マイルスとギターの世界─《第六回:ジョー ベック篇》
引き続き、マイルスデイヴィス生誕100周年を記念し、過去にマイルスのバンドに参加した門下生ギタリストを紹介してまいります。
最大の謎 『ジョー ベックの起用』
マイルス デイヴィスがその長いキャリアにおいて、自身のレコーディング セッションに初めて「エレクトリック ギター」を導入した歴史的瞬間。それは1967年12月4日のことである。のちに『Circle in the Round』や『Water on the Pond』として陽の目を浴びるそのセッションで、帝王の隣に立ち、プラグインされた不穏な金属音を鳴らしたギタリスト。それが、当時まだ22歳だった無名の若者、ジョー ベックである。
ジャズ界の最高峰であるマイルス クインテットが、なぜ実績のないこの若き白人ギタリストを電撃的に起用したのか。一般的なジャズ史では「ニューヨークのスタジオシーンで噂になっていた新星を、耳敏いマイルスがフックアップした」という、美談めいた解説で片付けられがちだ。
しかし、モダンミュージックの歴史を血眼で掘り進めていくと、その奇妙な抜擢の裏に、ある「隠されたマスターテープ」と、マイルスという男が抱え続けた凄まじいエゴイズムの影が浮かび上がってくる。
そのミッシングリンクを繋ぐ鍵となるのが、のちに1970年になってポリドールからひっそりと発表されることになる異形のアルバム、サビーカス with ジョー ベック『Rock Encounter』である。
ジョー ベックとは
Joe Beck は、1945年生まれのアメリカ ニューヨーク出身のギタリスト。近所に住んでいたケニー バレルを聴きに通い、名門ミントンズ プレイハウスでウェス モンゴメリーの演奏に触れ、彼とセッションを重ねることでそのキャリアを始動させた。ラリー コリエルとは親友であり、ロック スタイリストやクロスオーバー プレイヤーからも深く尊敬される存在となる。1974年にはジェームス ブラウンのシングルやアルバムに参加し、その圧倒的な技量から全米録音芸術科学アカデミーより最優秀プレイヤー賞を5回授与された。ジャズやファンクだけに留まらず、ロンドンのロイヤル フィルハーモニー管弦楽団、イタリアのミラノ フィルハーモニー管弦楽団、フランスのパリ弦楽アンサンブルとも共演を果たすなど、ジャンルを超越した圧倒的な多才さを誇るモダン ギターの名手である。一時期は音楽業界に失望し、酪農家に転身して牛を育てるなど異色の経歴も持つ。
帝王のジャイアン気質と、トニー ウィリアムスへの嫉妬
マイルス デイヴィスという音楽家は、常に時代を更新し続ける開拓者として神格化されている。だが、その実態は、他者が耕した畑の最も美味しい果実を圧倒的なカリスマ性で強奪し、「すべては自分の発明である」と歴史を上書きしてきた男でもあった。
かつてピアニストのビル エヴァンスが、ほぼすべてを作曲した「Blue in Green」は、あたかもマイルスが作曲したかのようにクレジットを独占したこともあった。他にも、チャックウェインが作曲した「Solar」、エディクリーンヘッドヴィンソンが作曲した「Four」や「Tune Up」なども、今だマイルス名義のままだ。このように、「お前のものは俺のもの」と言わんばかりの、他人の手柄を奪うジャイアン気質があったことは、ある程度のジャズファンの間では常識的な話である。
そして彼のその気質は、作曲クレジットだけでなく、ジャズのサブジャンルの歴史にまで及んでいく。
レニ トリスターノらの白人クールジャズを『Birth of the Cool』として換骨駄胎し、ジョージ ラッセルが心血を注いだモードジャズの根底たるリディアン クロマティック コンセプトを『Kind of Blue』で我が物にし、ジョン ルイスやガンサー シュラーが提唱したサード ストリームをギル エヴァンスとの協働という形で「マイルスの世界」に昇華させる。そして承知の通りジャズギタリストたちが持ち込んだ、その後のエレクトリック ジャズやフュージョン、そしてヒップホップジャズ然りだ。マイルス=ジャズの歴史という絶対的なプライドの裏には、「お前のものは俺のもの」と言わんばかりの激烈なジャイアン気質が潜んでいた。
そのマイルスの心臓を最も激しく揺さぶったのが、身内からの裏切り、すなわち天才ドラマー、トニー ウィリアムスへの激しい嫉妬だった。1968年末、トニーがマイルスの元を去り、ジョン マクラフリンを擁して「ライフタイム」を結成し、自分よりも先に完全なジャズ ロックの爆音を鳴らし始めたとき、マイルスはトニーに向けて「俺より先にやりやがったな」という呪詛に近い言葉をぶつけている。
常に世界の最先端にいなければ死んでしまう狂気の天才。そのマイルスが、トニーの反逆よりも前、1966年から1967年にかけてニューヨークのアンダーグラウンドで進行していた「ある恐るべき実験」を、知らなかったはずがないのだ。

