価値を再認識されるとは。
一応、『グッドモーニング, ベトナム』を簡単に説明すると、ベトナム戦争時に米軍兵士に向けたラジオのDJのお話しです。実話をもとにしていますが、フィクションが含まれています。
1965年にベトナムのサイゴン(現ホーチミン)にある米軍放送(AFVN)でDJを務めた、実在のエイドリアン・クロンナウアー(Adrian Cronauer)さんがモデルになっています。当時の堅苦しい軍の規定を無視してロック音楽を流し、兵士たちの絶大な人気を集めたそうです。
映画の公開をきっかけに、この曲はアメリカでも再評価されます。
翌1988年には再発売され、ビルボード・チャートにもランクイン。
ようやく祖国アメリカが、この歌の価値に気づいたのです。
それはルイが亡くなってから、およそ20年後のことでした。
ちょっと悲しい話ですね。本人が亡くなった後に価値の再発見がされた形です。ゴッホの絵と似ていますね。
12.あの「しゃがれ声」にしか歌えなかった
若い頃、この声を「もっときれいな声ならいいのに」と感じた人もいたかもしれません。
しかし人生経験を重ねるほど、不思議とあの声が胸に染みるようになります。
あのハスキーボイスは、生まれつきではありません。
長年の酷使、病気、そして声帯手術。
数え切れない傷を負った末に生まれた声でした。
だからこそ、
"And I think to myself... What a wonderful world."
という最後の一節には、他の誰にも出せない説得力があります。
苦しみを知らない人の楽観ではなく、苦しみを知り尽くした人が、それでも世界を信じようとする言葉だからです。彼はエリートではありませんでした。苦難の道のりの中で、一つ一つ積み上げてきた歌声と優しさがありました。そう言った彼の人生観が詰まった曲と歌声だからこそ、いまだに多くの人々に訴えかけるパワーがあるのでは無いでしょうか?
13.「この素晴らしき世界」は、理想ではなく決意だった
この曲は、世界が素晴らしいと現実を美化した歌ではありません。
戦争も差別も、憎しみも、怒りも知った一人の音楽家が、
「それでも人は愛し合える。」
「それでも世界には美しいものがある。」
そう信じることを選んだ歌です。
だから半世紀以上が過ぎた今も、国境や世代を越えて人々の心を動かし続けています。
『What a Wonderful World』。
それはルイ・アームストロングが人生の最後にたどり着いた、「希望」という名の祈りだったのかもしれません。
ここまで見てきて、皆様はどう感じられたでしょうか?
ぜひコメント欄でお聞かせください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
See you next time.Bye.
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