感じたり、考えたり、問うたり―映画『聴く隣人のいるところ』を観て
私は20年ほど前にキリスト教愛真高校(以下、愛真)を卒業した。
愛真は、わたしにとって大切な場所のひとつである。人はその人自身を形作るなかで、いくつかの大きな節目を経験する。わたしにとって、思春期というアイデンティティ形成の大きな時期を愛真で過ごした経験は、今振り返ってもかなり大きなものだった。
その愛真がドキュメンタリー映画『聴く隣人のいるところ』(以下、映画)としてスクリーンに映し出されることになった。監督は、私と同じく愛真の卒業生であり、同期である。
今6月に封切られてから、この映画はおおむね高い評価を得ているように思う。このドキュメンタリー映画が封切られる前後、わたしはSNSなどで積極的に宣伝をしていたし、いまも応援している。多くの人が共感的に愛真を知ってくれたことは素直に嬉しい。
一方で、称賛する言葉を目にするたびに、自分の中でモヤモヤが大きくなっていったのも事実だ。それを言葉にしてみたい。言葉にしないで抱えておくままだと自分のいまの日常が前に進んでいかないような感覚があるからだ。
個人的な記憶と、「詰まり」
観た直後の率直な感想は、愛真の今の日常のきれいな部分がきれいにまとまっている、というものだった。そして、何かすぐには言葉にしきれない「詰まり」があり、あまり称賛できない自分がいた。
この映画は「場の人間関係そのもの」を撮ったものだという。
私の愛真での人間関係は、いま振り返っても苦々しく感じ、忘れてしまいたい記憶もある(そうでない記憶もある)。親しい人同士の何気ないやりとりの中で、からかわれたり、身体的な特徴を笑いの対象にされたり、私が望まない形で「滑稽な存在」として扱われたりすることもあった。もちろん、思春期という多感で未熟な時期の出来事でもあり、わたし自身も誰かを傷つける側にいたことがあると思う。また、記憶は曖昧なものだ。だから、ここで当時の関係を一方的に断罪したいわけではない。
でも、この映画に映し出される人間関係に、そういった関係性の暴力が映し出されていない(と感じた)。誤解しないでほしいが、ここでいう「関係性の暴力」とは意見の対立のことでは決してない。また、明確ないじめだけを指しているのでもない。親密さの中で生まれるからかい、相手の身体へのまなざし、誰かを笑いものにすること、本人が拒みにくい関係の中で行われる侮辱的な言動など、日常の中では見過ごされやすいものも指している。
映画の中で愛真は、対話的で、自由で、互いの声を聴き合う共同体として描かれている。レビューの中には「きれいなところだけを映していない」というような評も多いが、果たして外部の人間(卒業生とはいえ)に「きれいなところ」以外を開示できるものだろうか。映画に描かれていないからといって、そうしたものが存在しないということはできないし、どの共同体であっても、外に見せられない関係はあると思う。
もちろん、いまの愛真は私が在学生の時よりも関係性の暴力が少ない可能性はあるだろう。だから、私はありのままを映していないから欺瞞だ。とか、いまの愛真の「恥部」を暴くべきだった。とか、そういうことを言いたいのではない。ただ、映画を観て、ひとつの共同体を特定の人の視点で映像として切り取るとき、どのような人間関係が「共同体の日常」として可視化され、どのような関係性が映像の外側に置かれるのか、ということを考えたし、「愛真のきれいな部分がきれいにまとめられている」と、感じた。ドキュメンタリーとはそういうものだと言われてしまえば、そうなのかもしれないが、それでは身も蓋もない。であれば、ドキュメンタリーって一体なんなんだろうかと、そもそも論が頭をもたげるが、いまはそこをつっこむつもりはない。
ともかく、かつて自分が身をおいたあの場で経験したことは、それがどんなに苦々しく忘れたいものであっても、今の自分を形作るかけがえない経験のひとつと思うからこそ、誰かの枠組みで記録されたものでもって、あの場を容易に理解・解釈されたくないという抗えない思いが、映画を称賛したくても出来ない「詰まり」の原因だったのだと、振り返って思う。
ところで、今回、この文章を書くために映画の特報を観たが、その中で生徒たちの合唱が映し出されている。そのハーモニーを聞いた時、涙がこみあげた。合唱コンクールで聞くようなピシッと整ったハーモニーではない。でもなんと美しいのだろう。
