ジャズギターの歴史 Part 2 ― 世界各国の黎明期をたどる
はじめに
前回に引き続き、ジャズギターの歴史を見直し、これまでは見えなかった部分をさらに掘り起こし、深く紐解いてまいります。
1940年代以前の黎明期のジャズ史において、アメリカ以外の各国のジャズ事情は、ヨーロッパをはじめ、全くと言っていいほど語られてきませんでした。とりわけジャズギターの歴史においては、その欠落は驚くほど深いものがあります。まるで存在しなかったかのように扱われ、長く歴史の陰に押しやられてきました。しかも、その空白は現在に至るまでほとんど埋められていません。ジャズ評論家も専門誌も、その埋もれた歴史には長年ほとんど見向きもせず、誰一人として本気で掘り起こそうとしてこなかったのです。
どうでしょうか。1930年代から1940年代のヨーロッパのジャズギタリストで、ジャンゴ ラインハルト以外に何人の名を挙げられるでしょうか。おそらく、名だたるジャズ評論家やギター専門誌の関係者であっても、すぐにはほとんど答えられないはずです。
今回は、その偏りに偏ったジャズ史をただ正すというより、これまで光を当てられてこなかった知られざるジャズ史の裏側へと踏み込んでいきます。
各国で道なき道を切り拓いた先駆者たち。もっと評価されて然るべき、偉大なジャズギタリストたちの足跡をたどりながら、ジャズが各地でどのように芽吹き、広がっていったのかを氷山の一角ではありますが紐解いていきたいと思います。
フランス:複数の血統が交差する実験場
フランス、とりわけパリを中心としたシーンは、アメリカから流入したスウィング ジャズ、伝統的なミュゼット、そしてロマ音楽が最も激しく交差する場所だった。パリは当時のヨーロッパで最も開かれた文化のハブであり、アメリカの黒人音楽家たちが露骨な人種差別に満ちた母国を離れ、芸術家として歓迎される解放区だった。アコーディオン中心の大衆音楽バル ミュゼットの哀愁と、ロマ音楽の超絶技巧の血統が、流入してきたスウィング ジャズと奇跡的な化学反応を起こした。
その中心には、圧倒的な個性を持つ主役たちが存在していた。
不世出の天才ジャンゴ ラインハルト (Django Reinhardt) は、最初からギターだったわけではなく、最初期録音(1928年)の時点ではバンジョー奏者としてキャリアをスタートさせた。その後ギターへと移行し、1933年3月のエリアーヌ ドゥ クルスらの録音(「Parce Que Je Vous Aime」)ではギター フィルを担当。さらに1934年1月のジャン サブロン「Le jour où je te vis」では貴重なギターソロを披露した。そして同年12月、ステファン グラッペリらと伝説的なフランス ホット クラブ クインテット (QHCF) を結成し、最初期の歴史的名演である『Dinah(ダイナ)』や『Tiger Rag』(1934年)を録音。このギターソロは単なるリズム楽器の枠を完全に打ち破り、弦楽器による即興演奏の歴史的転換点となった。
ジャンゴの傍らでシーンを支えたフェレ三兄弟の長男バロ フェレ (Baro Ferret) は、ゲリーノらのミュゼット録音でバンジョーやアコースティックギターを弾いてキャリアを始め、1935年にはジャンゴのフランス ホット クラブ クインテットにリズムギタリストとして参加。1939年の「Valse des Niglots」や、代表的名演「Swing Valse」「Mintch Valse」などを通じて、バル ミュゼットとスウィングを融合させた優美な和声と強靭なグルーヴを刻み込んだ。次男のサラーヌ フェレ (Saran Ferret) は、1939年のトニー ムレナ楽団による『Madam's』などでギターソロの最初期録音を残し、流麗なシングルノートによる「Cocktail Swing」等の名演を披露。末っ子のマテロ フェレ (Matelo Ferret) も、1938年のガス ビズールのグループ等による『Wind and Strings(Andalousie)』などでギターソロの最初期録音を残し、洗練されたコードセンスで直系の人脈とテクニックを継承した。

さらに、南米出身でありながらパリへ渡りシーンに深く根を下ろしたオスカル アレマン (Oscar Alemán) は、ジョセフィン ベーカーのバンドのスターとして迎えられ、1930年代後半から「Limehouse Blues」などの歴史的録音を残し、ヨーロッパの弦楽器奏者たちに大きな影響を与えた。
また、QHCFなどの黄金期を強固なリズムギターで支えた名手たちも活躍した。ジャンゴの弟ジョゼフ ラインハルト (Joseph Reinhardt) をはじめ、ロジャー シャピュ (Roger Chaput)、ピエール ディディ デュプラ (Pierre "Didi" Duprat)、ウジェーヌ ヴェース (Eugène Vées) らが、1930年代から40年代にかけてフレンチジャズの土壌を盤石なものとした。
同時代には、1937年にQHCFの録音に参加し1942年にリードギターソロを残したマルセル ビアンキ (Marcel Bianchi) や、30年代末から40年代初頭にかけて録音活動に入り1946年の「Minor Blues」などで即興リードギターソロの最初期録音を残したアンリ クロラ (Henri Crolla)、1939年にキャリアを開始し戦後の1946年に「Blues In The Night」などでリードギターソロを残したジャン ピエール サッソン (Jean-Pierre Sasson) らが頭角を現した。
さらに戦後まもない1947年には、ジャズハーモニーを駆使したギター弾き語りで「Clopin-clopant」などを録音したアンリ サルヴァドール (Henri Salvador) が登場し、のちにジョビンがボサノヴァのビートのヒントになったと公式に語るほどの決定的な影響を与えた。
