見出し画像

空小屋の効用

本題に入る前に、とある動画を紹介させていただきます。

映像作家・関根光才自身が監督とインタビュアーを務めた作品。参加者はジェンダーについての考えや悩みを「自分を主語」にして話します。全員が同じ立場で一人ひとりの話に耳を傾け、意見をジャッジしたり結論を出したりするわけでもなく、ただ理解し合うという主旨。

参加者一人一人の言葉、なかなかに刺さるものがあります。

この動画で私が特に引かれたのは、「エロスゼミ」なるものをやっておられるという女性のお話です。

35'30"あたりから。
「結局、腹にあるのは痛みのピンポン」
「自分は痛い思いをしてるから、オマエも痛みを負えよ」
「それに(対抗する)には〈愛〉しかないと思っている」
「じゃあ、〈愛〉はなっていうかって漠然過ぎてわからないけど、『自分を満たすこと』」
「自分が満たされていれば、相手の痛みに手を差し伸べてあげられる」
「本当にそれだけ」
「みんな痛みは絶対ある」
「受け容れ合えば、世界は平和になる」
「まず自分が幸せであることが大事」

素晴らしい論理だと思います。でも

でも。ひとつだけ、そうじゃないだろ! って思うことがあります。
太字で強調しました。

〈愛〉は漠然過ぎてわからない。

まあ、これが一般的な理解ではあると思いますが、私は愚を唱えたい。笑

生命ある存在において〈愛〉ほど明白なものはない


「明白」です。
「明確」ではありませんので悪しからず。


さて、ここからが本題です。

私は「空小屋」と銘打った対話会を催しています。その目的とするところが、上の動画から引用させてもらった女性の言葉、ほぼそのまま。唯一違うところは、〈愛〉を明白に理解すること。感覚的に把握すること。

そのことによって幸せとは何かをしっかりとつかむ。
つかむことができれば、「痛みのピンポン」から抜け出すことができる。
他者の痛みに自然と手を差しのばすことができる。

特別なことのようだけど、実はだれもができることなんです。


空小屋で対話をさせてもらっている方のおひとりが、いみじくもおっしゃいました。

人は本来自然の中で本能のままに生きるもので、この現代社会で生きるかぎり、ストレスから開放されることはない。

だから対症療法が求められるようになります。需要があるから提供する者が出現するわけですが、この提供者はだれもができるわけではない特殊技能を「売り物」にします。

でも、この需要 - 供給の循環では、どこまで行っても世界平和になんかなりません。特殊技能ではない「だれもができること」でないといけない。

"愛"と名指しされる行いは、本来「だれもができること」のはず。

それが漠然とし過ぎるものになっているのはなぜか?

〈愛〉は"明白"だけれど"明確"ではないのが、原因その1。

原因その2は近代以降、私たち人間は言葉を"明確"なものだと思い込むようになってしまったから

言葉は本来"明白"なものです。空小屋では、"明確"と思い込まされてしまっている刷り込みを解体して、言葉を"明白"なものへと再認識してもらう。すると、〈愛〉も自ずと"明白"なものとしてつかむことができるようになる。

たったこれだけのことなんです。


では、"明白"と"明確"の違いは何か。

この違いは、テキストで表現するのは困難です。なせならテキスト(文字)は、感覚的に"明確"なものだからです。視覚的と言ってもいいかもしれません。私たち人間の脳は、多少滲んだ文字であっても明白な輪郭があるかのように補正する機能を持っています。

ですが、画像となると話が少し違ってきます。以下に画像を2つ並べてみます。どちらも"太陽”です。

画像1

画像2

(上は『いらすとや@irasutoya』、下は『大山行男広報@ohyamaPR』より)

上が"明確"で下が"明白"なのは、一目瞭然ですよね。下の太陽にはどこにも輪郭線の入れようがありませんが、それでもこの上なく明白に存在感があります。

〈愛〉も同じです。

画像の上と下。どちらが〈愛〉の感触に近いかといえば、"明白"に下の方でしょう。上の感じもなくはないですが、子どもっぽい感じがします。ニセモノとまでは言わないにしても、実際からは遠い記号のような印象。

画像3

ハートマークは「愛の記号」でしかありません。明確でわかりやすいかもしれないけれど、これでは実体をつかむことは困難です。


言葉を"明確"に語ろうとする試みだってあり得ますし、実際に存在しています。たとえばこちら。

「分けつつ繋ぐ」分け方と繋ぎ方。
言語明瞭・意味不明です。

いえ、よくよく考えることが「できる」ならば、意味は決して不明ではありません。そこには深い深い意味があります。

でも、残念ながらこの方法論での理解は、だれもが到達できるものではありません。特殊技能の類いになってしまいます。


ですがご安心ください。特殊技能の方法は、テキスト(文字)本来の方法ではあっても、言葉本来の方法ではありません。

テキスト(文字)は"明確"。
テキスト以前の本来の言葉、すなわち「話し言葉(ナラティブ)」は"明白"なものです。

だから空小屋は対話です。
メインはナラティブです。
テキストや画像も使いますが、あくまで補助。
音楽も使います。感覚的なので。

そもそも理解というものが感覚です。
感覚は"明白"なんです。
感覚が"明白"でありさえすれば、言葉はいかようにでも駆使することができるようになります。〈愛〉だって"明白"に語ることができるようになります。

ということで是非、空小屋へお越しくださいませ。

いいなと思ったら応援しよう!

井ノ上裕之 感じるままに。