ドキュメンタリーについて
映画を観て、監督の舞台挨拶を聞き、またパンフレットでの監督の言葉も読んで、彼がかなり誠実に撮影・制作したことが分かった。これはわたしにとって大きなことだ。
経緯の詳細は省くが、ドキュメンタリーというものに対して、最近わたしは不信感を持つようになっている。被写体を単なる作品づくりの材料として扱ってしまっているような制作者(その作品は大変話題になっているが)の存在を知ったからである。
でも、この映画は、被写体である生徒や教職員を自分の作品のために利用はしてはいない。それは信じられる。DVD化やオンライン配信の予定はないというのはその表れのひとつだろう。
しかし、どんなに誠実に撮った作品であっても、そこに作り手自身が意識していない何かが入り込む可能性を次に問うていきたい。
どのように映されているか
特報でも流れるが、映画冒頭に生徒たちが連れ立って声を上げながら海に飛び込むシーンがある。飛び込むのは男子生徒たちで、女子生徒はそこに加わっていない(いるのかもしれないが、私が観察した限りではいなかった)。この場面だけを取り出して「女性を排除している」と言うつもりはない。実際にそのとき、女子生徒たちが海に入りたかったのかどうかも、わたしには分からない。しかし、映画という表現の中で見ると、この場面は象徴的に見える。
男子生徒は、歓声を上げ、身体を動かし、海へ飛び込む「行為する主体」として描かれる。一方で女子生徒は、その光景を浜辺から「眺める側」に置かれている。
また、夕会や卒業感話のような、一人の語りにフォーカスされる場面では、わたしが数えた限り、映画で映った5人か4人のうち女子生徒は1人だけだった。作中で個人に対して行われるインタビューはひとつだけだったと思うが、それも男子生徒だった。
映像には女子生徒も男子生徒も映っている。話し合いや日常の場面といった複数の人間が同時に写される場面では女子生徒も発言しているし、男女関係なく対等に話している印象だ。ただし、全体の話し合いの場面では、男子生徒の発言のほうが多かったと思う。そして、「この人は何を考えているのか」「この人は何を経験したのか」「この人は何者なのか」と、個人の内面に焦点が当たる場面は男性が多い。教職員についても同じような印象を受けた。
もちろん、女子生徒の個人性がまったく描かれていないわけではない。映画の象徴的な場面の一つに、女子生徒が自分で作詞作曲した曲をピアノで弾き語りする場面がある。ちなみにこの場面で、わたしは涙した。だからこそ、気になる。愛真という場で個人として語ったり表現したりするのは男女関係ないにもかかわらず、それでもなお、映画のなかで「自分の経験や想いを語る個人」としてフォーカスされるのは、男子生徒に偏っているように感じられるからである。
映画に男性の姿がより多く映っていることには、さまざまな事情が考えられる。たとえば、監督が男性であるため相対的に男子生徒の行動圏に入っていきやすく、結果的に接触が多かったというのはあるだろう。また、身体を動かす場面や映像として強い印象を残す場面が選ばれた結果、男子生徒の姿が多くなったのかもしれない。卒業生である監督自身の愛真での記憶や経験が、意識的か無意識か、対象の選択に影響を与えたこともあるだろう。
しかし、問題は男性と女性がそれぞれ何人映っているかということではない。どのような位置に置かれているのかということである。男性が「自分の経験を語り、自分の内面を見せ、自分の生き方について考える個人」として繰り返し提示され、女性よりも男性にその回数が偏っているのであれば、そこには考えるべき問題がある。
私は「監督が男性だから男性を中心に撮った」ということを問題にしたいのではない。
最終的にどのような映像が選ばれ、誰の内面や経験が観客の前に提示されたのかを見る必要があると言いたいのだ。
そして、ここから「聴く」という映画のテーマにもつながってくる。
誰の声が聴かれるのか
『聴く隣人のいるところ』というタイトルが示すように、この映画は、人と人とが互いの声に耳を傾けることをテーマとしている。ここでいう「聴く」とは、その人の言葉を聞くことだけではなく、「この人には固有の経験や想いがある」一人の人間として向き合うということであると思う。
