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【追悼】 ジェイムス ブラッド ウルマー研究─《解読拒否の野生が遺したもの》

2026年6月3日、孤高のギタリストであるジェイムス ブラッド ウルマーが86歳でこの世を去りました。既存の音楽メディアが教則や譜面として具現化できなかった「ハーモロディクス」の真実に迫ります。 

James Blood Ulmer(1940年2月8日 - 2026年6月3日)


ギタリスト紹介・バイオグラフィー

1940年2月8日、サウスカロライナ州セントマシューズ生まれ。意外にも、あのジミヘンよりも2歳年上で、ジョン レノンやフランク ザッパと同い年。1978年にソロデビューを果たしたウルマーは、彼らと同世代でありながら、キャリアのスタートとしては極めて遅咲きであった。

ウルマー自身のインタビューにおける証言によれば、彼の音楽のルーツは以下の通りである。

「私は教会の音楽から始めたんだ。ゴスペル グループで演奏したり歌ったりしていた。それが始まりで、聖歌隊に加わり、高校を卒業するまで続けた。高校を出てからピッツバーグへ行き、そこでドゥーワップ グループと演奏するようになった。街角に集まって歌っているようなグループさ。そこからドゥーワップ グループを経て、オルガン トリオへと移っていったんだ」

初期にはウェス モンゴメリーのような伝統的なジャズギタリストを目指していたが、17歳の時にピッツバーグでジョージ ベンソンの超絶技巧を目の当たりにした際、「あの道(正統派の上手いジャズギター)へ行くのは絶対にやめよう。自分は自分になるしかない」と気づき、路線を変更した。

プロとしてのキャリアは、R&Bピアニスト、オルガニストであるビル ドゲットのバックバンドから始まり、チャールズ イアランドらのオルガングループでファンクの基盤を演奏した。さらに、ツアー中だったキーボードの巨匠リチャード グルーヴ ホルムズやジミー スミス、ジョン パットン、ラリー ヤングらとセッションを重ねることで、ジャズとファンクの肉体性を徹底的に叩き込んでいく。

1960年代のデトロイト期が彼の変容期となる。ウルマーはデトロイトで、ファラオ サンダースやアーチー シェップらと共演しながら、自分のスタイルを徹底的に作り込んだ。

1971年にニューヨークへ進出。1981年の『High Fidelity』誌のレビューをはじめとする当時の批評では、ウルマーのサウンドを「初期70年代のマイルス デイヴィスのネオ ファンク」と、オーネット コールマンの先鋭的ジャズが融合したものとして位置づけている。つまり、マイルス電化期のファンク グルーヴと、オーネットのハーモロディクス的アプローチの中間点あるいは拡張として評価されていた。

1973年、ドラマーのビリー ヒギンスの手引きによってオーネット コールマンと出会い、ハーモロディクスに深く関わるようになった。オーネットのアパートで直接その理論を学び、伝統的なコード進行を拒否するアプローチを確立した。

1980年代後半から1990年代にかけては、DIWレーベルにおける「ミュージック リヴェレイション アンサンブル(MRE)」などの諸作において、デヴィッド マレイ、ジャマラディーン タクマ、ラシッド アリ、コーネル ロチェスターらと共演を重ねた。

ウルマーの初期録音が聴ける John Patton / Accent On The Blues (Blue Note)



マイルスとオーネット:両極を繋ぐ結節点としてのウルマー

1970年代から80年代にかけてウルマーが放ったサウンドが、「マイルス電化期のネオ ファンク」と「オーネットのハーモロディクス」の融合と評された背景には、ジャズ史におけるマイルス デイヴィスとオーネット コールマンの深い因縁が存在する。

1959年、オーネット コールマンがニューヨークに登場し、従来のコード進行を解体するアヴァンギャルド ジャズを提示した際、モダン ジャズ界の帝王であったマイルス デイヴィスは、彼の音楽を「狂っている」と公然と批判した。これはジャズ史における厳然たる事実である。

しかし両者の因縁は、オーネットのデビュー前年である1958年に起きた奇妙な符号からすでに始まっていた。それが、マイルスが実質的に主導したキャノンボール アダレイの『Somethin' Else』と、オーネット コールマンのデビュー作『Something Else!!!!』の同名アルバム事件である。

この2作の録音とリリースの日付には、以下のような不思議なねじれが存在する。

  • 録音日のねじれ(オーネットが先): オーネット コールマン『Something Else!!!!』のセッションは、1958年2月10日、22日、3月24日の3日間にわたりロサンゼルスで録音された。一方、キャノンボール アダレイの『Somethin' Else』は、1958年3月9日にニュージャージーにて1日で録音されている。セッションが始まった日付は、西海岸のオーネットの方が約1ヶ月早い。

  • リリース日のねじれ(キャノンボールが先): しかし、世に発売された順番は逆転する。キャノンボール アダレイ『Somethin' Else』は1958年8月に発売され、その翌月の9月にオーネット『Something Else!!!!』が発売された。これが無名の新人オーネットを察知したマイルスの仕掛けなのか、完全なる偶然なのかは今なお謎に包まれている。

