【塾講師の日常ショートショート】教養と快感
二〇二五年八月某日。
夏期講習の夜。クーラーが頑張っている教室で、休み時間を迎えた。
「先生、これ見てほしいんですけど〜」
高1の塾生である近藤柚葉(こんどう・ゆずは)が、スマホを差し出してきた。画面には、波と星空が融合した不思議な絵。
光太郎は一目見て、思わず声をあげた。
「うほ!」
「…え、何その反応。おサルですか」
「いやいや、これはね…『神奈川沖浪裏』と『星月夜』を合成してるんだよ」
「おお〜、元々別々の絵なんですね!そういえば中学生の頃、美術の資料集で見たことあるかも」
柚葉が笑う横で、同じく高1の弓木菜々子(ゆみき・ななこ)が、ふっと鼻で笑った。
「そんなの知ってても意味なくないですか?」
光太郎は椅子から半分立ち上がって、軽く菜々子を指さした。
「意味、あると思うなあ」
「えー、だってテストに出ないでしょ」
菜々子は冷めた目で光太郎を見た。
「日本史探究選択なら『神奈川沖浪裏』は出るよ。それよりさ、今この瞬間に俺、ちょっと楽しそうにしてるでしょ?それが知ってる意味だよ」
「まあ…そうですけど、それって自己満じゃないですか」
菜々子の表情は曇ったままだ。
光太郎は休み時間にもかかわらず、授業の時と同じ真剣な顔で教壇に腰を預けた。
「何かを知ってることってのはね、人生の『ツボ』を増やすみたいなもんなんだ」
「ツボ?」
菜々子と柚葉が顔を見合わせる。
「例えばさ、誰かが『このお店、ミケランジェロっぽくて素敵』って言ったときに、『ああ、ダビデ像のあの感じね』って返せたら会話が広がる。知らなかったら『え、誰?』で終わっちゃう」
菜々子が、少しだけ考えるような顔をした。
「…それで『モテる』ってこと?」
「まあ、そういう時もあるかもね。あとは、笑いを起こせる」
「笑い?」
光太郎はさらに続けた。
「ゲームでもそうだよ。たとえば友達とゲームをしてて、敵キャラが『ムンクの叫び』に似てたら、『ムンク出た!』って言ったら楽しい。それを知らなかったら、ただの敵キャラだ。何の面白みもない」
「先生、絶対声に出して言ってそう」
柚葉はそう言って笑う。
「もちろんさ」
光太郎は小さく頷いた。
「知ってるとね、世界にツッコミどころが増えるんだよ。面白い看板を見ても、歴史を知ってたらさらに笑える。映画の小ネタも拾える」
菜々子が、わずかに口元を緩めた。
「…まあ、笑えるのは悪くないですね」
「でしょ?知識って、笑いの燃料にもなるんだ」
「でも、学校の勉強ってそういうのとちょっと違う気がするんですけど?」
菜々子はまだ納得のいかない様子で、難問を解いている時と同じ顔をしている。
「そんなことないよ。学校で習うことが土台になるんだ。今日の絵だって、『富嶽三十六景』って社会の授業で聞いた記憶があれば、ネットで見た瞬間に脳内で情報が繋がる」
柚葉が勢いよく頷いた。
「…まあ、ゼロよりは知ってた方がいいのか」
菜々子もそう呟いた。
光太郎は笑顔になる。
「ゼロよりずっといいよ。知ってると、人生の『うほ!』が増えるから」
「あのー、『うほ!』って何ですか」
菜々子はいつもの気の抜けた笑顔になって光太郎に訊いた。
「心のガッツポーズ、みたいなもんだね。自分だけが分かる面白さを見つけた瞬間に出ちゃう声」
休み時間の終わり、菜々子がスマホを取り出した。
「じゃあ私、今からネットで『先生をうほ!って言わせる画像』探します」
「お、勝負だ!」
柚葉もすぐに検索を始めた。
「望むところだよ。君が俺を『うほ!』って言わせられたら、次の授業、5分延長して雑談しよう」
チャイムが鳴り、生徒たちは机に戻る。
菜々子の画面には、すでに「名画 面白い コラ画像」と検索された文字が光っていた。
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