それぞれの「まんが道」 ー昭和漫画家の残した足跡ー
これまで漫画のルーツを訪ねて日本中を歩いた。昭和の漫画家たちが情熱を捧げた「まんが道」。その原風景を求め、古代から近世へ、奈良、東京、宝塚、境港、そして高岡などに足を踏み入れた。
古代:玉虫厨子の「三コマ漫画」?
何十度目かの奈良訪問。北西に位置する斑鳩は、飛鳥時代の息吹が今も残る聖地である。法隆寺の堂宇は千数百年の風雪に耐え、静かに佇んでいた。西院から東院へ向かう途中にある大宝蔵院は、聖徳太子ゆかりの寺宝を収蔵する宝物殿であるが、百済観音像とともにひときわ目を引くのは国宝「玉虫厨子」である。この厨子は、仏教的な荘厳さだけでなく、当時の工芸技術の粋を集めた美術品として、その精巧な細工と豊かな色彩は特筆に値するが、漫画の歴史を考える上では玉虫の羽を散りばめた絢爛豪華な装飾以上に、側面に描かれた「捨身飼虎図」に注目すべきである。
崖の下で飢えに苦しむ虎が我が子を食べようとする様子を見た王子が自らの身を崖から投げ捨て、虎に捧げることで哀れな虎の子を救おうとする。「捨身飼虎図」は、まるで連続する絵画のように展開されている。明確なコマ割りこそないものの、三コマ漫画のようにストーリーを効果的に配置し、視覚的な流れを作り出すことで、「起承転結(ただし「転」はないが)」を伝えようとする意図が感じられる。これは物語を視覚的に伝える手法の、極めて初期の例として捉えることができる。
しかしその虎や王子には個性が感じられず、現代の漫画のような明確なキャラクター造形とは異なる。漫画にはキャラクターが不可欠である。その源流を求めるならば、やはり東京へ戻るほかない。
中世:「鳥獣人物戯画」擬人化とキャラクター漫画の源流へ
上野公園の一角に佇む東京国立博物館は、展示物によっては長蛇の列をなす。コロナ禍真っただ中の2021年、平安時代後期に描かれた京都高山寺の「鳥獣人物戯画」全巻が公開されると知り、マスク姿で見学に訪れた。擬人化されたウサギやカエルが相撲を取り、サルが人間さながらに宴会を開いたり、木魚を叩いて経を読む姿は、千年という時を超えてなお、見る者の心を捉えて離さない。それぞれの動物の表情や動きは実に豊かに描き分けられ、現代の漫画にも通じるキャラクター造型の面白さに驚嘆した。
動物たちに人間的な感情や行動を与え、物語を紡ぐ手法は、後の漫画家たちに大きな影響を与えたに違いない。「ジャングル大帝」を描く際の手塚治虫はここからヒントを得たのでは、とふと脳裏をよぎった。ちなみに、鳥獣人物戯画は、鳥羽僧正(覚猷)の作とする説が有力であり、彼にちなんでこうした漫画風の絵が「鳥羽絵」と呼ばれるようになった。
近世:江戸文化爛熟と蔦屋重三郎
上野から北東へ向かうと、かつて「不夜城」と謳われた吉原である。周囲は静かな住宅街となっているが、中心街には現代版の「青楼」が溢れている。往時の面影を求め、路地裏を彷徨うと、かつての猥雑で淫靡な「残り香」が感じ取れる。江戸時代、ここは幕府公認の遊郭として、独特の文化を育んだ。華やかな遊郭の建物が軒を連ね、夜になると提灯の明かりが幻想的な雰囲気を醸し出していた様子は、浮世絵からも窺い知れる。
吉原の遊女たちは、単に性の対象としてだけでなく、当時のファッションや流行、文化を牽引する存在でもあった。花魁にもなると教養を兼ね備え、客との知的な会話も求められた。もちろん、ここは子どもたちが歩き回るような場所ではなかった。子ども向けといえば、江戸時代には「桃太郎」などの単純な絵物語である「赤本」も存在した。いわば現代の子供向け漫画の原点といえよう。
一方、吉原は単なる遊興の場に留まらず、教養ある遊女と客が文化交流を深める場であり、時に社会風刺の効いた「狂歌」が詠まれることもあった。そしてその場限りの狂歌の中から秀逸なものを選び、浮世絵とともに刊行した町人がいた。それが蔦屋重三郎である。仲之町通り、すなわち吉原の大通りには「耕書堂」の所在地表示があるが、こここそ彼が子ども向けとされていた絵入りの赤本を、社会風刺を込めた大人向けのものへと変えた、歴史に残る発行元のあった場所なのだ。
バラエティ豊かな漫画の先祖たちを昭和漫画にたとえると
周囲は今なお「遊郭」がひしめき合っているが、ここで発行され始めた洒落本は、遊郭を舞台にした大人の恋愛コメディである。山東京伝の「傾城買四十八手」などは、遊女と客の駆け引きを赤裸々に描き、現代の成人向け漫画に通じる刺激的な内容で、当時の読者を熱狂させた。
一方、庶民の間で人気を博した滑稽本は、笑いを通して世相を風刺するエンターテイメントである。式亭三馬の「浮世風呂」は、様々な人間模様が交差する銭湯を舞台にした群像劇であり、例えば「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を彷彿とさせる。そういえば「こち亀」の主人公である江戸っ子、両津勘吉も何より銭湯が好きだった。また、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は、弥次喜多コンビの珍道中を描き、道中の風景や宿場町の風俗を活写したギャグ漫画の傑作である。漫画ではないが、昭和末期の志村けんと加藤茶が共に旅に出て、馬鹿馬鹿しいことや下劣なことをしまくる姿にも似ている。
さらに、為永春水の人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」は、武家社会を舞台にした身分違いの男女の心の機微を描いた作品である。こうした人情の機微を深掘りする表現は、後の漫画における人間ドラマの描写にも通じるものがある。
また中国の通俗小説を翻案した読本も人気を博した。上田秋成の「雨月物語」は、清朝の怪談「聊斎志異」などから影響を受け、完全に日本化させた十篇の怪談物語であり、言わば水木しげるやつのだじろうなど、昭和末期の怪奇もの、妖怪ものを彷彿とさせる。なお、水木しげるも「水木しげるの雨月物語」として、このうちの数編を現代語の絵物語(漫画)として描いている。翻案といえば曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、「水滸伝」の舞台を房総半島に移し、八名の武士たちが八つの光る玉を集め、御家再興を誓って戦う武勇伝だが、これは後に鳥山明の「ドラゴンボール」の筋書きとなる。
江戸時代後期には、恋川春町の黄表紙「金々先生栄花夢」がプロデュースされた。これには現代の漫画にも通じる吹き出しのような表現が用いられており、現在の漫画スタイルの先駆けとも言える作品である。特に金を巡り、人間の醜さをむき出しにした人々の描写は、言わば「ナニワ金融道」や「闇金ウシジマ君」のような趣がある。
そして、大御所中の大御所、葛飾北斎の、その名も「北斎漫画」は、多様な人物や事物を生き生きと描いたスケッチ集であり、後の日本の漫画表現に大きな影響を与えた。言わば漫画のテキストとも言える存在である。こうした日本の漫画の「誕生前夜」は、男と女が交錯する「悪書」と呼ばれながらも「カネの成る木」として利用される吉原をその舞台としていた。かと思えば反権力の意が強くなると禁書どころか、蔦重に至っては財産の半分も没収された歴史を持つ。しかし、大衆の本音を代弁しながらも、権力者からは目の敵にされ、時には利用されたメディア。これこそ日本の漫画の「立ち位置」だったのだろう。こうして「大衆のメディア」としての漫画は近代を迎えた。
幕末:「ポンチ絵」登場
近代において漫画は西洋からの影響を二度受けた。一度は幕末・明治期の開港地である横浜や神戸、長崎などに居留していた異人たちがもたらした「ポンチ絵」と呼ばれた風刺漫画である。もう一つは、大正時代に日本に入ってきた、フィリックス・ザ・キャットやディズニーをはじめとするアメリカの漫画及びアニメーションである。
「ポンチ絵」は、居留地の英国人ワーグマンらによる英文雑誌「Japan Punch」から来た呼称である。政府批判がご法度の明治時代において、治外法権が認められていた列強の国民は、日本にいながら日本政府を思う存分風刺できたのだ。ちなみに、ワーグマンの洋画における弟子のうち著名なのは、「鮭」で知られる日本初の洋画家、高橋由一である。
明治:「tobae」とは?
