父不在の7年間
表題の通り、我が家には母子家庭だった期間がある
我が家は子どもが物心着く前に父親を退いていただきましたので、ちょっと息子の成長には大きく影響を与えてしまいました。言葉を話す前から彼には父親がいなかったので、物心つく頃は、大人の男の人に対しどうリアクションしていいのか解らなかったらしく、小学校低学年のころの彼は、男性に対し若干へらへらしてしまっていました
そんなわけで1年生の頃の彼の精神は暗中模索、周りに対しては少々手のやける子どもでした。それを助けてくれたのは、彼が2年生の時にお世話になった体育会系の先生でした
だれに言われたのか、息子は「男だから」おまえがおかあさんとおねえちゃんを「守らなければいけない」と吹き込まれたらしく、頑なで、ケンカをすれば勝つまで向かい、なにをしてもされようとも決して涙を見せずに突っぱね、喜怒哀楽のないただひたすらに我慢の子だった
子どもなんだから、まだまだそんなに「頑張らなくていい」
泣いてもいいし、わがままを言ってもいいんだよ
おかあさんが助けてほしいときは、ちゃんと言うから「我慢しないで」
でも、わたしの声は聞こえていなかった
悪さをしたわけではなく、ただ頑固で踏ん張っていた彼は、周りの大人から見れば生意気でいうことを利かない子。うまく言葉にできない感情は怒りでしか示すことができずに、叱られるばかりでなにもいいことのない毎日を過ごしていた
ある時、担任の先生は彼を、1年生のクラスに連れて行き「ここに戻りたいか」と言ったらしい。詳しいことは聞いていない。学校でのことだったし、彼も小さくて当時のことをざっくりとしか覚えていないらしい。だが、ちゃんと人の言葉に耳を傾けられないと「ここに戻ることになる」と、なにか息子自身が悔しくて泣けてしまうようなことを言われたらしいのだ
それまで、机の上に教科書が載っていなかった息子は、きちんと教科書を開き、宿題を一切やらなかった息子は、児童クラブで宿題を終え、プリントを持ち帰らずにごみ箱に捨てていた息子は、連絡帳もきちんと書くようになった・・・・
あそこで先生が根気よく付き合ってくれなかったら、息子にはわたしの声が聞こえないままだったかもしれない
でも、そんな風に導いて貰えた息子は、運が良かったのかもしれないとも思うのだ
娘が3歳になる年、息子は1歳半でまだ口もきけなかった頃、我が家の父親は空席になった
別れた夫はもともと友人だったので、その関係性は今も変わらずにある。だからこそ「なんで別れたの?」と言われてしまう要因で、またそこがややこしい部分ではあるが、友だちでいる分には申し分のない「いいひと」だということなのだ。向こうにとってのわたしの立ち位置はまた、そういうわけにはいかないのかもしれないが・・・・
子育ての時、わたしには夫の存在がないことがプラスに転じた…と言うと語弊があるかもしれないが、これは「結果的に良かった」ということなのでここは軽く流してほしい。子どもたちの父親は、性格がマウンテンだったので、子どもたちの前でわたしをバカにするタイプの人間だったからだ
母親が家庭内で、父親にバカにされた態度を取られているとどうなるか…当然、子どもは母親をバカにして育つだろう。一家の長が父親であれば、当然に右へ倣えになるのは必至。たとえ、バカにするまではなくとも「うちのお母さんはバカなんだ」とは思うかもしれない。でもそれは「子育て」にとってとても邪魔な思考ではないかと思うのだ
案の定たまに現れる父親が、いつもの調子でわたしをけなすものだから、子どもたちはあまり彼をよくは思っていなかった
「どうしてお母さんの悪口言うの」「お母さんが嫌いなの?」…たとえ親し気な会話だったとしても、子どもたちにはそう感じていたようだ
父親は物心つく前からいなかった。だから申し訳ないが「あのひと」と呼ばれた
あまりいい影響はないと思い、要求がない限り子どもたちには会わせない方がいいと考えた。もっとも彼は、1年も経たないうちに再婚したので、そんな要求もなかったのだが・・・・
結果論ではあるが、我が家庭内に、わたしをバカにする人間はひとりもいなかった。当然である、わたしが世帯主なのだから・・・・