では映像で「聴かれる人」として誰が提示されているのだろうか。もちろん、女性も発言しているし、女性の声が排除されているわけではない。それでも、個人の経験や葛藤、考えを語る印象的な場面が男性に偏っているとすれば、それは映画では男性が「聴かれる人」の表象になっているということではないだろうか。
普遍性の表象は誰か
監督は、パンフレットの中で「普遍的なものを表現したかった」という趣旨のことを書いている。この映画が愛真という特殊な学校の紹介にとどまらず、そこから「普遍的なもの」を伝えようとしているのであれば、その普遍性についても問い直してみたい。たとえば、「人間とは何か」という普遍的な問いを考えるとき、わたしたちは誰を「人間」の標準として考えているのだろうか。
男子生徒が、自分の経験や考え、葛藤について言葉で語る。その語りは、その男子生徒個人の経験であると同時に、「人間とは何か」という普遍的な問いとして観客に受け取られうる。一方、女子生徒も共同体の中にいる一人の人間として描かれている。しかし、自分自身の内面や経験について語る個人としてフォーカスされる場面は、男子生徒に比べて少ない。
普遍性を表現しようとするとき、意識的か無意識かにかかわらず、男性を「人間」の標準として捉えやすい社会構造があり、それがこの映画にも入り込んでいるのではないか。それを問いたい。そして、これは監督個人だけに帰す問いではない。
私が経験した愛真はどうだったろうか。
「人間」とは誰なのか
作中に紹介される創設者・高橋三郎の言葉、「みなさん 自由であってください そうして真実であってください」に象徴されるように、愛真は自由で真実な主体者としての人間の育成を掲げている。
しかし、わたしは在学中から、どこか違和感を持っていた。そこでいう「人間」とは誰なのか。当時はモヤモヤとした違和感があるばかりだったが、いま振り返って言葉にすると、愛真がいう「人間」を追求するほどに、女性である自分が疎外されているように感じていたのだと思う。
わたしは、愛真の教育が「男性を標準としている」と断じたいわけではない。でも、少なくとも私自身が在学していたころ、男性を標準とする社会構造そのものが、十分に問い直されているとは感じられなかった。
日本では、男性は自分の考えを語り、議論し、葛藤し、自分の生き方を選択する「一人の人間」として扱われやすい。一方で女性は、他者との関係をつくり、場を支え、ケアする存在として期待されやすい。そのような社会において、「男だからこうしろ」「女だからこうしろ」と言っていないだけでは、ジェンダー平等を実践しているとは言えない。誰が「主体」として扱われやすく、誰がその周縁に置かれやすいのかがまず問題として明らかにされる必要がある。
愛真が日本社会にある学校である以上、社会構造に影響されることは必然だろう。だからこそ、愛真が掲げてきた「自由」を大切にするならば、その構造を問い直すことは必要不可欠だと思う。
だからこそ問う
自由を大切にするのであれば、誰が自由になりやすく、誰が自由になりにくいのかまで問う必要がある。自分で考えることを大切にするのであれば、誰が「自分の考えを持つ主体」として扱われているのかを考える必要がある。「人間とは何か」と問うのであれば、その「人間」は誰なのかを考える必要がある。「隣人の声を聴く」のであれば、誰の声が聴かれ、誰の声が聴かれにくいのかも考える必要がある。
監督は、誠実にカメラを向け、愛真という場を記録した。だからこそ、少なくない人の心を動かしたのだし、その根底には、彼自身の愛真を大切に想う気持ちがあったのだろう。それは、わたしも同じである。わたしも愛真を大切に想っている。この映画が世に出たことで、愛真という学校が多くの人に伝わった。そのことをわたしは素直に喜びたいし、作った監督に感謝している。だからこそ、問う。
さいごに
この映画は公開中であり、わたし自身もまだ2度しか観ていない。だから、作品についての認識に誤りがある可能性はある。もし事実関係や作品の読み方について誤りがあれば、指摘してほしい。また、この文章そのものも批判的に読まれ、問いを向けられるかもしれない。その覚悟を持ちたい。
映像であれ何であれ表現され公にされたものは、その作り手の意図から離れて様々に受け取られる。だから作り手は多かれ少なかれ覚悟を求められる。自分をさらけ出して自分の愛する場を映像に残したことへの監督の覚悟に敬意を表し、文を終えたい。(2026年8月12日 記)