日本の漫画への影響としては、その他フランス人ビゴーによる「tobae」の存在も無視できない。明治初期においてはそもそも「漫画」という言葉自体が今のような意味で使われてはおらず、最有力候補が平安末期の鳥獣人物戯画の頃から使われてきた「鳥羽絵(tobae)」を、1887年にもタイトルにしていたのは興味深い。ビゴーの風刺画と言えば、国際情勢を風刺した「魚釣り遊び」や「社交界に出入りする紳士淑女」などが有名である。これは日本のサムライと中国人が朝鮮という魚を釣ろうとしているが、向こうからロシアが見ているという構図で描かれている。
こうした政府批判を行った日本人はどうなったか。宮武外骨という讃岐出身の反骨のジャーナリストがいた。彼は大日本帝国憲法発布の際、明治天皇が黒田清隆首相に憲法を下賜する錦絵が頒布されたが、宮武外骨は明治天皇を骸骨として描いたパロディ「頓智研法発布式」を掲載した。さらに大日本帝国憲法第一条のパロディとして「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」と記した。結果、22歳の若者であった宮武外骨は「不敬罪」に問われ、禁錮三年の実刑判決を受けた。漫画を武器として戦うことは、人生を棒に振ることでもあったのである。
一方で、普通の日本人にはできない社会風刺をうまく利用したのが、仏語塾を経営し、かつ「民約約解」などで民権思想を広めた土佐の中江兆民である。当時民権派は危険思想とされていたが、「tobae」は民権派の首領である兆民が政府批判の隠れ蓑として一時期利用していたのは事実である。不平等条約で押し付けられた治外法権を逆手にとって政府を批判していた形になろう。
大阪の「滑稽新聞」から「東京パック」へ
なお、都合三年八か月を牢屋で「勤め上げた」外骨は、出所後も様々な出版業に携わったが、1901年に大阪で発刊された風刺漫画雑誌「滑稽新聞」がその代表といえるだろう。このように近代においても漫画というメディアは、江戸時代の「戯作」「狂歌」の系譜に舶来の漫画を組み合わせて、政府批判の道具として大衆の間に広まっていった。
「滑稽新聞」の成功にあやかった関東の北澤楽天は、本邦初のフルカラー漫画雑誌「東京パック」を1905年に発刊し、数年ずつのブランクを入れながらも続け、1948年の廃刊まで20世紀前半の漫画文化を支えた。彼が戦後居住していた家が「漫画会館」として大宮市(現さいたま市)に寄贈され、彼の功績を顕彰している。彼の書斎が再現されているが、椅子ではなく畳に文机である。
「のらくろ」から「伝説のアニメーション」へ
昭和になると、日本中の子どもたちの心をつかんだ名作が現れた。田河水泡の「のらくろ」である。彼の故郷、清澄白河駅近くの田河水泡・のらくろ館は公民館の一室を間借りしたような場所だが、そこを訪れたとき中学時代を思い出した。1980年代にリバイバルヒットしていたフィリックスをみたとき、のらくろのパクリではないかと感じたことだ。それもそのはず、1931年に犬を陸軍二等兵として描き始めたこの漫画は、大人たちの風刺漫画とは異なり、キャラクターが個性を持っているのが特徴だが、そのモデルは1919年に米国で生まれた「フィリックス・ザ・キャット」だったのだ。
関東軍が満州事変を起こした1931年に二等兵として始まり、日中戦争が起こった37年には大尉となったのらくろだが、そこに現実の軍部から少年たちに対する「軍国主義の鼓舞」があったかというと微妙である。むしろ読者はのらくろの進級を喜んでいたため、その時代の民衆の「空気」によって昇格していったのかもしれない。ただ真珠湾攻撃直前の1941年、「不要不急」の子ども漫画などに紙やインクを使うのは無駄だという理由で、のらくろは満洲の炭鉱にこもることにして、十年にもわたる連載は中止された。そのような事情も知らずに少年時代に熟読していた子どもたちの中に、手塚治虫や長谷川町子もいた。手塚少年は模写までしていたという。
1940年に大政翼賛会ができると、漫画家たちも軍部に言われるままに描かねば紙やインクの配給すらなくなった。ただしそれとは別に、漫画史上、いや日本サブカル史上の傑作が戦時中に誕生した。プロパガンダアニメ映画「桃太郎 海の新兵」である。桃太郎を日本、犬、猿、雉をアジア諸国、鬼を「鬼畜米英」に見立てて退治する単純明快なストーリーではあるが、空襲から焼け残った大阪・難波の松竹座で1945年4月にこのディズニー映画ばりの表現技法を固唾をのんで引き込まれていたのが、まだ十代の手塚治虫だったのだ。
宝塚育ちの「漫画の神様」
梅田から北へ延びる阪急電車の終着点、宝塚。この地は、田園都市構想を抱いた小林一三のアイデアによって発展し、温泉地として発展する中で、少女歌劇団という稀有な文化を生み出した。空気の悪い大阪の喧騒を離れ、自然豊かな行楽地として非日常を提供したこの宝塚歌劇団に、1928年生まれの少年、手塚治虫は足繁く通ったという。
宝塚文化創造館に並ぶ歴代の演目ポスターからは、大正から平成、そして現在に至るまで、「美女が美男子を演じる」という独自の魅力を放ち続けていることが見て取れる。そして、そのほど近くにある手塚治虫記念館で迎えてくれるのは、「リボンの騎士」のサファイアやアトムといったお馴染みのキャラクターたちだ。男女の境界を超越した彼らの存在は、まさに手塚が育ったこの「宝塚的空気」が育んだものと言えるだろう。
戦争の影と「紙の砦」
手塚作品の中でも、特に自叙伝的な要素が強いのが、1983年に描かれた「紙の砦」である。昭和20年を舞台に、軍事教練を嫌い、隠れて漫画を描くことに没頭する中学生の鉄郎(=手塚)が描かれている。宝塚のオペラ歌手・京子との大阪空襲の中での逃避行は、甘酸っぱさと同時に戦争の悲惨さを浮き彫りにする。京橋や鶴橋の駅で目にした「黒焦げのかたまり」が死体だったことに対する衝撃、そして終戦を喜び、抑圧されてきた漫画を自由に描けることに歓喜する鉄郎の姿は、手塚の漫画に込めた思いを強く感じさせる。
しかし、そこで彼は気づいた。傍らにいた京子の美貌が、空襲による大火傷で奪われ、踊り子の夢を諦めざるを得なくなっていたことを。アメリカからもたらされた歌劇が日本に根を下ろし、まさにこれからという時に、その担い手である踊り子の顔が焼かれてしまったという事実。京子の面影は、鉄郎=手塚の漫画に描かれる女性たちの中に生き続けているのだ。
手塚の戦後を描いた作品には、進駐軍の米兵による暴行や、食料を得るために米兵のもとへ向かう女性たちの姿が頻繁に登場する。1月1日と12月31日で世界が一変したかのような激動の時代だ。大阪という「戦場」で第二次世界大戦に巻き込まれ、軍国主義に苦しめられ、黒焦げの死体を目にし、さらには空腹のあまり赤ん坊の死体を食べておけばよかったとまで思うほど精神を病み、愛する人の顔まで焼かれ、占領下で暴行を受けるといった、まさに「第二次世界大戦」という世界的事件のさなかで苦悶する群像が描かれたのが「紙の砦」である。
手塚治虫、水木しげる、「はだしのゲン」の中沢啓二。彼らは場所こそ違えど、それぞれ「現実の戦場」に巻き込まれ、「全人類的体験」を経てきた。日常を生きる自分と世界史を生きる自分が深く結びついていることを、彼らは嫌というほど実感したに違いない。仏教の「四苦」が「生老病死」であるならば、彼らにとっては「生病餓死」こそが真実だっただろう。老いることは贅沢で、深刻なのは飢えることだったのだ。彼らはみなこの壮絶な体験を、漫画という形で表現したのだ。
ディズニーを母に、B29を父に
宝塚の源流は欧米の歌劇であり、手塚の原点はディズニーだった。それは戦前に花開いた舶来の阪神モダニズム文化が、この宝塚に深く浸透していたことを意味する。そして終戦とともに、ついこの前まで日本中を焼き払い、多くの命を奪った米兵が、突如として「解放軍」とみなされるようになった。そしてジャズ、映画、漫画といった輝かしいアメリカのポップカルチャーが再び日本になだれ込んできた。手塚の表現は、そのような時代に大きく受け入れられた。
しかし、その背景には、「プレスコード」という名の進駐軍による言論統制があった。漫画は明治政府に潰され、日米両軍に利用されたり禁止されたりした。進駐軍はアメリカのヒーローとしてスーパーマンを押し付けようとした。しかし日本の大衆が選んだのは、ディズニーだった。そしてそれこそ戦前から手塚が影響を受けてきた者だった。
ここで、手塚に始まる日本漫画の「公式」が思い浮かぶ。
戦前(ユーモア×批判精神) →戦後(アメリカンカルチャー×生病餓死)→ 戦後の漫画の出発
あるいは、こうも言えるだろう。
「漫画の祖母は笑い、祖父は筆、母はディズニー、父はB29」
鳥獣戯画の時代から社会風刺と筆で権力者に対抗してきた日本の漫画は、近代化、商業化の過程でアメリカ漫画の影響を受け、そして米国に対する圧倒的な敗北というトラウマを経て、手塚治虫という最初の世代を生み出したと言えるだろう。「手塚漫画の母はディズニー、父はB29」なのだ。
「新寶島」の衝撃
敗戦から2年目の1947年、単行本として手塚の初のヒット作「新寶島」が登場する。幼い頃から映画に親しんできた手塚は、紙とペンで映画的手法を用いて映画を「描く」ことに挑戦した最初の漫画家である。「ストーリー漫画」というだけなら田河水泡の「のらくろ」も該当するだろうが、そのキャラクターに映画的な動きは見られない。それに対し、「新寶島」の表現は実にリアルだった。顔かたちがリアルというわけではなく、動かない絵が動いて見えるような、目の錯覚を起こさせる表現だったのだ。
そして、これに興奮した富山県高岡の中学生たちがいた。後の藤子不二雄である。宝塚の手塚治虫記念館でも、高岡市の藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーでも、古ぼけた「新寶島」の実物を見た時、漫画史の金字塔を目の前にしていることに胸が揺さぶられる思いだった。
「鉄腕アトム」の背景
