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ビートルズより早かったフュージョンの始祖─《第一回:ガボール・ザボ生誕90周年記念特集》

序章:フュージョンの源流を探る

ジャズとロック、ジャズとソウル、ジャズとファンク、ジャズとクラシック音楽、そしてジャズと民族音楽など…さまざまな音楽ジャンルとの融合を試みた「フュージョン」というジャズ革命。その誕生の背後には、鉄のカーテンを越えてアメリカへ渡った一人のギタリスト、ガボール ザボの存在があった。彼こそが、最も早い時期にさまざまな音楽要素をジャズに取り入れ、後のジャズに無限の自由を示した真の先駆者である。


1 独学のギターと「自由」への亡命

1936年3月8日、ハンガリーのブダペストに生まれる。14歳の時、父から贈られたギターをきっかけに独学で演奏を習得した。1950年代のハンガリーはソビエト連邦の強い影響下にあり、西側の文化であるジャズは「退廃的な資本主義の音楽」として制限されていた。そんな中、若きガボールザボが食い入るように耳を傾けていたのが、短波放送のボイス オブ アメリカ(VOA)だ。特にウィリス コンオーバーがパーソナリティを務める番組「ジャズ アワー」は、東欧の若者たちにとって唯一無二のジャズの教科書であった。1956年10月に発生したハンガリー動乱の混乱の中、ギターを抱えてオーストリアの難民キャンプへ逃れ、アメリカへ亡命した。

憧憬の対象となったギタリストたち

ザボがラジオを通じて最も衝撃を受け、コピーに励んだのが以下の3人の名手だ。

  • ジョニー スミス 「ムーンライト イン バーモント」のヒットで知られる、洗練されたコードワークと透明感のあるトーンの持ち主。ザボの初期の流麗なフレージングにその面影が見て取れる。

  • タル ファーロウ 「オクトパス」の異名を持つほどの手の大きさを活かした、高速かつ複雑なビバップ スタイル。ザボは彼の超絶的なテクニックを独学で解析しようと試みた。

  • バーニー ケッセル チャーリー クリスチャンの直系でありながら、よりモダンでスウィング感あふれるプレイ。ザボのジャズ ギターとしての基礎体力は、ケッセルのレコードを聴き込むことで養われた。

クール ジャズへの傾倒

ザボは、当時の最先端であった「ウェスト コースト ジャズ(クール ジャズ)」の響きに強く惹かれていた。 特にジェリー マリガンチェット ベイカーが織りなす、過度に情熱をぶつけない抑制されたアンサンブルと叙情的なメロディ ラインは、後にザボが確立する「浮遊感のあるサイケデリックなサウンド」のルーツといえる。

民族の血とジャンゴ ラインハルト

また、独学でギターを始めた彼にとって、同じヨーロッパのルーツを持つジャンゴ ラインハルトの存在は別格であった。アコースティック ギターのダイナミクスと、ロマ(ジプシー)音楽特有の哀愁を帯びた音階。これにハンガリー民謡の要素が混ざり合うことで、アメリカの黒人音楽としてのジャズとは一線を画す、ガボール ザボ独自の「エキゾチック ジャズ」が形作られていった。
後年、彼はエリック クラプトンやジョージ ハリスンといったロック ギタリストからも刺激を受け、さらにラヴィ シャンカールからインド音楽のドローン(持続音)効果を学ぶことで、唯一無二のスタイルを完成させることになる。



2 バークリー音楽院と渡辺貞夫との出逢い

カリフォルニア州サンバーナーディーノで清掃員として働きながら資金を貯め、1958年にボストンのバークリー音楽院へ入学した。1960年まで作曲と編曲を専攻。このボストン滞在期に、後に「世界のナベサダ」として知られる日本のサックス奏者、渡辺貞夫と出会う。1965年にはゲイリー マクファーランド クインテットで共演。同年11月のザボの初リーダー作『Gypsy '66』には、当時留学中だった渡辺がフルートで参加している。渡辺は後に「ザボのミュージシャンシップから多大な影響を受け、自ら曲を書くきっかけになった」と回想しており、二人の友情は国境を越えた音楽的足跡を残した。

