【掌編】『ラップはやめて』
娘は、まだ大きすぎるランドセルを放り投げると笑顔で何度かジャンプした。彼女のお気に入りの『オーストラリアのおばさん』が、遊びに来ると知ったからだ。
「ねえ、おばさんの好きな食べものは?」
それは、ごく自然な問いかけだった。
◇
お気に入りの食べもの、--明石焼き、麦とろ...…それから、チーズで日本酒をやるのも好きだ--。それは、君の好きなもので、いつからか僕も好きになっていた。
初めて食べたのは君と一緒だった。君は新しいスキに感応するアンテナを持っていて一緒にいて飽きることがなかった。引っぱり回されるのが楽しかった。
◇
チーズはラップで包んじゃだめよ。
呼吸できるようしないとね。
「ねえ、どうしてチーズにカビが生えるの?」
「ばかやろう! 早く食わねえからだ」
林家彦六じゃねーよって笑い合う茶番にも君は付き合ってくれた。
チーズは、ちゃんと紙で包んでおくものらしかった。
何事もちょっとした手間が大事なのよ。
◇
手間をかけなかったのは僕の過ちだった。気が付いたら一緒に暮らしていた同い年の僕ら。ほんの少しの間だけと高を括ってお手軽にさっとラップをかけて放っといた。
だらだらと留年を繰り返すダメ学生の僕を横目に見て、君は毎日、満員電車に詰め込まれて呼吸困難になってしまった。
呼吸のできない僕らの恋はラップの中でカビていった。
命からがらラップからこぼれ落ちたチーズは、海を渡ってオーストラリアまで転がっていった。
きちんと紙で包み直そうとしたけれど、もう遅かった。
◇
「おとうさんが言いたいのは、好きな食べ物はチーズってこと?」
「うーん、まあね」
「おとうさんとおばさんって仲良しだよね?」
ギクリとする。
娘と二人、明日に備えてスーパーマーケットで買い物をした。もちろん、極上の日本酒とチーズは忘れなかった。
◇
珍しく夜更けまで眠れなかった。疲れが溜まるばかりで、抜けないのは年齢のせいだけか? いつもは、もう寝ている時間になってもオーストラリアの生活ぶりを紹介するWebページをいくつか眺めていた。
親娘二人で移住するために必要なものは? などと、考えていることに気がついて苦笑した。もう寝よう。
呼吸ができなくなる前にできることは? 『オーストラリアのおばさん』ならどう答えるのだろう。
明日、聞いてみよう。
(950文字)
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以上、こちらへの応募作品です。
よろしくお願いいたします。