手塚の代表作中の代表作は、何と言っても「鉄腕アトム」であるが、その原型である「アトム大使」は、サンフランシスコ講和条約の年、1951年に連載を開始した。この時のアトムは、地球と宇宙にできた「もう一つの地球」との交渉を調停するため、中立非武装の和平大使として天馬博士に造られたロボットである。地球は日本、「もう一つの地球」はアメリカ、ひいては連合国のメタファーだろう。しかし、博士の亡くなった息子をモデルとしていたアトムは、喜怒哀楽の感情を持ちながらも成長しないことにショックを受け、サーカスに売られてしまった。その後、お茶の水博士に引き取られ、人間の学校に通うところから「鉄腕アトム」へと物語が引き継がれていく。
アトムが西洋文明の所産である「科学の子」であるのと同じく、手塚漫画の技法もまた「科学的」という意味で「西洋的」であった。そもそも彼は医学部出身の科学者である。彼の「科学的技法」は様々なところに現れる。例えば「まんが記号説」というものがある。アトムとミッキーマウスを並べて見比べると、ミッキーの丸い耳をツンと立て、目を大きくして鼻を小さくすればアトムになるではないか。つまり漫画は、風景画や人物画などの「絵画」とは異なり、身体や顔の各パーツを「記号」のようにパターン化し、並べ直すだけで、無限に描くことができるという、量産可能で「科学的」なものだ。人類学者レヴィ・ストロースの「構造主義」に基づいて漫画を描いているかのようではないか。こうしてアメリカのコミックやディズニーのアニメを詳しく観察し、そのメカニズムを解明したのは、まだ十代の手塚青年だったのだ。
しかし当時、ポパイにせよ、ベティちゃんにせよ、スーパーマンにせよ、ミッキーマウスにせよ、アメリカのキャラクターが年を取ることがなかったのに対し、手塚以降の日本では、成長するキャラクターが登場した。こういえばアトムも「ブラックジャック」のピノコも年を取らないではないかと思われるかもしれないが、アトムは年を取らないからサーカスに売られて苦しみ、「ブラックジャック」のピノコは18歳の女性の心が幼児に移植されたもので、年齢と外見のギャップに悩んでいるのだ。つまり、いずれも「年を取るべき存在」として作られながら、期せずしてその期待を「裏切った」形になり、そのことに悩む存在が手塚以降に現れたのだ。
たとえロボットであっても人間と同じ肉体性を持ち、いずれは死すべきものとしての苦悩を持つようになったということは、日本の漫画が果たした大きな「漫画革命」である。前述した仏教の「四苦」、つまり病む苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ、そして生きる苦しみ、さらには手塚らにとっては「飢える苦しみ」を抱えた生身の体を、漫画の登場人物たちが持つようになったのだ。「のらくろ」も成長した。軍隊内での階級も上がっていった。ただし、彼が生きることを、老いることを、本当に苦と感じたかと言えば、答えは否である。
アメコミでは、例えばポパイは危機一髪の状況でも永遠に続く「苦しみ」はない。ほうれん草の缶詰で生き返るのだ。ベティちゃんは老いる苦しみを知らない。スーパーマンは死ぬ苦しみもなければ飢える苦しみも知らない。そしてミッキーは、何より自分が生まれてきたこと自体を苦しみと考えているはずがない。しかし、手塚漫画の登場人物たちは皆、我々と同じ「四苦八苦」を持っているのだ。
手塚治虫記念館では、意外なものに注目した。彼が中学時代に熱中したという蝶の標本……かと思いきや、本物と寸分違わないほど精巧に彩色された蝶の絵だった。アトムなどの単純に見えるタッチばかり見ていたので、少年時代からこれほどの画力があったことに驚かされた。漫画を見ているだけでは分からないことが、記念館などでは発見できるものだが、ここではこれが大きな収穫だった。
こうして、パーツを並べ直す作画と、「四苦八苦」を抱えるキャラクターの登場により、日本の漫画は本格的な発展を遂げることになったのだ。
「オモテの弟子」トキワ荘組VS「ウラの弟子」劇画組
1952年に「鉄腕アトム」がヒットするのと前後して、手塚は東京に拠点を構えた。そこで後に漫画家の梁山泊として日本中に知られるようになるのが豊島区椎名町のトキワ荘である。そこで「リボンの騎士」を執筆し、手塚の退去と入れ替わりで高岡から来ていた藤子不二雄が入居した。カネのない彼らのため、手塚は敷金をおいておき、貧しい二人組に漫画家として大成するにふさわしい「修行の場」を提供したのだ。
その後1961年に手塚治虫プロダクション(のちの「虫プロ」)を創業させ、1963年にはアトムがテレビ放映された。漫画でヒットしたものが映像化されるようになる先駆けと言えよう。さらに1965年には初のカラー作品として「ジャングル大帝」がテレビ放送された。この世の春であっただろう。ただしその裏では新しい漫画の潮流が静かに、しかし力強く広がっていった。「劇画」の登場である。
「劇画」とは、手塚が生まれた大阪豊中で育った辰巳ヨシヒロによる造語だというが、手塚流の漫画のように大量生産されたようなキャラクターや背景ではなく、「一点もの」の民藝品的描写が延々と続く。そして陰影をはっきりさせることで映画のカメラワークのような描き方で視覚に訴え、オノマトペの多用により聴覚を刺激する。
手塚には「オモテの弟子」と「ウラの弟子」がいたという。「オモテ」とはトキワ荘組の藤子不二雄や石ノ森章太郎、「ウラ」は関西上京組が1959年に国分寺周辺で結成した劇画工房という実験的グループである。ちなみに劇画工房はまもなく解散するが、仲間内の最大の「出世頭」はそのニヒルな主人公で知られる「ゴルゴ13」の作者、堺市出身のさいとう・たかをだろう。そして短期間で消滅した劇画工房のdnaは「週刊漫画アクション」や「ヤングコミック」、「ビッグコミック」など、青年漫画雑誌に引き継がれた。
「ガロ」カウンターカルチャーの牙城
そして劇画工房の動きとは別に、最低限の商業ベースで日本中に劇画というスタイルを全国に定着させた雑誌が1964年発刊の「ガロ」である。編集者として採算を最初から度外視しながら支えてきた長井勝一の漫画美術館が、故郷宮城県塩竈市にある。塩竈駅前の生涯学習センター ふれあいエスプ塩竈の1階を歩くと、「ガロ」の原画が日本のサブカルの「王道」であったことをいまだ無言のうちに語っているかのようである。もともとこの雑誌は彼が惚れ込んだ白土三平の「カムイ伝」を掲載するために青林堂という出版社を創業し、そこから発刊されたものだ。
サブカル史上のレジェンドとなっていったこの雑誌の主な読者層は子どもでもサラリーマンでもなく、学生運動に挺身していた学生たちだった。権力に対する嫌悪感は日本の漫画史の歩んできた道そのものである。ただ反抗していただけではない。白土三平以外にも「鬼太郎夜話」の水木しげる、「ねじ式」のつげ義春のほか、蛭子能収、根本敬、みうらじゅんなど、そうそうたる漫画家たちが原稿料ももらわずに執筆していったのだ。編集者による口出しが少なく、レジェンドとなる雑誌に自作を掲載してもらえることは駆け出しの漫画家たちにとってはこの上ない魅力だったのだろう。
とはいえ、同漫画美術館は30分ほどの訪問時間で私たち以外に見学者がいなかったのが惜しまれるところではあるが、これらの伝説的な生原稿見たさに毎日見学者が訪れるようだと「カウンターカルチャー」として牙城としての「ガロ」の在り方とは異なるかもしれない。
このアヴァンギャルドな劇画雑誌に対して「正統派」を自任していたであろう手塚が打った手が、1967年に発刊した「COM」の発刊である。宝塚の手塚治虫記念館の入口に大きく羽を広げ私たちを迎えてくれる「火の鳥」は、実は「ガロ」の「カムイ伝」に対抗して時に劇画タッチで描き、「いのち」とはなにかということを漫画を使って問い続けてきたものだ。
それにしても戦前の文化の在り方に対するカウンターカルチャーが手塚漫画だったと思いきや、それ以上にカウンターカルチャーとなっていったのが劇画だったというのは実に興味深い。
火の鳥と「いのち」
科学者・猿田博士に自分のことを「地球の分身」「地球の体の一部」と説明する火の鳥は、選ばれた人間、いや生き物の前だけに現れる。そしてそれを言い換えて「宇宙生命(コスモゾーン)」と説明するが、その言わんとするメッセージをまとめると「草も木も鳥も魚も、みんないのちを大切にして生きている」ことだ。ちなみにこれは私が子どものころ、近くのお寺に通って唱えているうちに覚えた「私たちの願い」という小冊子に書かれていた文句である。とするならばその「生命観」は仏教的なものかもしれない。だとするならば、生きとし生けるものはみな地球の分身であり、地球の体の一部ではないか。
また別の話では、永遠の命を与えられてしまったマサトだが、人類が滅んでも死ぬこともできず、そのうち人間の体を失ってもスライムのような形の生命体として生き続ける場面がある。そしてそれは細胞分裂を繰り返してナメクジのようになりながらも、人間だったころの意識は持っている。
仏教ならば死んでから「輪廻転生」があるということになろうが、ここでは物質的な肉体を失っても生命体そのものは残ると理解できる。現実的に考えると、私たちが土葬されると、肉体は土にかえる前に様々な虫などに形を変える。それは自分という肉体こそ失っても、例えばミミズやナメクジ、モグラなどという生命体になり、生き続けるとは考えられないか。そう思うと輪廻転生もまんざら荒唐無稽な話には思えなくなる。
「ブッダ」と「喜んであたえる人間となろう」
そして手塚のそうした思想は1972年に掲載が始まった「ブッダ」によってまとめられる。冒頭部分で山中で修行する老人にクマやキツネはそれぞれ食べ物を捧げたが、何も捧げることができなかったウサギは焚き火に飛び込み、自らの体を修行僧に与える場面がある。今回の旅の最初に出てきた、この国の漫画を考える上で最も早い時期に現れた法隆寺玉虫厨子の「捨身飼虎図」そのものではないか。