たとえわたしの母親や身内がわたしをバカにしようとも、わたしは「長女」で、大変偉そうな態度をとる長子だったので、子どもたちにわたしが「無知である」という刷り込みはなかったようだ。だが代わりに、わたしの妹がおバカ扱いされることになってしまったのだが、当時の彼女は未婚だったし、それはそれで仕方あるまい
片親であることはそれほど珍しいことでもなかったけれど、わたしの中にはいつまでも子どもたちに対する罪悪感があった。だから、子どもの前で弱音を吐いてはいけないと思い「なんでもできるおかあさん」であろうとした
それがいつの間にか「なんでも知ってるおかあさん」に変わり、厄介なことにわたしは、子どもたちの前で「知らない」と言えなくなった。しかしわたしは天才ではないし高学歴でもなかった。天才ではないが口は達者な方だ。だから「知らない」とは言わずにうまいこと誘導して自分たちで答えを出せるよう導いた。これは不幸中の幸いというやつで、おかげで「好奇心」が育った
そのうち「お母さんは知ってるよね」という問いに「うん」と答えるだけでよくなった。もちろん、そのあと正解を求められることもあったので、密かに携帯でググってはいたけれど・・・・
とはいえ、わたしはそれほど社交的な人間でもなければ、仕事もまともにしたことがなかったため、当初の誓いである「弱音を吐かない」はあっけなく取り下げることになる。もともとヘタレなわたしには仕事その他を当たり前にこなせるわけがなく、すべてがキャパオーバーで毎日が必死。辛くてため息と弱音、愚痴だらけだった
ちちんぷいぷいポポポのプイプイ…と、毎朝子どもたちにおまじないを唱えてもらって家を出た。我ながら情けないとは思うが、不思議と子どもたちの呪文は利いた。気のせいかもしれない…でも、わたしを勇気づけるには充分すぎる呪文だったのだ
自分の中でそのキャパオーバーをどうにか整理するため、家の中でご飯を作るのは「おかあさん」で、外に働きに行くおかあさんは「お父さん」だよ…な~んてわけの解らないことを理解させようとしたこともあった。でも、幼い子どもたちにはおかあさんはおかあさんでしかなく「なんでおかあさんじゃダメなの」と泣かれてしまい、その試みはあっけなく終わった
当時のわたしがなにを思ってそんなことを言ったのか、細かいことは思い出せないが、おそらく母子家庭であることに負い目があったのかもしれない。とにかく「お父さん」「おかあさん」の役割分担がされていれば普通の家庭と同じであるという定義を作ろうとしたのか、とんだ悪あがきだと今は思う
次に、思春期の心配をした。「片親=不良」なんてものが頭にあったのか、それは育て方でどうにでもなるだろうに、よほど自信がなかったと見える。そんな中、会話がなくなることがいちばんマズイと思っていたので、共通の趣味を持とうと考えた。とはいえ、自分にできることは限られていて、プールに通ったり、和太鼓を習ったりするのが関の山だった。どちらもわたしの都合であったが、それなりに楽しかったし、引きこもらずに済んだ。でも仕事が忙しくなったり、子どもが小学生になると、それぞれにやりたいことも出てきて、なかなか3人で一緒に…というわけにはいかなくなり、個々に塾通いをするようになった
心配した会話は、わたしはもともとしつこい性格なので、普段からあれこれ聞きまくる。だから会話がなくなるということはなかった…笑
紆余曲折はあったにせよ、なにげに3人の暮らしは楽しかった。だけど、子どもたちが高学年にもなってくると、おかあさんだけでは足りなくなってくる。田舎は特にお父さんが必要なイベントごとが多かったりするので、わたしには限界がきていた。だからといって都合よくお父さんが見つかるわけではないのだが、それはまたべつのおはなし・・・・
長々と、私事にお付き合いありがとうございました (;^ω^)
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とにかく今は、やり遂げることを目標にしています
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