実質マイルスのリーダー作(左)とオーネットのデビュー作(右)

その後、マイルスはコードの束縛から逃れるフリー ボップへ接近し、1970年代前半にはギターを多用した凶暴なエレクトリック ファンクを展開する。同時期にオーネットも2ギターを擁するエレクトリック グループ「プライム タイム」を結成し、両者は「リズムと音響の密度で音楽を駆動させる」という地平において急速にシンクロしていった。

かつて激しく対立した「マイルスの電化ファンク」と「オーネットのフリージャズ」。この一見相容れない二つの野生が、ファンクの肉体性とハーモロディクスの先鋭性をあわせ持つジェイムス ブラッド ウルマーという唯一無二のギタリストの登場によって、ついに結びついたように思えてならない。

1982年、ウルマーはインタビューでこう語った。

「ジャズは自力復興しようとしているんじゃないかい。それは、かつてのダンス・ミュージックの復興がなされた時の感じと似ている。人々はジャズで踊り始めている。昔を振り返ってみると、踊りは単純なダンスからタップ・ダンスへ、そしてスイング・ダンスへと移っていった。考えようによっては、ダンスは最も原始的なジャズのスタイルに戻りつつあるともいえるんだ。昔のようにじっくり座ってジャズを聴くというのは一般的スタイルでなく、もっとリズムと共に躍動し始めたという事だろう。」



ハーモロディクス(Harmolodics)の真実と音響設計

オーネット コールマンが提唱した「ハーモロディック理論」の本質は、メロディ、リズム、ハーモニーの上下関係をなくし、すべてを対等に扱う概念である。通常の音楽にある「あらかじめ決められたコード進行があり、その上でメロディを弾く」という主従関係を完全に解体する。

かつてインタビューで「ハーモロディック音楽とは何なんですか?」の問いに、ウルマーはこう答えた。

「基本的にはハーモロディックとはメトリカル(測量的、韻律的)な論理の事で、コールマンの奏法から来たものだ。私はハーモロディックな音楽を研究し、それをギターに応用した。ハーモロディック音楽を探るという事は楽曲における平均律以前の音の動きを見つける事にある。in-keyサウンドを当てはめる必要はなく、無均律でありながら、キーの存在を錯覚させるサウンドを作り出す事なのだ。つまりハーモロディック音楽というものは、メロディに対応する構造の置き換えができるものなので、フィーリングで思考する事が可能なのだ。基本的にはin-key(キーのあるもの)、あるいは西洋音階とか、ヨーロッパ・サウンドに対する無均律という事なんだ。」

メロディがコードを決定する逆転: あらかじめ用意されたコードの枠にソロを当てはめるのではない。個々の演奏者が発したメロディの線がその場で重なり合うことで、結果的に独自のハーモニーとその瞬間のグルーヴが立ち上がる。ハーモロディクスは「演奏されている時にしか効果を発揮しない」ため、純粋な音楽理論を超えた、本能に忠実に生きるための実践環境そのものであった。

夢がもたらした「全弦同音」のチューニング: この実践をギターで体現するため、ウルマーは独自の変則チューニングを導入する。 オーネットのロフトに住み込んでいたある夜、彼はすべての弦を同じ音に合わせる奇妙な夢を見た。目覚めた彼は、夢の通りに6本の弦すべてを同一の音(A音、またはE音)へと調整する。これを聴いたオーネットは「お前はギターを移調楽器に変えてしまった」と驚嘆した。既成のピッチやコードの制約から解放された瞬間であった。

この全弦同音ユニゾンの手法は、戦前のカントリー ブルースのドローン効果をオルタナティヴに拡張したものである。通常のコードフォームを破棄することで、ギターは強烈なアタック感とノイジーな倍音の束を放つ打楽器へと変貌し、ベース抜きの変則アンサンブルにおいても低音のドローンで全体を支配することを可能にした。

ギブソン Byrdlandという選択: ウルマーの代名詞と言えるギターが、ギブソンの最高峰アーチトップのひとつ「Byrdland(バードランド)」である。通常のフルアコに比べてボディが薄く、ショートスケールによる独特の緩いテンション感が特徴のモデルだ。

ウルマーはこの個性に太めの弦を組み合わせ、あの変則チューニングを施した。短いスケール特有の硬質なアタックと、太い弦が放つ強烈な中低域の粘り。これが人間の声のようにうねるトーンを生み出し、管楽器の音圧に対抗する武器となった。ソリッドギターではなく、常にフィードバックと共鳴の限界線上にある「箱もの」を貫いた点に、彼の野生の音響設計が息づいている。

アンプと音作りのプラグマティズム: ウルマーは特定の機材スペックに固執せず、常設のアンプをそのまま使用することが多かった。1980年代のフリーファンク期に見られるジャギジャギとした歪みは、クリーンなアンプ前段に歪みペダルを配したものと推測される。コンプレッサーを排し、右手の強烈なピッキングダイナミクスがダイレクトに突き刺さる、硬質でガリッとしたディストーションサウンドが彼のトレードマークであった。空間系エフェクトやワウも最小限に留められており、己の指先と独自の調律だけで世界観を完結させるストリート思想が貫かれている。