あるいはイナゴに襲われたインドの村で食べるものをみな失い、穴倉に入ると動物たちがともに身を寄せ合っていた。元修行者はその中でようやく食料にありつけると思ったが、ともに逃げてきた、他の生き物とも会話ができるタッタという少年はその貴重な食料を他の鳥獣にまで与えている。それどころではない。タッタも後に大蛇に自分の身を与えた。例の修行僧に我が身を与えたウサギのように。人間だけ、自分だけ喰えればいいという考えはそこにはなかったのだ。
また子どものころに寺で学んだ言葉を思い出した。
「喜んで与える人間になろう
物があれば物を 力があれば力を 知識があれば知識を みんなに与えよう
なければ自分のなかに育てて与えよう
花は美しさを惜しまず 小鳥は楽しい歌を惜しまない 誰にでも与えている
与える時 人は豊かになり 惜しむ時 いのちは貧しくなる
喜んで与える人間になろう」
なぜ与えるのか。キリスト教ならばそれを「愛」と呼ぶだろうが、仏教ならば「これは自分のもの」「あれはお前のもの」という区別をつけるところから固執が生まれ、それが人を不幸にし、「いのちを貧しくしている」と考えるからだ。だから仏教では「慈悲喜捨」すなわち生きとし生けるものすべてのいのちを慈しみ、喜んで与えるのだ。大学生になって「ブッダ」を読んだ私は、そのとき小学校のころお寺で覚えた薄い冊子に書かれた言葉と、目の前の分厚い漫画本が一つに重なり合ったことを思いだした。
「いのちを大切にする人間になろう」火の鳥とはブッダ
実は「ブッダ」は「火の鳥」の一環として当初は創られながら、後に独立したシリーズとなったのだが、そのことを考えると「いのち」の大切さを教えるのは仏教的価値観に基づいた「火の鳥」として当然のことだろう。「ブッダ」は「火の鳥」から派生したものというより、「火の鳥」のメッセージそのものではなかろうか。そしてここでまた子どものころに覚えた教えの全文が改めてよみがえる。
「いのちを大切にする人間になろう
たったひとつのとおといいのち ほとけさまはいのちのあらわれ
草も木も鳥も魚もみんな いのちを大切にしていきている
きびしい自然のなかに いきぬいのち 力づよいいのち ふしぎないのち
このいのちのとおとさを 仏さまがおしえてくださる
いのちを大切にする人間になろう」
さしづめいのちの尊さを教えてくださる「ほとけさま」は、悩み抜いた人間、ゴーダマ・シッダールタ(=ブッダ)というより、それこそが火の鳥そのものではないか。火の鳥はブッダなのだ。
「ブラック・ジャック」そしてライバルたちの時代
とはいえ、「ブッダ」の連載中の1973年、資金繰りがうまくいかず虫プロは倒産した。よって「COM」も廃刊となった。スランプの手塚が次に取り組んだのがあの「ブラック・ジャック」である。これも「いのち」という視点から見てみればすべて一貫している。少年時代に事故で死にかけたが本間博士にいのちを救われ、無免許医師としていのちを伸ばすことの意味とその限界に、人間としてのブラックジャックこと間黒男は苦悩する。
ダークヒーローでありながら「いのち」に向き合う態度に、「ブッダ」のシッダールタとなんの違いがあろうか。ブラックジャックの命の恩人でもあり師でもある本間博士の霊が彼の肩に手をかけていう「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉は、永遠の命を持つ火の鳥の言葉であるようにも思えてならない。
そして虫プロの倒産という、手塚の人生で最悪の状況のもと、世界にその名を遺す漫画がアニメ化された。藤子不二雄の「ドラえもん」である。さらに「COM」を発刊するきっかけとなるほど手塚がライバル視した「ガロ」系の作家の中で、商業的に最大のヒットを飛ばす作家が、気づけば手塚とは異なるタイプの人気をさらっていた。鳥取県境港出身の水木しげるである。そして彼は虫プロの倒産騒動で手塚がてんやわんやのころ、自身の戦記を大作として描いていた。「総員玉砕せよ!」である。
「観光地」としての境港
鳥取県境港市は、漫画家・水木しげるのふるさととして知られている。私の実家は中海を挟んで境港の対岸、安来なのだが、境港の町を訪れた経験は多くない。かつて住んでいた頃、おそらく年に一度も行っていなかったはずだ。とはいえ、やはり同じ湖を囲んだ山陰人として、境港への親近感は強い。平成に入ってから境港では「水木しげるロード」で町おこしが行われた。寂れた商店街に鬼太郎をはじめとする妖怪のブロンズ像が並べられると、それらを求めて日本中からファンが訪れるようになった。中には伝承に乏しく水木が創作した妖怪像もいるが、原則「妖怪は伝承があるから、創作しちゃいかんのです。妖怪は感じるものです」と語り、古今東西の妖怪の絵や怪異を徹底的に調べ上げ、その情報を集めることに奔走したという。これは、妖怪が昔の人が残した遺産であり、その型を尊重し後世に伝えるべきだと考えていた水木の生真面目な一面であろう。
そのうち、水木しげる記念館や妖怪神社まででき、さらに郊外にある米子空港も「米子鬼太郎空港」として鬼太郎のキャラクターをふんだんにあしらっている。米子駅までのローカル線、境線の各駅に妖怪の名前まで付け、始発兼終着駅の米子駅には「0番(霊番)ホーム」まで作って鬼太郎のラッピング列車を走らせるほどだ。「悪ノリ」ともいえるかもしれないが、港に水揚げされる新鮮な魚介類と並んで、いや、ある意味それ以上に、鬼太郎は観光資源としてこの町の、いや、北栄町のコナンと並んで鳥取県の「顔」となっている。
とはいえ、この「はしゃぎ様」を見ていると、町おこしは結構だが興ざめしてしまうことも自覚している。草葉の陰から水木先生(山陰ではファンでなくとも、よく彼に「先生」をつける)が「こげなとこに妖怪はおらん」とぼやきながらも、水木プロに「がっぽがっぽ」入るカネにほくそえみながら確信犯的に町おこしをしているのではないかと感じてしまうからだ。
「のんのんばあ」が与えた影響
本名・武良(むら)茂として1922年に生まれた水木に、妖怪や霊界の存在を教えたのは、「のんのんばあ」こと景山ふさという出雲出身の祈祷師めいた老女であった。思えば、彼の孫の世代にあたる私ですら、「オガミさいオババ」と呼ばれる祈祷師めいた人が町にいたことを覚えている。のんのんばあからは「オンコロコロセンダイマトウキソウワカ」という薬師様を拝む時の真言を教わったりもしたそうだ。ちなみに正しくは「センダイ」ではなく「センダリ」なのだが、出雲弁しか話さないのんのんばあは文中に出てくる「ら行」を「あ行」として発音する。それを聞いたまま表記するのは、水木に霊界を教えた「師匠」に対する思いからだろう。
また、都会から引っ越してきた千草という少女が亡くなり、悲しんでいると、「千草さんの魂がしげーさんの心に宿ったけん心が重たくなっちょるだがね」「でもしばらくするとその重たさにも慣れるけん」「心配はいらんよ」という言葉を受け、死者への畏敬と、見えない世界によって支えられていることに気づかされたようだ。そして死んだ人間の魂は「十万億土」、すなわち極楽浄土へ行くと教わったが、それは島根半島、すなわち出雲あたりにあると直感していたという。ちなみに水木は、のんのんばあをはじめ出雲の人々が皆、神々に仕える存在だと思っていたらしい。
ハイカラな宝塚文化と土着の山陰文化
そうした経験を振り返って、水木は「おばあちゃんに備わる宗教性の正体」を「無条件の受容」と看破した。それは、「ドラえもん」でのび太の幼いころに亡くなった祖母が、小学生になったのび太をそのまま受け入れたのにも重なり、また水木と同い年の私の祖母の私に対する無条件の受容とも重なる。
こうした山陰ののんのんばあから受け継いだ死者への畏敬と、この世とは別の世界が存在するという感性が、手塚治虫すら及ばぬ「妖怪漫画家」としての地位を確立した、水木の人生そのものだったのかもしれない。そしてそれはハイカラな異国の夢のような阪急宝塚文化に囲まれて育った手塚とは根本的に異なる、「土着の精神文化」を大切にする日本漫画につながっていくのである。そしてそれは間接的に宮崎駿や新海誠を通して世界に広がっていった。
のんのんばあとの別れとゲーテとの出会い
1933年、彼が11歳のころのんのんばあは亡くなった。幼少期から絵がうまかったしげる少年はそのころ、「天才少年あらわる」と地元新聞に書かれ、隣接する自称「山陰の大阪」米子で個展まで開いたという。彼が熱中したのは絵だけではない。彼に思想的な深みと広さを持たせた存在は、文豪ゲーテであった。日中戦争が激しくなり、私の祖父も二等兵として河北省に送られた1940年、彼は18歳だったが、「読んだものは暗記してるんです。ゲーテも新約聖書も喋れるくらい全部、暗記してたんです」というほど熱心にゲーテを読み込んでいた。時代の渦に巻き込まれ出征すれば、その先にあるのは死かもしれない。若者なりに自分の生きる意味、死ぬ意味を求めた結果、ゲーテにたどり着いたのだろう。のんのんばあとゲーテのギャップに驚くばかりだが、「水木サンの生き方の80パーセントはゲーテ的」というほど傾倒していた。そして水木しげる記念館には、彼が愛読し、戦地にまで持っていったという「ゲーテとの対話」の実物も展示されている。
しかしやはり意外である。彼は小学校時代は朝起きられず、しばしば2時間目から通学するほどマイペースだっただけでなく、軍隊時代の排便中に集合のラッパが鳴っても、排便のほうを「自然のリズム」として優先するぐらいだ。そんな彼にはゲーテという「正統派」よりも、私が同じ頃に傾倒した老荘思想のほうがふさわしく思える。なにせ、漫画を描くことは、「苦しくはない。クソをするようなもんです。たまれば自然に出てくる。一つのストーリーが終わると、次は何を描こうかなってなもんです」と語るほど、自然な行為であったからだ。さらに「自分が面白くないことは描きたくないんですよ」と飄々(ひょうひょう)と述べるほどである。そんな人間が老荘ではなく、ゲーテなのが不思議なほどだ。
「総員玉砕せよ!」