Gabor Szabo / Gypsy '66 - Impulse! / AS-9105



3 ボブ シールの絶賛:「ザボは魅力的だった」

1960年代、インパルス レコードでリーダー作を発表し始めたザボだが、当時の看板プロデューサーだったボブシールは、ジョンコルトレーンと並んで彼をレーベルの最重要アーティストとして重要視していた。

ジョン コルトレーンとの接点:インパルス二大巨頭の明暗

  1. 看板プロデューサーが繋いだ「対極の二人」
    ガボール ザボとジョン コルトレーンは、共にインパルス レコードのプロデューサー、ボブ シールに寵愛されたアーティストでした。シールは、コルトレーンが追求する「精神的で前衛的なジャズ」と、ザボが追求する「エキゾチックでポピュラーなジャズ」の両方を、インパルスの二本柱と考えていました。 シールの有名な言葉「コルトレーンは偉大だったが、ザボは魅力的だった」は、まさにこの二人が当時のレーベルにおいて、コインの表と裏のような重要な存在だったことを物語っています。

  2. 「India」と「Jazz Raga」の共鳴
    ザボはコルトレーンの音楽を深く尊敬しており、コルトレーンが1961年に発表した「India」には大きなインスピレーションを受けたと語っています。 コルトレーンがインド音楽を「スピリチュアルな瞑想」として取り入れたのに対し、ザボはそれを「ギターの音響的な快楽」として昇華させました。直接語り合うエピソードは残っていませんが、同じシャンカールのレコードを聴き、同じ時期に東洋への扉を開いた二人は、音楽を通じて深く対話していました。

ボブシールは後に、以下のような有名な言葉を残している。

コルトレーンは偉大だったが、ザボは魅力的だった

by Bob Thiele

これは、前衛的かつ精神性を追求したコルトレーンに対し、ザボが持っていた独特のエキゾチックな情緒や、ジャズの枠を超えて大衆を惹きつけるメロディアスなセンス(=チャーム)を、シールがいかに高く評価していたかを物語るエピソードとして知られている。




4 ビートルズよりも先駆けインド音楽への傾倒

ザボがインド音楽の研究を始めたのは1961年頃である。ラヴィ シャンカールの音楽に深い感銘を受け、ギターの開放弦を共鳴させる「ドローン奏法」の開拓に没頭した。これはジョン コルトレーンとほぼ同時期であり、ビートルズ(1965年)やローリング ストーンズ(1966年)がシタールを取り入れるよりも遥か前のことだ。1962年のチコ ハミルトン クインテットの『Passin' Thru』ですでにその手法を披露し、1966年の名盤『Jazz Raga』では自らシタールを手に、ジャズとラガ(インド音楽の旋法)の完全なる融合を達成した。

【年】      【アーティスト】        【内容と影響】
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1961年      ジョン コルトレーン     「India」録音。ヴェーダの詠唱を導入。
1961年      ガボール ザボ           シャンカールの音楽に感銘。ドローンの研究開始。
1962年      ガボール ザボ           「El Toro」にて、開放弦ドローン奏法を初披露。
1965年      ビートルズ              「Norwegian Wood」でシタールを演奏。
1966年      ストーンズ              「Paint It Black」でシタールを使用。
1966年      ガボール ザボ           「Jazz Raga」録音。自らシタールを演奏。
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コルトレーンやロック勢との違い

ザボのインド音楽へのアプローチは、単なる「楽器の持ち替え」や「異国情緒の追加」に留まりませんでした。

  • ジョン コルトレーンとの共通点 ザボとコルトレーンは共にラヴィ シャンカールのファンであり、1960年代初頭の時点で「モード(旋法)」の延長線上にインド音楽の可能性を見出していた。コルトレーンが精神性や宗教的な広がりを求めたのに対し、サボはよりギターの音響的な可能性(フィードバックや開放弦の響き)にフォーカスしていた。

