#こんな一日だったらいいな【塾講師の日常ショートショート】
二〇二五年九月。朝七時。
塾講師の石川光太郎(いしかわ・こうたろう)は、二階の寝室で目を覚ました。
「よし、今のうちに」
小さくつぶやき、二階の勉強部屋に向かった。まだ、一歳になったばかりの娘・梨花(りんか)と妻の麗子(れいこ)は寝ている。
九月になり、窓から差す光は先月より少しだけ穏やかになった。
単語帳と英文プリントを広げる光太郎。
ペンを走らせる音だけが部屋に響いた。
八時。階段を下り、一階のリビングへ。
「おはよう。今日も早いね」
麗子が振り返る。
「うん、単語ちょっとだけやってた」
「すごいねぇ、尊敬するわ」
梨花がおもちゃを振り回し、「ぱぁ!」と声をあげる。
「おっとっと。おはよう、梨花」
抱き上げると、ふわりとした匂いが胸に広がった。
朝食を囲んだあと、家事を分担する。梨花に積み木を渡すと、彼女は真剣に積み上げ、崩れると「きゃはは」と笑う。
「はいはい、ママのお手伝い中だからね」
そうこうしているうちに、午前はあっという間に過ぎた。
昼前。光太郎はキッチンに立ち、弁当箱を取り出す。
「今日の休憩用に、卵焼きでも入れるか」
「……甘すぎないようにね」
麗子がそう言って笑う。
十三時十五分、車で出発。
窓の外に広がる町並みは、いつもと変わらない。だが、教室に行けば、毎日何か特別なことが起きる。
道中、いつも光太郎の心は期待で満ちていた。
事務作業をしながら生徒たちに声をかけて、あっという間に十七時四十五分。職場の休憩室で弁当を開く。
「うん、ちょうどいい甘さ」
思わず声に出す。誰もいないのをいいことに、にやりと笑った。
教室に戻れば、生徒たちの声が待っている。
「先生、この文の訳、どうしても変になるんですけど」
「それはな、コツがあって——」
光太郎が例文を書き出す。
Even if I had a girlfriend, I wouldn’t be happier.
黒板にそう書いた途端、教室の空気が変わる。
「先生、その例文、彼女できないやつの言い訳みたい!」
生徒のひとりが声をあげ、どっと笑いが広がった。
「違う、きっと彼は過去に何かあったんだ」
光太郎も笑いながら突っ込む。けれど、この笑い声の中に、確かな学びの手応えを感じていた。
夜二十二時半。帰宅。玄関を開けると、温かな灯りと麗子の声。
「おかえりなさい」
「ただいま。梨花は?」
「一階の部屋でぐっすり」
「明日また一緒に遊ぼう」
二十三時半に入浴を済ませ、深夜〇時。
二階の勉強部屋で少しだけ英文を読む。集中の余韻を味わい、零時半に寝室へ。
布団に潜り込み、まぶたが落ちる前に、光太郎は小さくつぶやいた。
「明日も、こんな一日だったらいいな」
小海いとさんの企画に参加させていただいております。
「理想の一日」、頭の中にはあるのですが、言語化する機会ってなかなかないですよね。
文字にする怖さもありました。「理想と現実の差」のようなものを突きつけられるような気がして。
でも、勇気を振り絞って書くことで、「今日も少しでもいい一日にしよう」という気持ちが湧いてきたというか。
心は幾分前を向きました。
いとさん、ありがとうございます✨
いいなと思ったら応援しよう!
応援してください。
いつか小説風エッセイ集を出すための軍資金とさせていただきます!!