彼の人生の一大転機は、二十歳を過ぎた頃、徴兵されてパプアニューギニアに送られたことに始まる。出征直前に境港に戻り、目の前を横に走る島根半島と、中海から日本海に抜ける境水道の光景をその目に焼き付けた。故郷の光景を見るのはこれが最後と思ってのことだろう。
その後の彼の戦記は、9割実話という「総員、玉砕せよ!」に詳しい。そしてそれは私にとって、鬼太郎よりも感銘を受けた作品だ。上官による理不尽な制裁や、戦友が死んでもその靴をもらって履こうとするあさましさ、そして何よりも腹が減ることなど、手塚治虫とは異なる戦場のリアルが描かれ続ける。そして彼は、軍隊、すなわち近代合理主義からなるはずの部隊がいかに非人道的で、そのようなものとは縁もゆかりもない原住民、トライ族の人間らしい在り方に心動かされた。米軍の攻撃により左手を失っても、マラリアに遭っても、トライ族は見捨てずに土産を持って会いに来てくれたのだ。逆に日本軍は仲間でありながらも、九死に一生を得て生きながらえている兵士に「なぜ死ななかった」と責め立てる。水木は、除隊したら内地には戻らず、原住民として生活したいと申し出るほどであった。彼は手塚治虫とは異なるアプローチで戦争を通して「いのち」に向き合っていたのだ。もしかしたらトライ族のなかにのんのんばあ的なやさしさを感じていたからかもしれない。
貸本漫画家から国民的漫画家へ:遅咲きの才能
何とか内地に帰還し、故郷境港の山と海を見たときには、ようやく生還した実感がわいてきたのだろう。実際、今見ても境水道の光景は懐かしく美しい。しかし、片腕のない水木の人生は、必ずしも順風満帆ではなかった。闇市で働きながら武蔵野美術大学で学びつつ、念願の絵を描く仕事である紙芝居作家になった。しかし紙芝居の時代が終わると、ようやく1958年、35歳にして「赤本」、すなわち貸本漫画家になって糊口をしのぐことになる。これは、十代後半で作家デビューをする漫画家にしては異例の遅咲きである。しかし、やはり食べるのがやっとの生活であった。
そうした中、1960年には「墓場鬼太郎」が赤本として出版され、それなりのヒットを勝ち取った。鬼太郎誕生の経緯も、境港の対岸、松江の伝承と結びつく。紙芝居の「墓場鬼太郎」シリーズは、墓場で胎児を身ごもったまま亡くなった女が赤ちゃんのために水あめを買いに夜な夜な飴屋に出没する、小泉八雲の「怪談」を翻案したものだ。
そしてその翌年には安来の女性と見合いをして、わずか五日間の「超スピード見合い婚」で結ばれたが、住まいのあった調布での「赤貧洗うがごとし」を地で行く生活に新婦も驚かされたという。しかし彼は相変わらずマイペースであった。商業的成功とはかけ離れた「ガロ」に寄稿したりはするが、妙に時流に乗るようなことをするわけでもない。ようやく赤本やガロから大手漫画雑誌に掲載されるようになったのが、1965年の「テレビくん」であった。45歳という、あまりにも「大器晩成」の一般誌デビューだ。ちなみにそこでアシスタントをしてくれた中の一人に、「ガロ」仲間のつげ義春がいた。驚くべきことにつげ義春は戦記物のストーリーはおろか、セリフまで書くこともあったというほど呼吸があったという。
後に水木は振り返って言う。「私には人のために描くという考えがなかったのがよかった。自分のために話を作って、自分のために面白がって描く。だから、つづけられたんです」このように自身の内なる欲求に従って創作を続けたことが、彼を成功へと導いたのだろう。幼い頃から「馬鹿だの低能だのといわれましたが、頑固に好きなことしかやらなかった」というエピソードは、彼の揺るぎない信念というより、極端なまでの自由人らしさとめんどくさがりであったことを象徴している。
水木しげる Vs 手塚治虫:二つの巨星の軌跡
水木のことを考えるたびに、日本漫画史の巨星、手塚治虫との対比が浮かび上がってくる。両者は異なる思想的背景と人生観を持ちながらも、日本の漫画を主流文化の域にまで高めた点で共通しているからだ。
まず、水木と手塚に共通するのは、その創作が原則独学によって培われた点である。水木は「なにもかも独学で覚えたというのは、ほめるべきこととはいえず、むしろ非難すべきことなのだ」と語るが、これは彼が自らの道を切り開いてきたことの証左であろう。手塚もまた、従来の漫画の枠を超え、独自の表現形式や「漫画文法」を築き上げたことは以前にも述べた。
また、二人とも自身の仕事に対する揺るぎない信念を持ち、それに対する努力を惜しまなかった。手塚は「漫画を描かないのは、死んだと同じだと思うんだよ。」「最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。医師からの制止を振り切り漫画を描き続けた。」「仕事させてほしいと最後まで仕事への執着心を無くさなかった。」などと事あるごとに述べている。水木も「好きなことをやって努力しても、金が儲かるなんてことは稀だ。それでも、あんまり心配事を作って、しょっちゅう悩んだりなんかするのはよくないんじゃないか。自分で生きていく道を選んだら、そのための努力は惜しんだらイカン」と述べ、自身の創作への情熱を貫き通した。
そして、二人とも戦争体験が思想を深め、「いのち」に対する見方を定めた。それはニヒリズムでもあり、東洋的無常観でもあった。水木は、パプアニューギニアでの過酷な従軍経験を経て、「人間は結局、食うために生きるだけだという絶望から、逆に人間を相対化するほうにいく」という境地に達した。彼の作品に登場するねずみ男は、金銭欲や名誉欲といった人間の「いやらしいエゴ」を体現しており、これは政治活動家や知識人の理想論とは異なる「大衆のあり方」の象徴ともいえる。彼はまた、戦争を通じて、近代合理主義の限界と、トライ族の人間らしい在り方に心動かされ「自然が人間を生かしてくれる」という考えを持ち、自然を克服しようとする見方に注意喚起を促す。この思想は、手塚の「火の鳥」や「ブッダ」、「ブラックジャック」でも通底する。
表現の違いとヒーロー像
しかし、その表現方法はかなり異なる。水木の絵の最大の特徴は、背景を点描画や黒一色のベタで塗りつぶす劇画調である一方、登場人物は「マンガチック」な単純さで描かれている点だ。不自然なまでの背景と登場人物の描き分けは、おそらくすべてを劇画的なリアリズムにすると、あまりに話が重くなるため、能と能の間に狂言を挟んで場を解きほぐすかのように、劇画的背景のなかにマンガチックな人物を描くのかもしれない。一方、手塚治虫は登場人物の目を大きく、明るく、喜怒哀楽をはっきりと出すと同時に、場面展開をスピーディに、映画的に切り替える特徴がある。オノマトペでいえば、水木の作画は「どんより、もそもそ」、手塚は「パッパッ、ビューン」である。
さらに、水木の作品に登場するねずみ男のような、卑怯者として生きつづける存在を手塚は作品内では許さない。世の中に対して斜に構え、卑怯な振る舞いも辞さないダークヒーローはいても、ねずみ男のように無反省で飄々とはしていないのだ。手塚ならそのような人物を女性にぶたせ、改心させるだろう。もともと「墓場鬼太郎」時代の鬼太郎は、斜に構えた卑怯者というキャラクター設定であった。しかしそのままだとテレビでは一般受けしない。そこで勧善懲悪的に鬼太郎=人間の味方=正義、ねずみ男=自分さえよければ鬼太郎を売る存在=悪という、単純な二分化によって構図をわかりやすくしたのである。つまり、ねずみ男こそ本来の鬼太郎なのだ。
しかし手塚はダークヒーローをしぶとく憎たらしい存在にしてはおかない。ブラックジャックはニヒルに見えてもねずみ男ではない。人間というものに対する根本的な信頼が手塚漫画のベースにあるとするならば、やはり水木の魅力は、ニヒルなまでにわがままで無反省な卑怯者というのも人間の半面であると存在を肯定する点ではなかろうか。
「ねずみ男」な水木、そして私たち
このようにスタンスは大きく異なるが、娘や息子たちが見る「父のライバル」のまなざしは驚くほど似ている。手塚は「墓場鬼太郎」を手にしたときにあまりの衝撃で階段から転げ落ちただけでなく、息子が「ゲゲゲの鬼太郎」に夢中になった際、水木に対する嫉妬にも似たライバル心を燃やし、地元宝塚で鬼太郎ショーが行われた際に難癖をつけたというエピソードすらある。水木は水木で手塚を意識し、娘に「お父ちゃんの漫画には夢がないけど手塚先生には夢がある」というと「わしは現実を描いとるだけだ」と言い、手塚のサインをもらうと「お父ちゃんのサインよりも丁寧」と述べている。お互い心境は複雑だったのだろう。
手塚は生命の尊厳と未来への希望を明るく描いたのに対し、水木は人間の本質や見えない世界に深く分け入り、社会の、人間の「B面」に注目した。この二つの潮流が、戦後日本の漫画文化を豊かにし、多様な表現を生み出す土壌となったことは間違いない。
水木曰く「偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ」案外彼は故郷境港にいたほうが幸せだったのかもしれないと思いつつ、しかし鬼太郎により観光化されすぎて妖怪すら住まなくなってしまったかのような町並みを見ていると、こうなる前の「つげ義春的」境港のほうが水木先生好みだっただろうとも思う。しかし、経済的苦労を重ねてきただけに、ここまで鬼太郎だらけになると水木プロダクションが「がっぽがっぽ」儲かり、笑いが止まらなかったとも思える。そう、ねずみ男のように。ねずみ男とは、好きなことだけして稼ぎたい水木先生そのものであり、そして私たちもまた、ねずみ男(女)なのだ。最後に境港駅前交差点のねずみ男の頭を撫でて、町を去った。
川崎市立藤子・F・不二雄ミュージアム
藤本弘と安孫子素雄によるユニット、藤子不二雄。その代表作「ドラえもん」は日本を代表する漫画キャラクターとなったが、意外にも藤本弘と安孫子素男という個人の名はおろか、海外では藤子不二雄という名すらそれほど知られていない。コンビの中で、藤本が1961年に結婚を機に移り住み、亡くなるまで過ごした川崎市生田に藤子・F・不二雄ミュージアムがあるので何度か訪れた。
