抜いた親知らずの代わりに硬くなった歯茎
平日23時のメトロ。
仕事を終えた帰り道、抜いたばかりの親知らず付近を舐めながら電車を待つ。ホームへやってきた電車が喧しい音を響かせながら停車すると、俺は決まって一番最後の車両へ乗り込む。
この場所が好きだ。
進行方向を見れば、長く連なる車両が線路のカーブに沿ってそれぞれの軸をわずかにずらしながら進んでいくのが分かる。振り返れば、車両の下から延々と生まれ続ける線路がときおり電灯の明かりを受けながらトンネルの暗闇へと消えていく様子が見える。
この時間が好きだ。
毎日毎日仕事を終えて、終電近くのガラガラの電車で帰っていると、乗り合わせる乗客の顔触れは大体固定されてくる。
俺と反対側の車両端でスマホをいじっているホストみたいな若い兄ちゃん。以前に目の前でおじさんがぶっ倒れたとき、彼は責任感とか正義感とかいろんなものに駆られたのか近づいていった結果、良さげなスーツに盛大にゲロをぶっかけられていたことがある。この兄ちゃんはもし目の前でまた人がぶっ倒れたとき、同じ行動をとるのだろうか。もちろん俺にわかるわけはない。ただ、兄ちゃんは変わらず同じ時間の同じ車両に乗っている。以前とは違ってジャージ姿で見かけるようになったが。
その反対側には、丈がくるぶしまであるピンク色のダッフルコートを着た40代くらいの姉ちゃんが、スーパーのレジ袋を持ってボーっと車窓を眺めている。地下鉄なんだから、窓には自分の顔しか映っていないだろうに。袋に入っているのは、豆腐と、冷凍のから揚げ、小さい竹輪かなあれは。あとは……カップ焼きそばの裏側だなありゃ。結婚しているのか独り身なのかは知らないが、とにかくこれから夕飯を食べるのだろうなってことはわかる。
最近新しく入った顔触れに、2Pカラーみたいなリクルートスーツを着た若い女の子がいる。今日も俺の斜向かいの席に座ってパソコンを鬼のような形相で見つめている。以前はもう少し怖いものを見ているような顔だったと思うが、今は逆に殺してやるくらいの顔つきだ。パソコンに向かって威嚇行動をとるのはサラリーマンの生態の一つだから、順調に企業戦士の道を進んでいるのだろう。
先月まではもう一人、禿げ頭の痩せたおじちゃんがこの車両には乗っていた。おじちゃんはいつも上下で違う柄のスーツを着ていて、小さく俯いてスマホをいじってばかりいた。何を見ているのか気になってのぞき見してみたらソリティアだった。他にやることないのかとは思ったが、お気に入りのVチューバ―の動画をずっと見て過ごしている俺も大概だろうな。
そのおじちゃんが先月、花束を持って座席に座っていた。おじちゃんは酔っていたのかスマホは見ずに、花束や紙袋を大切そうにしっかり握りしめながらゆったり舟をこいでいた。おじちゃんの姿を見たのはそれが最後だ。
誰とも喋ったことはないし、もちろん名前も知るわけがない。
こんな時間が好きだ。
平日7時の2番ホーム。
大量の労働者が電車から吐き出されていく。みんな速足で、しゃべり声なんかどこからも聞こえない。人ごみの中にはいつも見かける面子がいるのかもしれないが、確かめる方法はない。
全員が目的地へ向かって黙々と一人で歩いている。
この中には、素晴らしい物語を紡ぐ小説家がいるかもしれないし、世界を魅了する歌姫が、優秀なプログラマーが、敏腕の経営者が、天才と呼ばれるような人間がいるのかもしれない。
でも今は全員、目的地へ向かっている途中のただの人間だ。
同じ大勢の中の一人で、天才だと見てわかることもない。そうであれば、天才も凡人も今は全員ただの人間で、違うことなど何一つない。
歯茎の穴はまだ塞がっていない。
塞がっていないが、舐めるとわずかに狭まってきているのは分かる。硬い歯茎は歯未満ではあるが、不満はない。
そう考えながら、俺も人ごみの中へ混ざりに行った。
<了>