その後は、ロジャー シャピュの教則本等で腕を磨き1946年ごろからキャリアを築いたジャン ボナル (Jean Bonal) が2000年代まで活動を続け、1950年代に入ると、バロ フェレの愛弟子であるポール パタ (Paul Pata) やジャック モンターニュ (Jacques Montagne) らが次々と頭角を現して表現の幅を広げていった。
英国:ダンスバンド文化と職人たちの系譜
英国においては、本場のアメリカやパリの熱狂とは異なる、どこか理知的で緻密なアプローチによってギターのソロ表現が模索された。ロンドンの高級ホテルやクラブで求められた高度な読譜力や編曲に対応する過程で、ギタリストたちは職人としての高い技術を磨き上げた。英国では、1934年から1935年にはすでにギター同士が対等にリードを受け渡す録音が存在していた。
その先駆者であるレン フィリス (Len Fillis / Leonard Fillis) は、南アフリカから英国へと渡り、1920年代からロンドンのスタジオやダンスバンドシーンでバンジョーからギターへの移行をいち早く成し遂げた。
さらに、ポーランド生まれで幼少期に英国へ移住したアイヴァー マイランツ (Ivor Mairants) は、一流ダンスバンドでリズムギターを担当したのち、アルバート ハリスとのギターデュオ(『Spring Fever』等)で端正なリードギターソロの最初期録音を残した。そのマイランツと双璧をなす名手アルバート ハリス (Albert Harris) も、1934年の『Cat Calls』やデュオ盤『Kaleidoscope』などで卓越したリードギターソロを披露した。

1930年代半ば以降は、ジャンゴの熱狂的信奉者として知られ、1946年の再結成時にジャンゴから直接リズムギタリストに指名されたジャック ルウェリン (Jack Llewellyn) がロンドンで大活躍した。また、エディ ラングに影響を受け1938年に渡米して本場とセッションを重ねたテナーギター等の名手ヴィック ルイス (Vic Lewis) や、30年代からダンスバンドで活動したのち、1957年に出版した教則本『Play in a Day(一日で弾けるギター)』で歴史的な足跡を残した伝説的ギタリスト、バート ウィードン (Burt Weedon) がシーンを牽引した。ウィードンが著したこの教則本を読んでギターを始めた少年たちの中には、のちのロック レジェンドであるエリック クラプトン、ポール マッカートニー、ジョージ ハリススン、ブライアン メイ、ピート タウンゼントらがおり、彼ら全員が「バート ウィードンこそが僕たちの最初のギターヒーローだった」と公言している。
さらに、30年代のスウィングから40年代〜50年代のビバップ期への過渡期を体現した名手アイク アイザックス (Ike Isaacs) らが登場し、その系譜はのちのマーティン テイラーなどの世代へと継承されていった。
そして、ヨーロッパ中の演奏家に多大な影響を与えたのが、名著『Dance Band Chords for the Guitar』を遺したギタリスト、エリック カーショウ (Eric Kershaw) である。彼が体系化した先進的なコードボイシングと和声理論は多くのジャズメンのバイブルとなり、ヨーロッパ全体のギターの表現力を飛躍的に押し上げた。
スウェーデン:北欧モダンの土壌を整えた先駆者
スウェーデンにおいては、地理的な距離を超えてアメリカから入ってきたジャズレコードのスタイルをいち早く吸収し、独自のギター表現を切り拓いた先駆者たちがいた。
ストックホルムの地で地元のスウィング バンドの中心として活動したフォルケ エリクスベリ (Folke Eriksberg) は、アメリカのエディ ラングらの録音を徹底的に研究してシングルノートのピッキング技術を血肉化した。彼は1930年代から北欧のジャズシーンで頭角を現し、北欧の冷涼な空気感とアメリカ直伝のエレガントなスウィング感を両立したフレージングを後世に残した。
また、同時代には名手スヴェン スティベリ (Sven Stiberg) が1937年に『St. Louis Blues』を録音するなど、最初期からスウェーデンのジャズギターシーンを支える重要な足跡を残している。
さらに1950年代からは、ルネ グスタフソン (Rune Gustafsson) が頭角を現した。グスタフソンはアル コーンやズート シムズといったアメリカの巨匠たちとも数多く共演を重ね、北欧スウェーデンジャズ史にその名を刻む名手として広く知られるようになった。

ノルウェー:孤高の才能が生んだ先進的フレージング
ノルウェーのロベルト ノルマン (Robert Normann) は、ヨーロッパのギタリストの中でもジャンゴに匹敵するほどの圧倒的な技術と先進的なモダンジャズ的ハーモニーセンスを持っていた隠れた巨星である。独学でギターをマスターしたノルマンは、1930年代末からノルウェーにおける最初の本格的ジャズ録音に参加し、1938年には卓越した技術とコードワークが光るギターソロの最初期名演『Sweet Sue』を記録した。のちに自作のエレキギターを使った実験的な音源や多重録音によるトリック レコーディングも残し、その先駆的なシングルノートのラインやコードのモダンなテンション使いは北欧モダンジャズのギタリストたちにとって幻のルーツとなった。
さらに時代が下ると、ECMレーベルを代表し、ジョージ ラッセルに師事した孤高の巨星テリエ リピダル (Terje Rypdal) が登場する。その革新的なスタイルはその後の浮遊系ジャズに多大な影響を与え、ノルウェーのギター表現を世界の最先端へと導いた。
ドイツ:過酷な弾圧を乗り越えた暗闘とフュージョンの扉
