〈小説〉スカートとズボンの話 #33
2007年
装美監理庁を後にしてまもなく、2007年が明けた。慌ただしく楽しい、いつものmer bleueでの日々が戻ってきた。
わたしは誠順のことを忘れたふりをして、仕事に没頭した。そうすることで、本当に忘れられるだろうと思った。
ガイドラインの公布は間近だった。そろそろ内容がメディアで報じられるだろうという頃、その出来事は起こった。
閉店近い時間、耀子さんは既に帰り、わたしはひとりで店番をしていた。
すると外に、白のばかでかいワンボックスカーが停まった。
不審に思っていると、すぐにアイボリーのパンツスーツを着た女性と黒いスーツの男2人が降り立ち、あれよあれよという間にドアを開け、mer bleueの店内に入ってきたのだ。
女性はつかつかとわたしに歩み寄り、名刺を差し出した。
「民民党衆議院議員の、サトウアサミと申します」
名刺は片手で差し出された。会釈すらなかった。その視線には、挑むような鋭さがあった。
黒いスーツの男2人は、威圧するように入口に並んで、腕を組んでいる。
戸惑って、あの、と口火を切るわたしを制するように、サトウアサミは言った。
「mer bleueさん。女性下衣選択法ガイドライン策定のお手伝いをなさったそうですね」
はい、しましたが、と言うわたしに、サトウアサミは顔を数センチ近づけ、まくし立てた。
「下衣選択法は、重大な人権侵害です。私は10代の頃から、政治家になる前から、異を唱えて戦ってまいりました」
すごい迫力だ。わたしは金縛りのように動けず、ただ彼女の話を聞いた。
「でも正面からぶつかっても、なかなか壁は破れない…… そこであなた方の、脱法コーデが現れました。新たな味方が現れたのかと、心強く思いましたわ。もちろん、法の盲点をつくようなことで、推奨すべき行為ではありません。しかし、こういう手があったのかと。下衣選択法に対する強烈なカウンターと、感銘を受けました」
サトウアサミはそこまで言ってわたしから目をそらし、大げさにため息をついて首を振った。
「でもあなた方は、いつの間にか政府に懐柔されてしまった。ガイドラインの姑息な内容を見て、絶句しましたわ。私は、女性の権利を守りたいんです…… そう思って活動しているのに、なぜかいつも、同じ女性に足を引っ張られます。昔、スカートの裾を踏まれて前に進めない、なんておっしゃった方がいましたけど。私は、スカートも穿いていないのに踏んずけられて、前に進めませんのよ」
言いたいことは、山ほどあった。
ガイドラインは、決して姑息なものじゃない。いや姑息に見えるかもしれないが、最終的に、下衣選択法をなくすためのものなんだ。
皆、あなたが思うような悪人じゃないんだ。わたしも装美監理庁の人たちも、本当はあなたと同じ目的で頑張っているのだ。
そもそもあなたは、わたしを覚えていないのか。わたしは、あなたが好きだったんだ。かっこいい人だと、尊敬していたんだ。
圧倒されて、何ひとつ口に出せなかった。
せめて、その入口に立った強面の男たちがいなければ、こんなに怯えずに済んだのに。どうしてこんな風に突然押しかけてきて、脅すようなことをするのだ。
「もっと、女性が一枚岩になって戦わなければ。その思いを共有できず、残念ですわ。私は負けません」
捨て台詞のように言って、サトウアサミは踵を返した。男2人も後について、ドアを開けて店を後にした。
呆気なくワンボックスカーが立ち去り、わたしはその場にへたり込んだ。
どのくらい時間が経っただろう。閉店時間が来ても、わたしはへたり込んだまま動けなかった。
わたしの中の、冷静な声は言う。サトウさんはどうかしている。政府に正当な協力をした一般人に、国会議員でありながら怒鳴り込んでくるなんて。あれこれ気に病んでも仕方がないのだ。すみやかに、装美監理庁に報告すればいい。今日はもう遅い。明日の朝、連絡するのだ。