小田急向ヶ丘遊園駅に降り立つと、発車メロディは「ドラえもん」だ。駅から歩くこと十数分、目的のミュージアムに到着する。ここは、皆の心の中に息づく「ドラえもん」の世界、そしてそれを生み出した藤本の軌跡に触れることができる場所だった。来館者の中心は小学生のようだが、「ドラえもん」だけでなく、藤本が描いた数々のsf作品の生原稿など、大人が見ても興味深い展示も少なくない。藤本弘が安孫子素雄に比べて明るい未来をその世界観の中央に置いているように、このミュージアムもまた、明るさがそこかしこに溢れていた。
「のび太」が示すアジア的普遍性
それにしても、「ドラえもん」の主人公はドラえもんなのだろうか、それとも野比のび太なのだろうか。いずれにせよ、決してヒーローとは呼べないキャラクターだが、藤子漫画の主人公たちは等身大の少年たちであり、ヒーローへの憧れは描かれるものの、彼ら自身がヒーローそのものになることはない。これは藤子漫画の大きな特徴と言えるだろう。
藤本弘は幼い頃の自身を「のび太でした」と語っている。彼は読者を惹きつけるためのシステムとして、また現実世界の論理によって変化する実験材料として、のび太のような弱虫なダメ人間を設定したのだ。つまり、子どもが十人いれば、ガキ大将や秀才や美少女、金持ちは合わせても一人しかいない。ジャイアンやスネ夫、しずかちゃん、出木杉君に感情移入できる人は一割ほどで、残りの九割はのび太なのである。のび太こそが普通の少年少女なのだ。ハリウッド映画ならば「ベスト・キッド」のように強くなるよう訓練するが、のび太はいつまでたっても甘えん坊のダメ人間であり、それでいて優しい。強さよりも大切なものがあるのだ。「
人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができるのび太
「神回」の一つとして有名な「のび太の結婚前夜」で、のび太との結婚をためらうしずかちゃんに対し、めったに登場しない彼女の父親が語る言葉がある。
「あの青年は、人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それが一番人間にとって大事なことだからね。」
「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむ」ことを、藤子不二雄の師匠である手塚治虫の、いや、仏教の言葉を使えば「慈悲」となる。社会には様々なタイプの人間が必要だが、「慈悲の心」を持った人がいなければ世の中が良くならないことは言うまでもない。個人は自立すべきで他者に頼るべきではないとする西洋の個人主義社会と、様々な人がいてそれぞれが互いに必要とされるため温かく見守るべきという東洋のムラ社会の価値観の違いが、アジアでの絶大な人気につながっているのかもしれない。
そんなことを思い出しながら屋上に上がると、そこには作品に出てくる例の子どもたちの広場が再現されている。ただ、何か違う。ル・コルビュジエが提唱した「近代建築の五原則」のうちの屋上庭園と、昭和の子どもたちが遊んだ、土管が三つ重ねられた、ガキ大将たちが野球をしていそうな広場とは、どうにも相容れない。それに、子どもたちはみなママやパパたちと来ている。子ども半分、ママパパ半分といった人数構成に、あの広場は子どもたちの「自治区」ではなかったのか、あれは昭和の幻影だったのか、と納得しきれない思いが残りながらも、藤本が人生の半分以上を過ごしたこの多摩丘陵の町を後にした。
高岡市藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー
ある機会に、小学二年生の息子を連れて、藤子不二雄の二人が生まれ育ったふるさと、富山県高岡市と氷見市を訪れた。高岡市は境港における鬼太郎のように「ドラえもん」の息吹を感じさせる街であった。駅前では早速ドラえもんのモニュメントが観光客を出迎え、電車やバスも「ドラえもん仕様」で彩られている。漫画でお馴染みの三本の土管を重ねた広場も、市内のおとぎの森公園に再現されており、ちょっとした観光スポットにもなっている。そしてこの町最大の「ドラえもん系観光地」は、市立美術館の二階フロアを独占する「藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー」だろう。「F」すなわちドラえもんの生みの親である藤本弘の功績を中心に、ドラえもんワールドが展開するミュージアムだ。
川崎のミュージアムに比べると規模は小さいが、「ふるさと」という視点から見た藤本が浮き彫りにされるのが特徴である。そこでドラえもんの映画のポスターがずらりと並んでいるのを見た。思えば、子どもたちを何度か映画版のドラえもんを観に連れて行ったこともある。劇場用長編には必ずパターンがある。のび太たちを冒険させ、その中で仲間たちとともにたくましく成長させるというパターンだ。そのような「教養主義」がなければ、子どもたちにとってのスポンサーである親、特に母親に連れて行ってもらえないからだろう。同様の傾向は、「クレヨンしんちゃん」や「名探偵コナン」などにも見られる。
しかし一方で、展示パネルには、藤本がいかに映画を真剣にみていたかが記されていた。彼にとって映画とは漫画のインスピレーションを喚起するものであり、ストーリーやテーマはもちろん、感動したシーンをどのように紙面で再現するかまで考え、ノートに綴っていたという。おそらく、自分の作品を見て漫画やアニメの世界に入ろうとする子どもや若者のことも考えて、映画作品を指示していたに違いない。
他にも館内で印象に残ったのは、中学時代の1946年に手にして、その映画のようなコマ割りや描写法に驚愕したという手塚治虫の「新寶島」や、高校時代の1952年に宝塚在住の手塚に送った手紙に対する返事の複製を見た。ちなみに、後に宝塚まで手塚に会いに行った二人が書き下ろした漫画「ベン・ハー」の原稿を見た手塚は「うん、上手だね」と褒めたが、実は驚愕していたという。「裏日本」の田舎からものすごい将来性を持つ若者が現れたことに、冷静に漫画が描けなかったと語っている。そして1954年、21歳で安孫子とともに上京する際に持っていった傷だらけの革トランクには、漫画家になるという青雲の志が詰まっているように思えてならなかった。
団塊ジュニアは「ドラえもんネイティブ」
子どもを連れていると、また別の見方が現れてくるものだ。例えば、地元の高岡は鋳物の街である。鋳物で作られた初代ドラえもんの銅像が、高さ数十センチで展示されていた。その体形は現在の私たちの目に馴染んだものとは異なり、躯体はでっぷりとして鼻の下が異様に長い。「このドラえもん、変だよ」と息子は言った。しかし、私が息子の年の頃、少年誌の「ドラえもん」は確かにこのような形だったように記憶している。さらに左手には、1970年1月号の「ドラえもん」デビューの雑誌が、球状の手に乗っている。「ドラえもんは1970年生まれだったのだ!自分は一歳年下だったのだ!」と改めて気づいた。
さらにいうなら、私たち「団塊ジュニア」は、物心ついた頃からドラえもんに囲まれた「ドラえもんネイティブ」であることだ。1970年という年は大阪万博、翌年はニクソンショック、三年後はオイルショックと、1960年代までのようなど根性の経済発展に歯止めがかかり、社会の風潮が大きく変化してきたはずである。だからこそ、私たちの世代にはのび太のような「情けない」キャラクターでも受け入れられ、また、直前の1960年代末期に横行し、1970年代初期にも蔓延していた「熱血スポ根」の精神論ではなく「他人や機械や道具に頼る」のが当然とされたのかもしれない。
ギャラリーはそれなりに楽しむことはできたものの、藤本ばかりで、もう一方の安孫子の存在がほぼ消されているのが気になった。また正直なところ、ギャラリー内に二人の「影」を感じることは難しい。そこで私は、市民の憩いの場である高岡古城公園と高岡大仏へと足を運んだ。
高岡古城公園:二人の原点
高岡古城公園と高岡大仏には何度か足を運んでいる。そしてこここそ、あの二人の若者の原点であり、日本の漫画・アニメの原点の一つでもあると確信している。奥出雲の高校時代に級友から借りた分厚い漫画本を思い出す。二人がこの北国の小都市で漫画の道に生涯を捧げてきた自伝的な作品、その名も「まんが道」である。
古城公園はもともと、キリシタン大名で加賀藩に寄食していた高山右近が縄張りを施した高岡城の跡を公園化したものだ。城郭マニアである私が、城跡を散策しつつも城郭以外のことに気を取られる例外的な場所がここである。なぜなら、「まんが道」の中ではここが何度も登場する重要な場所だからだ。ふるさとギャラリーからも徒歩圏内である。
満賀道男(=安孫子)と才野茂(=藤本)という二人の少年が高岡市の学校で出会い、お互いに漫画に情熱を持っていることを確認する。そして中学時代に、自前の漫画雑誌「マンガ少年」創刊号を日夜かけて書き下ろし、二人でお披露目をしたのは、公園内の本丸南、相撲場裏の二ツ山(卯辰山)である。高校時代には、漫画家を目指す大阪からの転校生から、例の手塚治虫の「新寶島」の登場がいかに革命的かを教えられ、「絵がうまくても古いまんがはもう時代遅れなんや」と諭され、目から鱗が落ちたのも、二人が漫画家になるという誓いを立てたのも、すべてここでの出来事だった。
高校時代でいえば、先ほど宝塚に手塚治虫に会いに行ったエピソードを書いたが、多忙なため二人に後ろを向けて暗い部屋で仕事をする手塚を表すのに2ページ分をそれぞれ四分割し、黒いベタの上に「カリカリ カリカリ」というペンを動かす音のみで時間の経過を表現する。これが彼らが手塚から学んだ「映画のような手法」であった。漫画界の神と呼ばれる憧れの人物の後ろ姿だけを拝んで帰ったが、それにより若い二人はさらに奮起した。