ドイツでは、1930年代後半にナチス政権によるジャズへの厳しい弾圧が始まり、退廃音楽とされたスウィングの演奏は命がけの行為となった。金色の七人で活動したハンス コルセック (Hans Korseck) や、ユダヤ系として収容所を生き抜いたココ シューマン (Heinz Jakob "Coco" Schumann) といったスウィング期の優れた名手がわずかに存在して録音を残したものの、過酷な弾圧の中でギターソロによる独立した本格的な録音を確認することは困難であった。さらに時代が下った1960年代末には、ヨーロッパにおける初期フュージョンを牽引したパイオニアであるフォルカー クリーゲル (Volker Kriegel) が登場し、1968年のデビュー作をはじめとする革新的なリーダー作を残してシーンの扉を開くことになる。

スペイン:牙城を揺るがしたフラメンコとジャズの邂逅
スペインでは、16世紀のビウエラ以来、ギターおよびその前身楽器の文化が長く育まれてきた。19世紀にはフェルナンド ソル (Fernando Sor) やマウロ ジュリアーニ (Mauro Giuliani) らによってクラシックギターの芸術性が高められ、20世紀初頭にはミゲル リョベート (Miguel Llobet)、アンドレス セゴビア (Andrés Segovia)、レヒノ サインス デラマサ (Regino Sáinz de la Maza)、エミリオ プジョール (Emilio Pujol) らによって、スペインのクラシックギターは世界的な黄金期を迎えていた。さらにフラメンコでは、ラモン モントーヤ (Ramon Montoya)、マノロ デ ウエルバ (Manolo de Huelva)、サビーカス (Sabicas)、ニニーニョ リカルド (Niño Ricardo)、メルチョール デ マルチェナ (Melchor de Marchena)、そしてラモンの甥カルロス モントーヤ (Carlos Montoya)、らがギターの表現力を大きく押し広げていた。
その一方で、1919年末から1920年初頭にはマドリードやバルセロナでジャズと呼ばれる演奏が行われ、1920年代にはジャズバンドが各地に登場した。1930年代にはバルセロナを中心にジャズ熱が高まり、1935年にはHot Club Barcelonaが設立され、翌1936年にはジャンゴ ラインハルトも来演している。
しかし、ここで興味深いのは、ジャズの到来とギターの発展が、決して同じ軌跡を描かなかったことだ。街ではいち早くジャズの熱気が高まっていたものの、ギターという楽器に関しては、クラシックやフラメンコというあまりにも強固な自国の伝統が巨大な壁としてそびえ立っていた。その圧倒的な牙城の前では、ジャズギターが独自に芽吹く余地は残されていなかったのである。
長らくその二つの世界は交わらなかったが、やがてその分厚い壁を若き才能がこじ開けることなる。スペイン人の手によってギターがジャズの歴史の表舞台にしっかりと融合し、名前入りの音源として残るようになったのは、時代がずっと飛んだ1960年代後半以降のことである。
1967年、サックス奏者のペドロ イトゥラルデが発表したアルバム『Jazz Flamenco』で、若き天才フラメンコギタリストのパコ デ ルシア (Paco de Lucía) がジャズの即興演奏と見事な融合を果たした。さらに、パコが憧れたフラメンコギターの巨匠サビーカス (Sabicas) とジャズギタリストのジョー ベック (Joe Beck) が組んだ衝撃的名作『Rock Encounter』が生まれた。
ベルギー:本国から戦後モダンへと繋がる巨星の系譜
ベルギーはジャンゴ ラインハルトを輩出した本国であり、ブリュッセル等でジャズ環境は形成されていたが、同時代におけるジャンゴ以外のジャズギタリストの確認は困難であった。しかし、戦後になってヨーロッパを代表するモダンジャズの巨星ルネ トーマ (René Thomas) が登場する。トーマは1950年代初頭からパリへ進出し、ジミー レイニーの流れを汲む卓越したバップギターで頭角を現すと、1955年の『ルネ トーマ クインテット』や1960年の名盤『ギター グルーヴ』を発表し、アメリカ本場のジャズメンとも対等に渡り合った。
また、同じくベルギー出身で世界的な多才さを誇るトゥーツ シールマンス (Toots Thielemans) も忘れてはならない。ハーモニカで知られる彼だが、極めて高い水準のジャズ ギタリストでもあり、その洗練されたコードワークとフレージングは多くのミュージシャンを魅了した。1960年にハンブルクでトゥーツがRickenbackerを弾いているのを見た若きジョン レノンが、そのギターに強く惹かれたことは有名である。彼はジャズの枠を軽々と飛び越え、世界中の音楽家に決定的な影響を与え続けた。

オランダ:大編成バンドの黎明期から戦後へのバトン
オランダではテオ ウーデン マスマンが率いるザ ランブラーズが1926年に結成され、コールマン ホーキンスらとの録音が行われるなど国際的なジャズ環境が整っていたが、管楽器が主導権を握る大編成バンドの中でリズム刻みに終始しており、今回確認した範囲では、この時代の明確なリードギターソロ録音を特定できなかった。
オランダにおいて本格的なジャズギターのパイオニアが登場するのは戦後であり、1940年代末から活動を始めたエディ クリスチャニ (Eddy Christiani) や、のちにジェシ ヴァン ルーラーなど多くの後進を育てた名匠ウィム オーバーハフ(Wim Overgaauw) らが現れてモダンジャズの土壌を築いた。
ハンガリー:東欧の哀愁から世界へ羽ばたいた系譜
ハンガリーでは1920年代からジャズとダンス音楽が広まり、ブダペストを中心に独自のジャズ文化が育った。ただしロマ音楽の伝統が強く、さらに1930年代後半以降は反ユダヤ政策や戦時下の混乱も重なり、ジャズギターが独立した演奏文化として早くから定着したとは言いにくい。
しかし、のちに世界的名手となる自称ジャンゴの従兄弟エレク バクシク (Elek Bacsik) が1943年にキャリアをスタートさせ、戦時下のブダペストで録音を残している。