A&R Studiosの密室で繰り広げられた、早すぎたハイブリッド
この1966年から1967年にかけて、ロックの世界は文字通りパラダイムシフトの真っ只中にあった。1966年にはThe Beatlesが『Revolver』でサイケデリックの扉を開け、1967年にはThe Jimi Hendrix Experienceが『Are You Experienced』でエレキギターの概念を根底から覆し、Creamが『Disraeli Gears』でヘヴィなサイケデリック ロックを完成させている。まさにエレクトリック ギターが「時代の最先端の表現兵器」として覚醒した瞬間であった。
そんな激動の時代、1966年のニューヨークの7番街にあった名門「A&R Studios」。フィル ラモーンらが運営し、マイルス自身も頻繁に出入りしていたこのスタジオの密室で、もう一つの歴史的なセッションが始動していた。のちにパコ デ ルシアが畏敬の念を抱き、生涯の憧れとして公言することになるフラメンコ史上最高のテクニシャン、サビーカス。そして、サイケデリック ロックやファンクの洗礼を受けた新進気鋭のエレキ ギタリスト、ジョー ベックによる、伝統とロックの融合プロジェクトである。
マイルスは終生、スペイン音楽やフラメンコに対して『Sketches of Spain』に象徴される異常なまでの執念と敬意を抱き続けていた。その憧れの巨匠が、ニューヨークの若いエレキ ギタリストを相棒に据え、ファズやワウを駆使した最新のロック アプローチで、ジャズやフラメンコの境界線を破壊するようなセッションを行っている──。当時、ジミ ヘンドリックスの登場に焦り、エレクトリック化への道を病的なまでに模索していたマイルスが、この情報を耳にして色めき立たないわけがなかった。
サビーカスとジョー ベックがA&R Studiosで構築していたその音響は、まさにマイルスがこれから世界に提示しようとしていた「ロックのダイナミズムによる伝統の解体」そのものだった。
ここに、一つの黒い仮説が成り立つ。マイルスはこの『Rock Encounter』のマスターテープの存在を知った瞬間、強烈な脅威と嫉妬を覚えたのではないか。「このアルバムが今、世に出てしまえば、自分がやろうとしているエレクトリック革命は二番煎じになってしまう」と。

発売延期の謎と、ジョー ベックの「隔離」
『Rock Encounter』は、1966年から1967年にかけてメインのセッションが行われながらも、なぜか即座に発売されず、4年近くもの間、業界の闇にお蔵入り(塩漬け)にされている。スペイン語圏のフラメンコ研究論文や当時のレビューが本作を「1966年の出来事」と断定しながらも、実際のリリースが1970年まで遅れた理由について、明確な一次資料は存在しない。
だが、当時の音楽業界におけるコロンビア レコードとマイルスの絶対的な政治力を考えれば、マイルスが裏で手を回し、「こんな実験的な音源は商業価値がない」と圧力をかけ、リリースを凍結させたというシナリオはあまりにも符号が合う。
音源を封印した直後の1967年12月、マイルスはジョー ベックを自分のスタジオへ電撃的に召喚する。
これはマイルスによる「歴史の上書き工作」だった。ベックを自らのバンドに引き込み、最初のエレクトリック ギター セッションを記録することで、「ロックギターをジャズに導入したのは、サビーカスではなく、この俺だ」という既成事実を世間に植え付けようとしたのだ。
しかし、この電撃的な引き抜きは、歪んだ焦燥感が裏目に出る形で瓦解する。
ジョー ベックはのちに、このマイルスとのセッションをかなり辛辣に振り返っている。完璧に出来上がったアコースティックなクインテットのリズムセクションの中に、異物のようにエレキギターをねじ込んだところで、うまく行くはずがない、と。当時の現場では、マイルスも、バンドメンバーも、そして自分自身すらも「ギターに何をさせればいいのか分かっていなかった」というのだ。
結果として、帝王が強引に先回りを試みたこの日の録音は、マイルスの歴史において長くお蔵入りになる。ベックの持つ異端の才能は、マイルスという巨大なエゴの渦に巻き込まれ、一時的に隔離されたのである。

帝王の覇権確定と、封印を解かれた先駆作
時は流れ、1969年。マイルスはトニー ウィリアムスへの対抗心から『In a Silent Way』、そして不滅の金字塔『Bitches Brew』を録音。エレクトリック ジャズ/フュージョンの開拓者としての地位を完全に我が物にし、世界の音楽シーンの頂点に君臨した。
マイルス デイヴィスという絶対的なブランドが完成し、もはや誰一人としてその先駆性を脅かす者がいなくなったその瞬間を見計らうようにして、ポリドールは数年間眠らされていたサビーカスとジョー ベックのマスターテープを引っ張り出し完成させ、1970年、ついに『Rock Encounter』として世に放たれた。
もし、このアルバムがマイルスの妨害(あるいは政治的空白)を経ず、1966〜67年の段階でストレートに発売されていたら、1970年代のフュージョン ブームの起点として評価されていたのは、マイルスではなくサビーカスとジョー ベックだったかもしれない。
さらに注目すべきは、この『Rock Encounter』において、ジョー ベックは単にエレキギターを弾き倒しただけではないという点だ。彼はクレジット上で、全編にわたる「グループ アレンジ(バンド編曲)」を手掛け、「指揮(コンダクター)」を執り、さらに「リミックス監修」までを包括的に統括している。つまり、伝統的なフラメンコと最新のロックをどのように融合させ、どのような音響としてパッケージングすべきかという、その緻密な音世界を完全に裏でコントロールしていたのは、他ならぬ弱冠20代前半のジョー ベック自身だったのである。

※本稿で記述した歴史的事実や証言、タイムライン等に基づき、マイルス デイヴィスの動向や『Rock Encounter』の発売延期の背景について言及した一部分は、周辺の人間関係等から導き出した筆者独自の「仮説」および歴史的考察に過ぎません。これらの一部の推測に関しましては、確定した公的な歴史的事実を断定するものではないことを、あらかじめお断りさせていただきます。
次回も引き続き「マイルス門下生ギタリスト」をお送りします!
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