公園内の本丸中央には射水神社が鎮座するが、彼らは雪の日にも初詣に訪れた。もちろん、願い事は漫画家になることである。全体的に漫画的な描写ではあるが、時折きわめてリアルな風景が現れる。冬の日本海の荒波を描いたシーンと「北国の冬は、鉛色で、暗くて重い日々が続く…」というシーンは、同じ鉛色の日本海と空を見て育った私にも郷愁を感じさせる。それは手塚にとっての宝塚のような、おしゃれで中性的な舶来ブルジョア文化とは程遠いものだ。
そして高校卒業後、満賀がひそかに憧れていた女子生徒が自殺し、一人涙にむせび泣くのも、ここの堀端だった。「それは、人生にはたとえようもなく悲しいことがあるということを教える涙であると同時に、満賀道男が少年時代に別れを告げる涙でもあったのだ!」というナレーター(=安孫子)の言葉とともに、堀と石垣が描かれる。
高岡大仏:民衆のこころの拠り所
銅の街、高岡の阿弥陀仏は高さ16メートルというが、台座を除けば7メートルあまりで、「大」仏というには大きさを感じさせない。初めてここを訪れたとき、その小ささに驚いた。いや、仏像のサイズだけでなく、敷地が狭いのだ。ただ、前田家の菩提寺である瑞龍寺や浄土真宗の本拠地だった勝興寺など、国宝建造物を有する寺院が市内にあるにもかかわらず、最も市民に親しまれているのは、おそらくここの「だいぶっつぁん」だろう。民衆の感覚というのは、文化財よりもこころの拠り所であるかどうかなのだ。そう考えると、ここは「小さい」のではなく「小ぢんまりして親しみやすい」と言い換え可能であるように思えてくる。
高校卒業後、二人は就職したが、才野はその日のうちに退社し、会社勤めではなく漫画の道を歩む決心をし、二人でお参りしたのもここだった。
高岡駅:旅立ちの情景
北陸新幹線が開通して以来、高岡の「表玄関」は新高岡駅になったかのようだが、20世紀を通して、約2キロメートル北に位置する旧国鉄(JR)高岡駅こそ、この町の若者が都会に出るときの玄関口だった。そして二人も、雪のちらつく日に夜汽車に乗って東へ向かった。その場面は「高岡が、どんどん去っていく」というナレーションと、真っ黒な機関車と夜空、真っ白い蒸気、そして白い点々の雪で描かれている。そして、幕末の僧、月性の漢詩「男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山(男一匹、夢を追って故郷を去るのだから、夢が叶うまで死んでも帰るものか。別に先祖の墓に埋めてもらうだけが人生じゃない。死んだ場所、そこが墓場だ)※拙訳」の書き下し文が、四角い吹き出しにいっぱいに書かれている。彼らは不退転の決意で、雪の中のふるさとを去ったのだ。私が高校時代にこれを読んだ頃、流行っていたのが長渕剛の「とんぼ」だったが、それ以降、そのような故郷を後にする歌を私は知らない。
トキワ荘ミュージアム:漫画家たちの梁山泊
北国から当時上京するものはほぼ上野駅を終着駅としていた。二人もそうだった。作品内には幾度も上野駅の内外の様子が描かれる。その後、両国の知り合いの二畳間に身を寄せた二人だが、下宿先の家族には感謝しつつもその狭さに閉口し、新たな居場所として引っ越すことになったのが豊島区椎名町にあったトキワ荘という木造アパートだった。1952年に建てられたこのアパートは、残念ながら1982年に取り壊されたが、2020年、かつてのアパートから数百メートル離れた公園にトキワ荘ミュージアムとして忠実に再現された。
トキワ荘は、建造直後に手塚治虫が仕事部屋として二階に住み始めると、彼から技術を盗み、またお互いに切磋琢磨する場として、若き漫画家たちの梁山泊となった。そして令和の現代においては、漫画を愛する人々にとっての聖地である。いつ訪れても、来館者のほとんどが日本人であることに気づかされる。
「縁の下の力持ち」テラさんが繋いだ縁
この場所の凄さは、何と言ってもそこに集った漫画家たちのそうそうたる顔ぶれにある。「まんが道」で描かれるトキワ荘の場面は、圧倒的に夕方から夜にかけてが多い。二人が初めてトキワ荘を訪れた時も、夜の情景として描写されている。彼らがトキワ荘に滞在するきっかけを作ったのは、「テラさん」こと新潟出身の寺田ヒロオであった。彼は面倒見のいい兄貴分で、手塚治虫がトキワ荘を退去するのを機に、二人にその部屋に入るよう声をかけただけでなく、若き漫画家たちの切磋琢磨の場として「新漫画党」を発足させたりもした。
正直なところ、私は「まんが道」を見るまでテラさんのことを知らなかった。それも無理はない。彼は1960年代に「スポーツマン金太郎」や「背番号0」、「暗闇五段」といったスポーツもののヒットを飛ばしたものの、その後勃興した劇画の波に太刀打ちできず、健全な青少年のこころを育む作品を描こうとするも時流に乗れず、1973年にはペンを折っていたからだ。
しかし彼がいなければトキワ荘が現代漫画を生み出す場にはならなかっただろう。なぜなら、この四畳半の部屋には藤子不二雄だけでなく、「天才バカボン」の赤塚不二夫や「サイボーグ009」「仮面ライダー」の石森章太郎が、さらには新漫画党員として「空手バカ一代」「恐怖新聞」のつのだじろうや「ギャートルズ」の園山俊二など、そうそうたるメンバーが集っていたからである。ここがなければ、控えめに言っても日本のサブカルチャーは今とは全く異なるものになっていたに違いない。そして彼らを引き合わせ、経済的にも面倒を見ていたのがテラさんだったのだ。そのような経緯もあり、「まんが道」では縁の下の力持ちに徹したテラさんが非常に好意的に描かれている。
2020年にトキワ荘ミュージアムを開館する際、当時存命だった安孫子素雄に会館特別展を依頼したところ、彼は辞退したという。自身がトキワ荘に入れたのはテラさんのおかげであり、テラさんがいなければトキワ荘は漫画の聖地にならなかった。自分がテラさんを差し置いて開館特別展の主役になるのは筋が違う、というのがその理由だった。そのため、2020年の開館特別展は「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ展」となった。ちなみに、テラさんの部屋は、トキワ荘通りお休み処の二階に復元されている。
描きたいものを描き、得意分野のストックを
「まんが道」では、手塚治虫から学んだことがふんだんに盛り込まれている。例えば、読者のことを念頭に置くのはもちろんだが「自分の描きたいものを描くこと」を重視していた。描きたくないものを無理に描くと嫌気がさし、作品に集中できないからだという。そういえば、水木しげるも無名の頃、大手漫画雑誌から宇宙ものを描くよう依頼されたが、悩んだ結果断った経緯がある。それで失敗すると二度と仕事が回ってこなくなるからだと考えたのだろう。そう考えると、テラさんが自分の信じる健全な青少年の心を育む漫画以外は描かない、という姿勢にも筋が通っていると言えよう。
とはいえ、テラさんが花を咲かせることができたのはスポーツ分野に限られた。そのこともあってか、手塚は続ける。「漫画家はいつも描きたい素材をたくさん貯金しておかなければならない」と。これは通訳案内士である私にとって非常に納得のいく言葉だ。私自身、興味のあること以外はめったにしない。ただ、「得意分野のストック」として、毎月このような文章を綴るために本を読み、様々な場所に赴き、取材を行っている。
何度訪れても閉館時間まで滞在してしまうこのミュージアムだが、閉館後にはいつも商店街の松屋というラーメン屋に立ち寄る。ここもファンたちの間では聖地となっており、店の前には「まんが道」のコピーの切り抜きが貼られている。二人が「ンマーイ!」と富山弁で叫んだここのラーメンの味は、飾り気のない昭和の東京ラーメンそのものである。現在のラーメンブームのように味を追求しすぎたものではなく、素朴に美味い。典型的な東京ラーメンとはなにかと尋ねられたら、ここを紹介するかもしれない。
そこから筋向いの路地に入ったところに、かつてのトキワ荘があった場所があるが、今は出版社になっている。漫画家たちの夢の抜け殻のような場所を感じてから、椎名町を後にする。
藤子不二雄ⓐまんがワールド
藤子不二雄の片翼を担う安孫子素雄、すなわち藤子不二雄ⓐの故郷は、厳密には高岡ではない。能登半島の付け根に位置する氷見市である。寒ブリと富山湾越しに望む立山の絶景で名高い雨晴海岸を有するこの町の商店街は、「マンガロード」として親しまれている。その一角に佇むのが、かつての銀行を改装したという「氷見市潮風ギャラリー 藤子不二雄ⓐまんがワールド」だ。高岡市の藤本ギャラリーに比べると、その規模は質素だが、それこそが安孫子の故郷「らしい」と感じさせる。
この「らしさ」は、ギャラリーの入口に並ぶキャラクターたちにも表れている。「プロゴルファー猿」、「忍者ハットリくん」、「怪物くん」「魔太郎がくる!!」、「笑ゥせぇるすまん」など、日本国内で広く知られながらも、常に「影」をまとっているようなキャラクターばかりである。高岡のギャラリーでは「どこでもドア」をくぐるようなワクワク感があったが、ここではそのような仕掛けはない。一階から二階へ続く螺旋階段を上る時でさえ、その先に何が待っているのか、漠然とした不安すら覚えるほどだ。
藤子不二雄の「表看板」は、世界に名を馳せる「ドラえもん」であり、これは藤本弘の仕事である。一方、安孫子素雄の作品に登場するのは、野人、忍者、怪物、いじめられっ子、正体不明のセールスマンといった、孤独を楽しむアウトサイダーやアウトローばかりで、いわゆる「市井の人」は皆無に等しい。藤本と安孫子の関係は、ある意味で手塚治虫と水木しげるの関係にも似ている。藤本作品が問題を抱える人々に希望を与え、救いの手を差し伸べる一方で、安孫子作品は読者を暗闇へと突き落とす。この世の両面を二人が分担しているかのようにも見える。かつてある中国人が、「中国ではドラえもんのような世界はありえない」と語った。富裕層のスネ夫や秀才の出木杉、そしてそれなりの階層の美少女しずかちゃんが、しがないサラリーマンの息子であるのび太や父親不在の小売業者の子であるジャイアンと同じ学校に通うはずがないというのだ。