さらに、1948年にハンガリーから亡命してドイツへ移住したアッティラ ゾラー (Attila Zoller) は、ヨーロッパ最初期の独立系モダンジャズレーベルの一つであるMod Recordsで優れた録音を残し、のちに若き日のパット メセニーが師事するほどの偉大な求道者となった。
そして1950年代以降、世界のジャズギター史そのものに革命を起こした最大のパイオニアであるガボール ザボ (Gabor Szabo) へとその系譜は劇的に繋がり、東欧の血統は世界のジャズシーンへと大きく羽ばたいていった。
イタリア:戦後モダンの開花とメロディアスな開拓者
イタリアでは、ジャンゴから影響を受けたルチアーノ ズッケリ (Luciano Zuccheri) がフィンガースタイルによるギターソロが聴ける初期録音の1942年「A zonzo」や「Improvviso」など残し、早い段階から独自の足跡を残していた。
本格的な開花は戦後の1950年代からであり、頭角を現したフランコ チェリ (Franco Cerri) がイタリア近代ジャズギターの決定的なパイオニアとなった。チェリはバルネ ウィランらとも共演を重ね、1959年に初のリーダー アルバムを発表してメロディアスなギターと卓越したコンピングを披露した。

スイス:モダンの受容が生んだ新たな才能たち
スイスでは1930年代半ばにジ オリジナル テディーズなどのバンドが活動していたが独自のジャズギタリストの記録はなく、戦後の1950年代以降にモダンジャズの受容とともに、エレクトリックギターの先駆者ピエール カバッリ (Pierre Cavalli) が登場。彼はその後、奇才ウォルフガングダウナーとも共演歴があり、ジャズロックやジャズファンクなど斬新な方向へと進んだ。

チェコ:鉄のカーテンの下で育まれた東欧の技巧派たち
チェコ(チェコスロバキア)では、冷戦期の鉄のカーテンの下でジャズが制限されるなか、1960年代以降にウラジミール トメク (Vladimir Tomek) や、のちにヨーロッパ全域で高く評価される名手ルドルフ ダセク (Rudolf Dasek) らが登場し、東欧におけるモダンジャズギターの系譜を切り拓いた。
デンマーク:北欧の風土に根ざしたギター文化の発展
デンマークでは、俳優でもあるボーカル兼ギタリストのウルリク ノイマン (Ulrik Neumann) が、ゲルダ&ウルリク ノイマン名義で残した1939年録音の「It Don't Mean a Thing」や1941年の「Mama, I wanna make Rhythm」などで小粋でスインギーなデュエットを聴かせた。その後、歌姫アリス バブスとの名盤「When The Children Are Asleep」は日本のマニアにも人気の一枚となっている。
また、1950年代からジャズシーンが活性化し、のちに世界的ヒット曲などを放つ世界的ギタリストのヨルゲン イングマン (Jørgen Ingmann) が登場して北欧のギター文化に大きな足跡を残した。

ソ連・ロシア:弾圧の雪解けとメロディヤが育んだ独自のモダン
ソ連 ロシアにおいては、1930年代から戦後しばらくにかけてジャズが政治的なイデオロギーによる厳しい弾圧の対象となり、公的なシーンでの発展は長らく阻まれてきた。しかし、1950年代半ば以降の雪解け期を経て、国営の総合音楽レーベルであった「メロディヤ(Melodiya)」が1964年に設立されると、同レーベルはソ連全土におけるジャズレコードの最大のプラットフォームとして数々の音源を記録していくことになった。この中から、1947年頃から学生バンドで活動を開始し安価なギターに自作ピックアップを組み込んでソ連最初期のエレクトリックギター演奏や多重録音を実践したユーリー ムヒン (Yuri Mukhin or Muhin = Юрий Мухин ) や、1950年から60年代から頭角を現しのちにメロディヤから『ブルース コーラル』などの名盤を残したソ連モダンジャズギターの最高峰アレクセイ クズネツォフ (Alexei Kuznetsov = Алексей Кузнецов) らが登場し、鉄のカーテンの向こう側に独自のモダンなギターシーンを築き上げた。
ブラジル:ジャズとは一線を画した独自のギター文化
19世紀末から都市部でショーロやマシーシ文化が栄えはじめる。1910年代から1920年代にかけてアメリコ ジャコミーノ カニート (Américo Jacomino "Canhoto") が多数の録音を残して名曲「アビスモ デ ローザス」を発表したほか、盲目のレヴィーノ アルバーノ ダ コンセイソン (Levino Albano da Conceição) もオデオンに録音を残した。ほかにもベネディート チャベス グルー (Benedito Chaves "Guru")、ジョアン ペルナンブーコ (João Pernambuco)、ホジェリオ ギマランイス (Rogério Guimarães) らが活躍し、各地で独奏ギターの高度な表現が発展していた。
ブラジルにはジャズよりも古い歴史を持つショーロやマシーシなどを基盤とした独自の豊かなギター文化がすでに根づいており、アメリカのジャズが入ってきてもそれをそのまま受け入れることはなかった。むしろジャズとは一線を引き、あくまでも自国の音楽語法を軸に発展していった、プライドの強い国という側面もある。その後もガロート (Garoto) がショーロの伝統に先進的な和声を響かせ、彼の系譜を継いだボラセチ (Bola Sete) は、50年代からブラジルの巨匠たちと研鑽を積み、後に渡米してディジーガレスピーらとの共演を通じてブラジリアン ジャズギターを世界に知らしめた。またヴァルテル ブランコ (Waltel Branco) も、若い頃から国際的なジャズの現場で活躍し、帰国後はジョアン ジルベルトと親交を深めボサノヴァの形成に貢献した。