音響とトーンの変遷

  • 1970年代後半から1980年代前半(フリーファンク期): メイン機材はギブソン Byrdland。深く硬い歪みを伴った、ジャギジャギと鋭く切り裂くようなフリーファンクサウンドが特徴である。

  • 1980年代中盤から後半(ブルース ロック期): Byrdlandに加え、異なるフルアコも導入。ファンクやロックのダイナミズムを内包しつつ、やや太く、重心の低いトーンへと移行していく。

  • 1990年代(MRE・Odyssey再始動期): フルアコと変則チューニングのシステムを継続しながらも、過剰な歪みを抑え、音数を削ぎ落としたミニマルなトーンへと深化する。

  • 2000年代以降(ブルース回帰期): ヴァーノン レイドのプロデュースによるブルース作品群に代表される時期。箱ものならではのふくよかさと、極限まで太く枯れたワンアンドオンリーの肉声的なトーンへと到達した。

いかなる時代、いかなるステージであっても、ウルマーの音の根幹にあるのは『変則チューニング』と『強靭な右手』、そして『ギターという枠を超えてアンサンブル全体をうねらせる圧倒的なリズムの支配力』にある。機材は、その野性味あふれる肉体性を外へと放出するための手段に過ぎなかった。

Free Lancingジャケ写のByrdlandとはピックガードやパーツなどが異なる


音楽産業との闘争:排除された楽器としてのギター

ウルマーが自らの音楽を追求する道程は、管楽器が主役であり続けるフリージャズ界の音楽産業に対する壮絶な闘争の歴史でもあった。彼はのちに、自らの過酷な立場をこのように証言している。

「私はギタープレイヤーであって、管楽器奏者ではない。誰もフリーミュージックでギターなんて雇いやしない。コールマンでさえ私を雇わなかった。ギターはインダストリー(音楽産業)から排除され、禁止された楽器なんだ。だから私は戦ってきた」

この孤立の中で、ウルマーは「ギターを別の光の中に押し込もうとしていた唯一の同志」として、ソニー シャーロックの名を挙げている。管楽器の音圧とフリーランニングな速度に対抗し、ギターをフロント楽器として成立させるために、彼らは既存のジャズギターの語彙をすべて捨て去る必要があった。ウルマーが変則チューニングにこだわり、音塊をぶつけるようなパーカッシブなスタイルを構築した背景には、この「雇われない楽器」としての生存戦略と意地があった。


タブ譜にできないハーモロディクス:ギター史が彼から逃げ続けた理由

ギター専門誌やジャズギター書籍の歴史において、ジェイムス ブラッド ウルマーが大々的な巻頭特集や単独の専門書で扱われることはほとんどなかった。商業的なギターメディアや従来のジャズギター史が彼を正面から解読することを敬遠し、結果的に「彼から逃げてきた」と言える背景には、以下の事実がある。

譜面化・教則化が不可能であるため: ギター誌や教則本は、コード進行やスケール、タブ譜(TAB譜)を用いて「演奏の仕組み」を解説するシステムを前提としている。しかし、ウルマーの変則チューニングとハーモロディクスは、既存のコード進行を拒否し、その場の即興的なメロディの重なりで音響を構築するため、譜面化や一般的な教則フォーマットに落とし込むことが技術的に不可能であった。

知的なジャズの文脈から外れるため: モダンジャズギター史は、洗練されたコード理論や精密なバップフレーズを至上とするバークリー的な価値観が主流を占めてきた。そのため、野性を剥き出しにしたウルマーのパーカッシブなカッティングや、既成の音楽言語を拒否したフリーキーなアプローチは、保守的なジャズリスナーや評論家から敬遠され、メインストリームのジャズギター史の年表から外されてきた。

ロック系のメディアが彼のパンキッシュな衝撃を感覚的にすくい上げることはあっても、ギター、音楽理論の側からその凄みを精緻に裏付けることはされなかった。彼が遺した音楽は、既存のあらゆる音楽の枠組みを揺るがす、解読拒否の野生であり続けた。

終章

彼は既存のコード音楽を解体する「ハーモロディクス」を抱えて最前線に現れた。変則チューニングによる泥臭いファンク ビートと電気楽器のダイナミズムは、譜面化や教則化といった商業的枠組みを一切拒絶するものだった。

ジャズからもロックからも誤解されながらも、DIWレーベルなどの諸作で彼が放ち続けたのは、机上の理論では再現できない「演奏されているその瞬間にしか存在しない」真実である。

既成の音楽言語と闘い続けたジェイムス ブラッド ウルマー。彼が遺した解読拒否の野生のトーンは、今なお、安全に飼い慣らされた現代の音楽シーンの背後に、鋭い切迫感を突きつけ続けている。

改めてご冥福をお祈りします。R.I.P.


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