  • ビートルズ / ストーンズとの関係 1965年〜1966年にかけてロック界でシタールが流行した際、ザボはすでにその道の先駆者として認知されていた。実際、ザボの1966年の名盤『Jazz Raga』では、ストーンズの「Paint It Black」をカバーしている。これは、ロック側がインド音楽を取り入れた流行を、ジャズ側からさらに高い演奏技術で「逆輸入」した象徴的な出来事だ。

ギタースタイルへの反映

ザボは、アコースティック ギター(マーティン D-28等)にピックアップを取り付け、開放弦を共鳴させることで、シタールの「共鳴弦」に近い響きを作り出した。チョーキングやスライドを多用し、音を揺らすスタイルは、西洋音楽の平均律では割り切れないインド音楽特有の「飾り音(ガマカ)」をギターで再現しようとした結果と言える。

ザボのこうした実験精神は、後のジョン マクラフリン(マハヴィシュヌ オーケストラ)やカルロス サンタナらへ、ジャズ ロックと東洋音楽の架け橋として大きな影響を与えていくことになった。

Chico Hamilton / Passin' Thru (1962年録音) ザボがチコハミルトンのグループに加入して間もない時期の作品。収録曲「El Toro」 この曲でザボは、スペイン風の旋律の中に、開放弦を共鳴させ続ける「ドローン奏法」を組み込んでいます。これは彼がラヴィシャンカールから学んだ「持続音(タンブーラの役割)」をギター一本で表現しようとした初期の試みです。

Gabor Szabo / Jazz Raga (1966年録音) 「1961年からの研究」が完全に完成形となった、彼のキャリアで最もインド音楽に特化したリーダー作です。このアルバムでは、ザボ自身が実際にシタールを演奏している曲もあります。タイトル通り「ジャズ」とインド音楽の旋法である「ラガ」の融合をコンセプトにしており、当時のロック界のシタールブームに対するジャズ側からの決定的な回答となりました。




5 ラリー コリエルへの影響とフュージョンの誕生

ザボが切り拓いた「ジャンルレス」な姿勢は、ラリー コリエルジョン マクラフリンなど次世代のギタリストたちに直撃した。コリエルはザボの「Gypsy Queen」をカバーし、そのエキゾチックな音階とロック的なダイナミズムを継承。同じく「Gypsy Queen」は後にサンタナもカバーし世界的なヒットとなり、1971年の「Breezin'」(ボビー ウーマックとの共演)はジョージ ベンソンの出世作の種となった。ザボが提示した「ジャズにロックや民族音楽を混ぜる」という手法こそが、後のフュージョン ムーブメントの原点となった。まさにフュージョンはザボから生まれた、と言っても過言ではない。

フュージョンの旗手ラリー コリエルとザボの間には、深い師弟関係にも似た接点がある。

  1. 壁の穴から盗み見た「衝撃の出会い」
    ラリー コリエルが初めてザボの演奏を目撃したのは、まだ彼が地元のシアトルにいた頃でした。当時、未成年でジャズクラブ「The Penthouse」に入れなかったラリーは、なんとクラブの壁に開いた穴からステージを覗き見していたといいます。 そこでマーティンのアコギにデアルモンドのピックアップを付け、開放弦を共鳴させてシタールのような音を出すザボの姿に衝撃を受け、「今まで聴いたことのない、エキゾチックでユニークな演奏だ」と確信。これがラリーにとっての「ジャズギターの概念」が覆された瞬間でした。