一方、ローリンド アルメイダ (Laurindo Almeida) は1930年代からブラジル国内でプロとしてのキャリアを重ね、1940年代に渡米。スタン ケントン楽団などでその卓越したギタープレイを披露してアメリカのジャズメンたちに衝撃を与えた。さらに1950年代には自身のリーダー作を発表し、ブラジルの洗練されたハーモニーとジャズの即興性を高次元で融合させることに成功する。のちのボサノヴァの形成や世界展開に先駆けて、ブラジル音楽とジャズの架け橋となったその足跡は非常に大きい。
また、クラシックとブラジル民俗音楽を融合させたエイトル ヴィラ=ロボス (Heitor Villa-Lobos) が『12の練習曲』などを通じてギターの芸術的地位を世界的に高めた。ボサノヴァの創始者アントニオ カルロス ジョビンは「ジャズと私の音楽は関係ない」と影響を否定している。彼には、ジャズより歴史あるショーロや印象派の系譜に連なる独自の音楽を守り抜く強いプライドがあった。もう一人のボサノヴァ創始者ジョアン ジルベルト (João Gilberto) は、ジャズに対して自身の音楽的なルーツとしてリスペクトしつつも、「過剰な即興演奏」や「お決まりのスタイル」に対しては、強い拒絶反応や批判的な意見を持っていた。ジャズの歴史を変えた名盤「Getz/Gilberto」のレコーディング時に起きたスタン ゲッツ (Stan Getz) との確執は有名であり、チャーリー バード (Charlie Byrd) らとの交錯も含め、以降はジャズミュージシャンがボサノヴァを積極的にレパートリーに取り入れるようになっていった。
これはブラジルに限らず、南米諸国の音楽にも言えることだが、リードギターの単音ソロという面ではジャズの影響は薄く、むしろ和声やコード進行の感覚においてこそ重要だった。そうした領域において、ブラジル音楽とジャズは相互関係を築いてきたのである。

アルゼンチン:タンゴとギターの交錯
19世紀末のタンゴ誕生とともにギター伴奏文化が根付き、フアン アライス (Juan Alais) がクラシック コンサートギターの開拓者として初期の独奏・作曲面で重要な足跡を残した。1910年から20年代にはアグスティン バルディらの周辺やビセンテ グレコ楽団のギタリストたちが貴重な録音を残している。
また、アタワルパ ユパンキ (Atahualpa Yupanqui) がフォルクローレ(民族音楽)独奏のパイオニアとして、大地に根ざした独自のギター芸術を確立した。さらに、ミゲル リョベートらに師事し、アルゼンチン初の国際的女性クラシック名手として知られるマリア ルイサ アニード (María Luisa Anido)らが世界的な活躍を見せた。
アルゼンチンでは1920年代から30年代にかけてジャズが受容されたが、初期ジャズギター史で国際的に明確な存在感を示した人物としては、(フランスの項ですでに登場した)オスカル アレマン (Oscar Alemán) がほぼ例外的な存在である。彼は1930年代以降にジョセフィン ベーカーのバンド等で活躍し、スウィング ジャズとタンゴの伝統を高度に架橋した。
ペルー:クリオーリョのギター伝統からエレクトリック・ギターの開拓へ
ペルーにおける音楽の歴史は、ジャズの到来よりもはるか以前に独自のギター文化が根付いていたことからはじまる。20から30年代以前からワルツやマリネラ、ヤラビ、フォルクローレなどがギターで盛んに演奏され、1911年から1930年の初期録音にも多くのギタリストが確認できる。1913年にはアレハンドロ ゴメス モロン (Alejandro Gómez Morón) によるギター独奏録音も残されている。
1930年代から1940年代にかけて、首都リマの高級ホテルやキャバレーのダンス オーケストラがアメリカのスウィング ジャズを取り入れ始めた。当時はアメリカ音楽のコピーやムシカ クリオーリャのジャズアレンジが主流で、ギターはコード伴奏が中心だった。そのような中、1939年に活動を始めたペルーのクリオーリョ音楽の巨匠オスカル アビレス (Óscar Avilés) が登場し、1942年にはペルーの第一ギターと称されるほど、ギターを前面に押し出した演奏で存在感を示した。
戦後の1950年代から1960年代に入ると、ペルーの民族音楽を高度なアコースティックギター技術で昇華させた名手たちが現れる。アンデス地方の伝統音楽フォルクローレをコンサートギタースタイルへと昇華させた「ペルーの国宝」ラウル ガルシア サラテ (Raúl García Zárate) や、洗練されたアプローチで後進の礎となったアルバロ ラゴス (Álvaro Lagos) らによって、アコースティックギターの表現は極限まで高められていった。
さらに1960年代には、ベンチャーズ等の影響から現れたロス ベルキングス (Los Belking's) がインストゥルメンタルギターブームを巻き起こした。創設者の第二ギターのウィルフレド "ウィリー" サンドバル (Wilfredo "Willy" Sandoval) と第一ギターのラウル エレーラ (Raúl Herrera) がペルーの哀愁とジャジーなアプローチを融合させた一方、ムシカクリオーリャ出身のエンリケ デルガード (Enrique Delgado) はロスデステージョスを率いてサイケデリックロックとラテン音楽を合体させ、ペルー独自のダンス音楽であるペルークンビアを創出。初期のインスト曲にはラテンジャズのような即興的インプロヴィゼーション感覚が組み込まれていた。さらに、アフロカリビアンやラテンジャズのグルーヴに直結したアグレッシブな単音リードソロで知られるマンサニータことベラルド エルナンデス (Berardo Hernández "Manzanita") らも登場し、エレキギターによる独自の表現を爆発させた。ペルーのギター史は、伝統的な歌謡からエレクトリックによる独自のインストゥルメンタル表現へとダイナミックに展開していったのである。