でも実際、それでは気持ちがおさまらなかった。突然、横っ面を殴られたようなものなのだ。なぜわたしに対して、そこまで怒りをぶつけるんだろう。そんな憤りもあったし、一方でどうしようもなく情けない気持ちもあった。心がぐちゃぐちゃに乱れていた。
どうしても今、あの人と話がしたい。
わたしは立ち上がって、誠順の名刺を取り出した。出会った日にもらったものだ。携帯の番号をプッシュし、呼び出し音を聞く。
電話は、すぐにつながった。わたしはできるだけ落ち着いて、サトウアサミが突然店に来て、ガイドラインに協力したことを非難された、と伝えた。
誠順は、えっ、と一瞬絶句した。
「華さん、大丈夫?」
それだけの言葉にわたしは、安心して泣きそうになった。
「今日はちょうど、車で杉並の業者を訪問していたんだ。もう終わっているから、すぐそっちに向かう。どこかでちゃんと話聞かせてよ」
10分ほどして、誠順はmer bleueに現れた。わたしは店を閉めて、誠順の車に乗り込んだ。幹線道路沿いにファミレスを見つけ、わたしたちは入った。オレンジ色の照明に照らされた、幼いころから大好きなファミレスだ。
わたしは誠順に、サトウアサミが来て何を言われたかを話した。誠順は黙って聞いていた。わたしは、もっと話したくなった。mer bleueのことだけを考えて始めたことがこんな波紋を呼んでいることに、いまだに気持ちが追いつかないこと。サトウさんと自分との、スケールのちがいに圧倒されたこと。ずっとぶれずに下衣選択法に向き合っている彼女に対し、自分が中途半端で恥ずかしくなってしまったこと。だけど、尊敬していた彼女が、こんな風に脅すように怒鳴りこんできたことに、深く失望したこと。
誠順はひとつひとつ、頷きながら聞いた。わたしがひと通り話し終わると、まったく減らないままのホットティーを示し、飲んだら? とすすめた。
「しかし、ひでえことするよな。いったいどうしたのかな、サトウアサミは。相当頭に血が上ってるな」
とにかく、装美庁には明日すぐに報告するよ、民民党に抗議を申し入れよう、と誠順は言った。
「正直、わからないんです。彼女の情熱はすごいと思う。でも、どうしてそこまで、純粋に戦いつづけられるんだろうって」
純粋かな、と誠順は言った。
「俺は、そんなことないと思う。別な目標があるんだよきっと」
別な目標? 聞き返すわたしに、誠順はふっと笑って答えた。
「日本初の、女性総理」
わたしは、あっけに取られた。誠順は、専らの評判だよ、と笑った。
「人間、何か欲がないとそこまで頑張れないよ。俺だって、人よりいい仕事してえな、そう評価されたいな、くらいの欲はあるよ。それもあるから頑張れる。でも、総理大臣レベルの欲となるとさ…… もう、計り知れないよね」
思ってもみないことで、わたしは驚いた。でも、思ってもみないことを考えているのがサトウさんだ。本当にそうなのかもしれない。
「だからさ、華さんが中途半端で恥ずかしいなんて思うことないんだよ。あの人に比べたら、全員中途半端だよ。欲もやることも、スケールがちがいすぎる。ただただすごいエネルギーだな、と思うだけだよ」
わたしは、頷いた。
「俺から見たら、あなたの方がよほど純粋だよ。いつも店と、服のことしか考えていない」
誠順はそう言って、わたしを見て楽しそうに笑った。わたしの感情は、ここに来る前とちがう方向に揺れた。店内のオレンジ色の照明があたたかくて、泣きたいような気持ちになる。
「もう遅いし、出ようか」
送るよ、と誠順は立ち上がった。手早く会計を済ませ店のドアを開け、その背中は駐車場に向かう。
わたしはやっぱり、この人が好きだ。
どうか、夢ややりたいことがちがうとか、縁があるとかないとか、そんなことはもう全部忘れて、ただ、わたしのことを愛してくれないだろうか。
車に向かって歩く誠順の腕をつかんでわたしは、帰りたくないです、と言った。
なんて、みっともないんだろう。でもこのまま会えなくなって後悔するくらいなら、どんなにみっともなくてもかまわなかった。
つづく