「魔太郎がくる!!」
しかし、のび太はタイムマシンを使って未来へ行っても、その本質的な成長はない。もし彼が勉強もスポーツもできないまま中学生になったとしたらどうなるだろうか。私は、彼が皆からいじめられる「魔太郎」になるのではないかと考えてしまう。
「魔太郎がくる!!」は、藤子漫画の中でも特に陰惨な作品の一つだろう。中学時代に古本屋でこの漫画を手にした時、これが本当に藤子漫画かと驚き、同時に得も言われぬ不気味な魅力に取り憑かれたことを覚えている。体力もなく、いじめられっ子で陰鬱なメガネの中学生・魔太郎には、のび太と異なり、憧れの女子生徒はいても友達と呼べる存在がいない。いじめられても助けてくれる者もいない。そして最後に必ず「うらみはらさでおくべきか」と呪いの言葉をかけ、いじめた相手を傷つけ、時には死に至らしめることさえある。
救いようのない作品だが、「ドラえもん」と同時期の1972年から1975年に連載されていたという事実は驚きである。見事なまでに安孫子と藤本が「陰」と「陽」を使い分けている。ちなみにこの連載開始後間もなく、「いじめ」が社会問題として取り上げられるようになっていった。
のび太が大きくなったら…
小学生ののび太が現実社会において中学生になったら、いじめられっ子で、しかも恨みを晴らすことすらできない「魔太郎の出来損ない」にしかならないかもしれない。だとしたら成人後はどうなるだろうか。ピンとくるのが「笑ゥせぇるすまん」である。怪しげなバーで大人たちの身勝手な望みを叶えようとする喪黒福造だが、結局は欲張りすぎて自ら破滅の道をたどる大人たち。それこそが、のび太の、いや、富裕層でも秀才でも腕力も美貌もない、我々大多数が一歩間違えれば歩んでしまう道ではないだろうか。
藤本は我々にファンタジーを見せてくれる。そして安孫子は、オカルトではない現実を突きつけてくる。二人がいてこそ「藤子不二雄」であり、二種類の表現があってこそ世の中は成り立つ。そこには明暗のコントラストがはっきりとした黒(陰)と白(陽)の世界がある。二つの世界が対立しながらも出会うことで、ファンタジーは現実に、現実はきれいごとに姿を変え、真の世界が立ち現れる。ただ、藤本が「のび太は自分」と言っていたように、安孫子にとっても、恨みを晴らせない魔太郎や、欲望を抑えきれず罰を受ける大人も安孫子自身であり、ひいては読者にとっての自分自身ではないだろうか。
藤本=鬼太郎、安孫子=ねずみ男
ベクトルは正反対とはいえ、藤子不二雄にはペンと紙、そして手を差し伸べてくれる人々がいた。そして何よりも、有り余る才能と努力できる体質があった。それらがあらゆる問題を解決してくれる「ドラえもん」の役割を果たしたのだ。しかし、我々大多数にはそんなものなどない。それでも生きていくしかないことを伝えてくれるのが、安孫子の役割だったと言える。「ゲゲゲの鬼太郎」に置き換えれば、藤本作品が鬼太郎、安孫子作品がねずみ男であり、「ねずみ男的」な私たちをこれでもかと見せつけられているような気がする。
展示資料の内容からすると、川崎・高岡の「藤本系」ギャラリーより、氷見の「安孫子系」ははるかに地味である。「魔太郎がくる!!」など、マイナーなコミックが読み放題のライブラリーがあることを除けば、面積や展示品においてもその傾向は顕著だ。とはいえ、今回ここを訪れずにはいられなかったのは、陰と陽があって一つであるという思いからだった。そんな思いを残し、再び高岡へと向かった。目の前には、その名の通り「盾」のような立山が雄大にそびえ立っていた。
北国と都会のねじれと奥深さ
一年の三分の一は頂上に白い雪をいただく立山を眺めながら、改めて一つの思いに至った。もしかしたら昭和の漫画界を支えた人々には、北国出身者が多かったのではないかと。トキワ荘に集った「大物」の中でも、手塚は別格としても、藤子不二雄は富山県、石ノ森章太郎は宮城県、寺田ヒロオは新潟県、赤塚不二夫は満洲から新潟県と、漫画界の王道を歩んだビッグネームには、北国出身者がやたらと多い。
一方で、手塚を恐れさせた「ガロ」集団を率いた長井勝一は宮城県出身であり、水木しげるも山陰地方で「北国最南端」とも言えるかもしれないが、ビッグネームは東京組が中心である。白土三平は杉並区の高円寺・阿佐ヶ谷間で生まれたが、近くに朝鮮人集落があり、その後大阪の被差別部落や長野の農村を転々とした。つげ義春は葛飾区立石で生まれ、伊豆大島を経て新潟赤倉温泉に疎開した後、立石で少年期を過ごした。下町出身者ばかりかと思えば、みなみしんぼうは世田谷、根本敬は目黒区である。その他、劇画の辰巳ヨシヒロは大阪天王寺、みうらじゅんは京都市など、関西組も存在するが、ここで興味深い傾向を見出した。
「手塚系」の親分は都会人、子分が北国出身者であるのに対し、「ガロ系」は親分は北国の農村出身、子分たちは都会人が多いという事実である。この「ねじれ」が、もしかしたら戦後の日本漫画の奥深さと多様性を生み出したのかもしれない。
津々浦々に散らばる漫画関連施設
2025年に葛飾区に「こち亀記念館」ができたと聞き、早速足を運んだ。そこでの感想はひとまず置いておくとして、私は漫画オタクではないが、一体自分はこれまでどれほどの漫画関連施設を訪れてきたのだろうかと指を折りながら考えた。有名どころでは、京都の国際マンガミュージアムのような漫画の殿堂から、秋田県横手市増田の田園にそびえ立つ、原画保存日本一を謳われる白亜の殿堂「まんが美術館」、宮城県石巻市の石ノ森萬画館、新潟市のマンガ・アニメ情報館および漫画家の家、東京ならば世田谷区の長谷川町子記念館、静岡市清水のちびまる子ちゃんランド、鳥取県北栄町の「名探偵コナン」で知られる青山剛昌ふるさと館、高知県香美市のやなせたかし記念公園など、東奔西走してきたが、まだまだ訪れていない場所が多い。そして気づいたのは、日本津々浦々で漫画家を「先生」と呼び、地域の宝として尊敬する風潮が根付いているということだ。
それにしても、なぜここまで日本人は漫画を愛するのだろうか。もちろん、アメリカのアメコミやフランスのバンド・デシネ、中国の連環画など、漫画文化は普遍的に存在する。かつて社会主義国でも、スローガンとともに必ず漫画があった。だが、これほどまでに政治的にも経済的にも人生をかけて漫画を作り上げ、それを心から愛し続けてきた国民や民族が、他にいるのならば教えてほしい。
北国の漫画家を引き付けた手塚の魅力
手塚治虫は1989年2月9日にこの世を去った。昭和とともに生まれ、昭和の終わりを待たずに亡くなったことになる。翌日の朝日新聞に掲載された社説には、「なぜ、外国の人はこれまで漫画を読まずにいたのだろうか。答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ」と書かれている。それでは「漫画の神様」と称されてきた手塚治虫、すなわち戦後漫画の本質とは何だったのだろうか。それは、映画を紙上で再現させたストーリー漫画の構築、オノマトペや漫符(冷や汗や怒りの青筋、照れた時の赤面、疲れたときの目のクマなど)、自由で効果的なコマ割りや吹き出しといった、テクニック的なものだけではない。私は、陽の中に陰、陰の中に陽を併せ持つ彼のキャラクターの豊かさに、大衆が反応したからだと考える。つまり、正義を代表する明るいアトムも、「成長しない」ことを理由にサーカスに売られたという影がある。カネで動く天才無免許医師ブラック・ジャックの中に、優しさと正義感が込められていることなどである。
明治・大正から戦前期において、漫画は政府批判に使われたが、人間の世界は大衆=正義、政府=悪と割り切れるほど単純ではない。戦時中はもちろん、戦後になっても漫画・アニメは日米両軍によって利用された。近代を通して、日本の漫画は「酸いも甘いも噛み分け」てきたのだ。そこに「絶対善も絶対悪もない」ことを身に染みて知り、それでも戦後世代の明るい日本の再建を信じることができた手塚は、やはりハイカラな大正期の宝塚文化の中で育ったからだろう。そしてそれを眩いばかりに受け止めたのが、「トキワ荘組」の北国の民だったのだ。
都会人たちをひきつけた「ガロ」の魅力
一方、手塚より6歳年長だったために徴兵され、生死を彷徨った挙句左手を失った水木しげるは、漫画家として最も大切な少年期に手塚の影響を全く受けることはなかった。それどころか、「のんのんばあ」という出雲の老婆の影響を受けている。この裏日本に根付く土着の民俗性と湿り気を帯びた漫画に心惹かれるほど、当時の北国、ひいては日本は豊かではなかった。
食えない1950年代だったが「明るい未来」を信じることができた手塚的なトキワ荘が北国の若者を引きつけ、かろうじて食えるようになった1960年代、それまでの経済成長の「ツケ」が公害や安保といった形で表面化した頃、東京や京阪の都会人たちは、貧しいながらも日本の原点である「白土的」「水木的」な「ガロ」に惹かれていったのではないか。
今回の旅は、世界が注目する日本の「漫画」の道を切り開いた男たちの「それぞれのまんが道」を辿り直すことで、日本人にとって漫画とは何だったのかを振り返る機会となった。そして先ほど手元のスマートフォンでchatGPTを使い、試しに漫画風のトキワ荘の様子を作成してみて驚いた。まだまだではあるが、数回作り直せばそれなりのものができるではないか。私はもちろん漫画など描いたことはない。それなのにこの出来には驚きを隠せない。漫画は変わってしまったのだ。作画だけで言えば、世界中の誰でも漫画家になれる時代になってしまった。
しかし、日本の漫画がなくなることはないだろうと私は確信している。なぜなら、作画だけでは漫画にはならず、そこに複雑な哲学や世界観、民俗性といった、漫画千年ともいえる歴史の継承を、AIは情報としてしか受け取っていないからである。今後の日本の漫画に期待しつつ、まだ訪れていない漫画の旅、とりあえず私の性分に合いそうなつげ義春あたりの足跡でも追ってみたいと思う。(了)