アジア:日本におけるジャズギターの黎明期
明治期以降の西洋音楽導入に伴い独奏文化が定着し、1930年代初頭には「日本のエディ ラング」と称されたパイオニアである角田孝が登場してモダンなフレージングや卓越した技術を持ち込みシーンを切り拓いた。また同時代にはのちのディック ミネ(三根徳一)らがSPレコードで洒脱なギター伴奏や歌伴の記録を残しており、戦前 戦中の厳しい音楽統制や取り締まりの逆風を受けながらも、ナイトクラブで多くの優れた邦人ギタリストたちが密かなレコード聴き込みを通じて独自のスタイルを模索し続けた。
さらに戦後に入ると、日本のミュージシャンたちがアメリカ軍の進駐軍クラブを主な舞台にして最先端のジャズやポピュラー音楽を演奏し、その技術と感覚を血肉化していった。やがて街にジャズ喫茶文化が花開くと、音楽ファンや若者たちが熱狂的に群がって独自のリスニング環境が根づいていく。こうした熱気の中、角田の系譜を受け継いで日本の近代ジャズギターの黄金期を切り拓くジャズギター御三家、澤田駿吾、高柳昌行、中牟礼貞則といった名手たちが次々と現れ、後進を育成しながらシーンの土壌を強固なものへと築き上げていった。
ポーランド:鉄のカーテンの向こうで育まれた独自のモダンジャズ
東欧のジャズ先進国ポーランドでは、戦後の政治的統制の下でも熱心にモダンジャズが育まれた。1950年代末からクシシュトフ コメダらの先駆的な動きが始まり、シーンの土壌が耕されていった。
1960年代には、国際的なフェスティバルであるジャズ ジャンボリーなどを背景に、イゴール カピンスキー (Igor Čaplinsky) のような先駆的なギタリストが現れた。カピンスキーは1962年のジャズ ジャンボリーにおいて、ヴォイチェフ カロラクらのポーランドのリズムセクションを従えて「ムーンライト イン バーモント」や「アウト オブ ノーウェア」を録音し、優美なバラード演奏で素晴らしい成功と人気を博した。
さらに時代が進むと、ポーランド ジャズ界の巨匠ヤレク スミエタナ (Jaroslaw Jarek Smietana) が登場する。スミエタナはバンド「エクストラ ボール」を率い、世界的ギタリストらとも共演を重ねながら東欧の枠を超えた高度なインプロヴィゼーションでギターの金字塔を打ち立てた。

インド:英領時代のナイトクラブとモダニズム
インド音楽にはジャズが生まれるはるか以前の数世紀以上にわたって、シタールやサロード、ヴィーナといった弦楽器による壮大で深遠な歴史と文化が存在していた。紀元前からの伝統を受け継ぎ、即興演奏を核とするその高度な体系は、のちに西洋のジャズメンたちをも深く魅了していくことになる。
英領下のボンベイ等で19世紀末から20世紀にかけて洋楽やダンスバンド文化が流入したものの、1930年代から40年代の時点ではギターはオーケストラの伴奏楽器に留まり、独立したジャズギタリストの記録は稀であった。そうした中で、のちにイギリスへ渡ってレンデル=カーやトニースコットらと共演し、インド音楽の神秘的な要素と先進的なモダンジャズを高度に融合させた伝説的名手アマンシオ ダ シルバ (Amancio D'Silva) らの系譜へと繋がる独自の土壌が育まれていった。

フィンランド:北欧の冷涼な空気から生まれた独自のジャズギター
北欧の先進的なジャズシーンを持つフィンランドでは、1950年代以降、ヨーロッパ各地のモダンジャズの潮流をいち早く取り入れながら独自のスタイルを築き上げた。その黎明期を支えた重要人物の一人がヘルベルト カッツ (Herbert Katz) である。カッツはフィンランドのモダンジャズのパイオニアとして、洗練されたトーンと端正なインプロヴィゼーションで初期のシーンを牽引した。
さらに1960年代後半から1970年代にかけて、ヨーロッパ全域にその名を轟かせる天才ギタリストのユッカ トロネン (Jukka Tolonen) が登場する。トロネンは自身のバンド「タヴォラタ」などを経て、プログレッシヴ ロックとジャズ ロックを高度に融合させた先駆的なサウンドを展開。卓越したテクニックと情熱的な演奏で、フィンランドのギターシーンを世界基準へと引き上げた歴史的巨匠である。

キューバ:アフロキューバンの伝統とギターの融合
キューバの音楽史において、ジャズは単なる外来文化ではなかった。キューバではアメリカのジャズが広がる以前から、ソンを中心とした独自の音楽文化が形成されていた。特にトレス奏者、作曲家の アルセニオロドリゲス (Arsenio Rodríguez) は、1930年代からソン モントゥーノの発展を牽引し、トレスによる独特のフレーズとリズムを確立した。
このアルセニオが確立したリズムは、戦後にセネン スアレス (Senén Suárez) やパブロ カノ (Pablo Cano) らがエレキギターへ楽器を移行させたことで、アフロキューバン ジャズの強固な基礎となった。
続いてフアニート マルケス (Juanito Márquez) らが登場。ギタリスト、作曲家、編曲家として活動し、1950年代にはすでにジャズの要素を積極的に取り入れた作品を手がけていた。
そして1960年代には、カルロス エミリオ モラレス (Carlos Emilio Morales) が登場する。チューチョ バルデスらと活動した後、1967年のOrquesta Cubana de Música Modernaを経て、1970年代にIrakereの創設メンバーとなった。キューバの伝統音楽とジャズ、ロックなどを融合したIrakereにおいて、モラレスはギターに独自のジャズ的アイデンティティを与えた重要な存在だった。
キューバ音楽の系譜は過去のものではなく、ブエナ ビスタ ソシアル クラブ (Buena Vista Social Club) によって再び世界を魅了した。アメリカのジャズを単純に受け入れるのではなく、伝統リズムを軸にした独自の進化を遂げてきた歴史である。