  2. チコ ハミルトン バンドでの「後継者」
    ラリー コリエルがプロとして世に出るきっかけの一つは、1966年にチコ ハミルトンのクインテットに加入したことですが、実はこれはガボール ザボの後釜(入れ替わり)としての参加でした。 チコ ハミルトンはザボの独創的なスタイルを好んでおり、その後任を探していた際に、ザボと同じくロックやフォークの感性を持っていた若きラリーを抜擢しました。ラリーは「ザボが築いたモダンなギタースタイル」を継承し、さらにそれをロック的に爆発させることでフュージョンへの道を切り拓いたのです

  3. ザボからの教え:「楽器は二の次」
    ラリーは後年のインタビューで、初期の頃にザボから受けたアドバイスを大切に語っています。

音楽が第一で、楽器は二の次だ

By Gabor Szabo

ザボは高価なジャズギターにこだわらず、安価なフォークギターを改造して独自のトーンを作っていました。その「既存のルールに縛られない姿勢」こそが、ラリーが後に「フュージョンの旗手」として自由な音楽を奏でる最大の指針となりました。

4. 1971年の決定的カバー「Gypsy Queen」
1971年、ラリー コリエルはアルバム『Barefoot Boy』にて、自身のメンター(師)であるザボの代表曲「Gypsy Queen」をカバーしました。 これは単なるカバーではなく、11分を超える壮大なジャズ ロックへとアップデートされており、ザボが蒔いた「エキゾチックな種」をラリーが「フュージョン」という大樹に育て上げたことを象徴する名演として語り継がれています。


ジョン マクラフリンへのバトン:ギターの可能性を広げた先駆者

  1. ヨーロッパから見ていた「ザボの衝撃」
    1960年代、まだヨーロッパを拠点としていた若きジョン マクラフリンにとって、アメリカから届くガボール ザボのレコード(特にチコ ハミルトン時代)は驚異的なものでした。当時のジャズギターがまだ「フルアコでクリーンな音を弾く」という伝統に縛られていた中、ザボが聴かせた「フィードバック」や「開放弦の響き」は、マクラフリンに「ギターでこれほど自由な表現ができるのか」という確信を与えました。

  2. 「マハヴィシュヌ」への精神的継承
    マクラフリンが後に結成するマハヴィシュヌ オーケストラは、超絶技巧とインド音楽的な精神性が融合したフュージョンの金字塔です。マクラフリンは、ザボが1960年代初頭に始めた「ジャズにインドのラガ(旋法)を持ち込む」という実験を、より高度なテクニックと音圧で爆発させました。ザボが拓いた道をマクラフリンが舗装し、高速道路に変えたと言える関係性です。

  3. ジャンルの壁を壊した同志
    マクラフリンはかつてインタビューで「多くのジャズギタリストが伝統に固執していた中で、ガボール ザボは自分の耳を信じ、異なる文化を融合させた稀有な存在だった」という趣旨の敬意を払っています。ザボがポピュラーな「魅力」で扉を開け、マクラフリンがその奥にある「深淵」を突き詰めたという、見事な役割分担がそこにはありました。

ラリー コリエルやジョン マクラフリンといった後の巨星たちが、サボが蒔いたエキゾチックな種をそれぞれの形で大樹へと育て上げた事実は、まさに
「フュージョンはザボから生まれた」という言葉を裏付けている。その後、1970年代にその2人がギターデュオやスーパーギタートリオで、アコースティックギターでジャズ界に大きなムーブメントを巻き起こしたことも、決して偶然ではないでしょう。


終章:永遠のチャーム

晩年は薬物依存症の治療も兼ねて祖国ハンガリーを頻繁に訪問した。1982年2月26日、ブダペストの病院にて肝不全と腎不全のため45歳で死去。ガボールザボの音楽は、単なる技術の誇示ではなく、常に「歌」と「情緒」に満ちていた。ジャンルという枠組みを軽々と飛び越え、今なお多くの音楽ファンを魅了し続ける唯一無二のトーン。

次回、第二回は現代のヒップホップやレアグルーヴのシーンにおいて、いかにガボールザボが絶大な支持を得ているか、そのサンプリングソースとしての側面に焦点を当てます。

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