プエルトリコ:カリブ海とジャズが交差するギターの系譜
プエルトリコでは、1898年以降のアメリカ統治を背景にラグタイムやジャズなどの音楽が流入する一方、ダンサやボレロなど独自のカリブ音楽が根付いていた。1920年代にはYauco Jazz Bandなどの初期ジャズ・バンドも活動を始めていた。
特筆すべきは、1917年の369th Regiment Bandにプエルトリコ人音楽家が多数参加し、ヨーロッパへジャズを伝えた歴史の一翼を担ったことだ。ギターの分野では、このバンドにも参加したラファエル エルナンデス (Rafael Hernández) が帰国後にジャズ バンドで活動し、1925年のTrío Borinquen結成を通じてギター中心のトリオ文化を発展させた。
1940年代になると、プエルトリコのギターはニューヨークのラテン音楽シーンと強く結びつく。1919年生まれのフランシスコ フランク サンチェス (Francisco “Frank” Sánchez) は、Mayarí Quartetなどを経て1947年にLa Playa Sextetを結成。ギター、トランペット、ベース、パーカッションによる独自のサウンドを展開した。
1950年代の同グループの録音や1954年の『Down Beat』誌にもその名が残されており、サンチェスはラテン音楽とジャズの融合期における中心的なギタリストとして活躍した。
プエルトリコのギター史は、カリブの伝統音楽、ギターを中心とするトリオ文化、アメリカのジャズ、そしてニューヨークのラテン音楽シーンが交差することで、独自の発展を遂げていったのである。
トリニダードトバゴ:カリプソジャズと英吉利(イギリス)を魅了したギターのパイオニアたち
トリニダードトバゴは、伝統音楽であるカリプソ (Calypso) とジャズが1930年代に完全に融合した、非常にユニークな歴史を持っている。現地のミュージシャンたちはアメリカのジャズレコードを聴いて即興演奏のアドリブ概念を学び、自分たちのカリプソバンドにジャズのホーンセクションや即興を取り入れた。こうして「カリプソジャズ」という、のちのアフロカリビアンジャズの先駆的なスタイルを1930年代の時点で確立していたのである。
1900年生まれのシリル ミッドナイト ブレイク (Cyril “Midnight” Blake) は、早くからイギリスへ渡り、ロンドンを拠点にトランペットやギター奏者として活動しながら、トランスアトランティックなジャズ シーンの基盤を築いた。
そして1910年トリニダード生まれのギター最重要人物が、ローデリック ケイトン (Lauderic Caton) である。彼は、カリブ海およびイギリスにおける「エレクトリックジャズギターの父」と呼ばれる絶対的なパイオニアであり、カリブや南米エリアのジャズギターの歴史を見ても、戦前(1930年代まで)に純粋なジャズの単音リードソロをレコーディングできた極めて稀な存在。1930年代に母国でジャズとカリプソを融合させたギターを弾いていたが、1940年にロンドンへ移住。アンプを使ったエレキギターの単音ソロスタイルをイギリスで誰よりも早く披露し、ピート チルヴァ (Pete Chilver) らイギリスの若手ギタリストたちにエレキギターの弾き方を教え、大きなインスピレーションを与えた張本人だった。
さらに、同じくトリニダード出身のフィッツロイ コールマン (Fitzroy Coleman) も1940年代にイギリスへ渡り、アコースティックおよびエレキジャズギタリストとして活躍した。彼はカリプソ特有のリズム感と、エディラングやジャンゴラインハルト直系の鮮烈な単音ソロテクニックを併せ持ち、戦前戦後のロンドンのジャズセッションでリードギタリストとして圧倒的な評価を受けた。
トリニダードトバゴの音楽家たちは、自国のカリプソとジャズを高い次元で融合させただけでなく、大西洋を渡ったイギリスのジャズギターシーンそのものを開拓・牽引するという重要な役割を果たしたのである。
ジャマイカ:カリブ海のモダニズムとジャズの融合
カリブ海の島国ジャマイカでは、イギリス植民地時代からの大衆音楽の土壌に加え、1940年代から50年代に流入したジャズやR&Bのレコードを背景に、ジャマイカ近代音楽の父と称される伝説的ギタリストのアーネスト ラングリン (Ernest Ranglin) が登場した。メントやルンバといった独自の土着音楽にアメリカのジャズやR&Bが融合し、のちのスカやレゲエへと繋がる独自のギター文化が花開いた。
ラングリンは、本国ジャマイカのスタジオシーンを支えただけでなく、イギリスへ渡ってロンドンの名門ジャズクラブなどでライブや録音を行い、1960年代半ばにはジャズアルバム『Wranglin'』や『Reflections』を発表した。イギリス本国のジャズメンたちとも共演を重ねながら初期のUKジャズシーンにも深く貢献し、カリブの卓越したギター スタイルを世界へと広げた重要人物である。
アフリカ:ジャズのさらに遠い祖先を探る
西アフリカ、特にガーナを中心とした地域では、19世紀から持ち込まれたギターが土着の音楽と融合し、独自の発展を遂げた。1928年にロンドンで録音を行った初期ガーナ ハイライフの先駆的ギタリスト、クワメ アサレことジェイコブ サム (Kwame Asare alias Jacob Sam) や、ジョージ ウィリアムズ アインゴ (George William Aingo) といった初期ギター音楽の重要人物がシーンを牽引した。
一方、南アフリカのヨハネスブルグ等では1930年代から40年代にかけてアメリカのスウィングジャズが熱狂的に迎えられ、伝統的なマーラビ (Marabi) 進行とビッグバンドが融合した。その後、アコースティックギターを駆使して独自の宇宙観を提示したフィリップ タバネ (Philip Tabane) が現れ、伝統的なリズムとジャズ的アプローチを融合させた唯一無二のギタリストとして名を馳せた。彼らは、ヨーロッパからの移民や現地の伝統が入り混じるなかで、ギターという楽器を媒介にしてポピュラー音楽の礎を築き上げた。
その後、1950~60年代に入ると、アフリカ各地でジャズはさらに独自の進化を遂げていく。エチオピアではムラトゥ アスタトゥケ (Mulatu Astatke) が伝統的な旋法とジャズを融合したEthio-jazzを生み出し、ナイジェリアではハイライフやJùjúなどの独自の音楽文化が発展。ジンバブエでもZimbabwean Jazzが形成され、さらに1970年代にはナイジェリアのフェラ クティ (Fela Kuti) がジャズ、ファンク、アフリカの伝統音楽を融合したAfrobeatを生み出した。
そして、この時代になると、アフリカのギターそのものが急速に独自の進化を遂げていく。ガーナでは、ウェス モンゴメリーやグラント グリーンから影響を受けた エボ テイラー (Ebo Taylor) が、ハイライフやジャズ、ファンクを融合した独自のギタースタイルを確立した。
一方、コンゴでは、フィンガーピッキングによる弾き語りで独自のギター奏法を築いたムウェンダ ジャン ボスコ (Mwenda Jean Bosco) が登場。その流れはさらに発展し、「アフリカのエレキギターの神」とも称されるフランコルアンボ (Franco Luambo) や、「神の指を持つ男」と呼ばれたドクター ニコ (Dr. Nico Kasanda) らによって、アフリカ独自のエレキギター文化へと大きく花開いていく。
こうしてアフリカでは、ジャズを単に受け入れるのではなく、それぞれの土地の音楽文化と結びつけながら、独自の音楽へと変化させていったのである。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。
なぜ、ジャズの祖先とされるアフリカ音楽そのものから、初期ジャズギターの系譜がほとんど見えてこないのだろうか。
今回、世界各地のジャズギターの黎明期を追いかけてみると、この疑問はさらに大きくなる。
たとえばブラジルには、ジャズ以前からショーロを基盤とした壮大なギター文化が存在していた。スペインにはクラシックギターやフラメンコ、オーストリアにも長いクラシックギターの伝統がある。ポルトガルにはポルトガルギター、メキシコにはレキントギターというように、それぞれの土地には、ジャズが生まれる以前から独自の弦楽器と音楽文化が存在していた。
では、アフリカではどうだったのか。
もしかすると、それに当たるものこそ、コラ (Kora)、ンゴニ (N'goni)、ハラム (Xalam)、セプレワ (Seprewa)、グンブリ (Guembri)、アドゥング (Adungu)、ニャティティ (Nyatiti)などなど…アフリカ固有の伝統的な弦楽器なのかもしれない。
ジャズは、アフリカの音楽文化とヨーロッパの音楽文化がアメリカ大陸で交差する中から生まれた、とされている。その根底には、西アフリカのポリリズム、異なるリズムがぶつかり合うクロスリズム、魂の対話であるコールアンドレスポンス、音程をあえて曖昧に揺らすブルーノートの原点、そして緻密な譜面ではなくその場のグルーヴで聴き手をトランス状態へと誘う即興性など、アフリカに古くから存在していた音楽語法がある。これらこそがジャズの基本システムであり、その心臓部を何世紀も前から鳴らし続けてきたのが、アフリカ原産の弦楽器たちだった。
つまり、アフリカにおけるギターの歴史を考えるとき、ヨーロッパからギターが持ち込まれた時点だけを起点にするべきではない。その遥か以前から、アフリカには独自の弦楽器と、それを操る豊かな音楽文化が存在していたのだ。
そして、ここからは現代のジャズギターそのものについても、一つの問題提起ができる。
現代のジャズギターは、ヨーロッパの音楽理論を中心とした体系の中で、あまりにも理論化され、アカデミックなものになりすぎてはいないだろうか。
その縮こまった現代のジャズシーンが、本来見つめ直さなければいけない本質が、実はこのアフリカの伝統にこそあるのかもしれない。西洋の音楽理論では到底説明しきれない圧倒的な音楽語法が、そこには脈々と息づいている。
かつてマイルス デイヴィスが自身のバンドメンバーに指示した手法、すなわちドラムが4分の4拍子を刻む一方、パーカッションが6分の8や7分の4拍子を重ね、ギターやベースがさらに異なる周期のリズムをぶつけ合う複雑なポリリズム。あるいは、マイルスがギタリストに「ギターを弾けないようにギターを弾け」と指示をしたあの言葉。その真意こそが、いわゆる「グルーヴ」であり、西洋理論の枠組みを打ち砕く「曖昧さ」「不安定さ」である。それがまさにアフリカの伝統が持つ原初的な響きと構造のなかにすべて用意されていたのだ。
そしてそれはジャズの世界に留まらず、のちにヒップホップの革新者 Jディラ (J Dilla) が音楽制作において機械の正確なグリッドをあえて外し、手打ちで絶妙なズレを生み出すことで生々しい人間味と独特のヨレ感を持つ新しいグルーヴをヒップホップ界に定着させたように、時代やジャンルを超えて「人間が刻むリズムの本質」を揺り動かし続ける普遍的なルーツとして生き続けている。
終章
いかがでしたでしょうか。
ジャズの教科書には決して載ることのない、世界各地の知られざる先駆者たちの足跡を紹介してきました。
各国にはジャズ以前から、それぞれ独自の音楽文化やギター、弦楽器の歴史がありました。そこへジャズが入り込み、それぞれに違った化学反応を起こしていったのです。
初めて知る名前のギタリストも多かったのではないでしょうか。長年見過ごされてきた歴史の空白をたどることで、これまで聴いたことのない新たな音やギタリストに出会えたなら幸いです。この記録が、新たな名盤との出会いのきっかけになればと思います。
