〈小説〉スカートとズボンの話 #36
2019年
花凛が中学受験をすることになった。今年、小学5年生だ。
志望校は、都内の中高一貫女子校に決めた。
勧めたのは「ばあば」、わたしの母だ。
花凛は
「まあ、地元の中学もちょっとなって思ってたし。頑張ってみる」
とやや消極的に志望を決め、受験のための塾に通いはじめた。
花凛は誠順の実家には長期休みごとに遊びに行っており、ホテル四季乃井にもすっかりなじんでいるらしい。
異母きょうだいの「シオリ」ちゃん、「ナギ」くんとも仲良くしている。特に上のシオリちゃんには慕われ、仲がよさそうだ。
一緒に暮らしていない異母きょうだいというのは、どんな感じなのだろう。いとこのような感じなのだろうか。じいじやばあば、そして誠順の奥さんとは、どんな風に接しているのだろうか。
花凛は断片的に、たわいのないことしかわたしには話さないので、よくわからない。でも毎回喜んで行くので、きっと良くしてもらっているのだろう。あまり深く考えすぎずに、送り出している。
誠順が、東京に来た。年に2,3度来る。もちろん、花凛に会いにだ。
誠順と花凛が2人で会うこともあれば、わたしも入れて3人のこともある。今日は3人だ。
以前は新幹線で来ていたが、最近は車だ。いろいろ仕事の用事も済ませられていいのだという。
花凛の塾通いの日なので、わたしたちは塾の近くでご飯を食べた。
「パパ、今忙しいんだって?」
花凛が誠順に聞く。誠順は、うん、忙しい、と困ったような顔をして笑った。
「ソウヨウカンのことで?」
そうそう、と誠順は花凛の言葉に頷いて、わたしに説明した。
「新館を作ってるんだよ、今」
そうなんだ、とわたしは頷いた。
わたしはホテルのことをほとんど聞かないし、詳しいことを知らない。
たしかに誠順の顔は、疲れているように見えた。
花凛を塾に送り届け、わたしたちはそのまま解散するつもりだった。
しかし雨がひどくなった。スマホをチェックすると、台風が接近している。
誠順は、花凛の塾が終わるのを待って迎えに行き、そのまま2人を家まで送ると言ってくれた。わたしたちはどこかで時間をつぶさなくてはいけなかった。
車を走らせ、立体駐車場のある大型スーパーを見つけて入った。だいぶ店の入口から遠い不便な所が空いていて、誠順はそこに車を停めた。
「ちょっと仮眠とっていい?」
誠順はさっき花凛に見せた困ったような笑顔で、わたしに聞いた。
疲れているんだな。これから何時間も車を走らせて帰宅するのだ。もちろん、いいよ、とわたしは言った。
わたしは、買い物して来ると言って、店舗に入った。必要なものをいくつか買ったが、他に見たいものもなく、30分ほどで車に戻った。誠順はシートを斜めに倒して、よく眠っていた。
わたしは助手席に座って、眠っている誠順を見つめた。
わたしたちが一緒にいたのは、もう10年近く前だ。
後も先も考えずに愛し合っていた、誠順の言う「ぶっ壊れていた」時期は、ほんのわずかだった。
よく思い出してしまうのは、寂しそうに花凛の寝顔を見つめる顔や、別れる直前の苦しそうな顔だ。
今どんなに忙しくても疲れていても、もうあんな顔をしてほしくない。
きっとしていない、とわたしは思う。誠順はきっと、幸せだ。
雨足が強まってくる。
ふいに、誠順が目を覚ました。
見つめるわたしと目が合い、誠順の手のひらがわたしの髪にふれた。わたしたちはお互いにわかっていたように近づいて、キスをした。
華、と誠順はささやいた。返事の代わりにわたしは、誠順の唇を食んだ。
誠順はわたしの髪をかき分けて、痛いくらいに肩や背中を抱きしめて、何度もキスをした。華、華、と、わたしを呼びながら。
2022年
わたしは母と、市民ホールの観覧席にいた。
花凛が市のスピーチコンテストで選出され、発表を聞きに来たのだ。
2年前に突然発生し世界を震撼させた感染症は、いまだ収束しない。その対策のため、観客席には保護者だけが座っていた。
花凛のスピーチのタイトルは「すべての人が、自由に服を着るために」だった。
私は、14歳です。先月、14歳の誕生日を迎えました。
そしてその日から、ズボンを穿くことができなくなりました。
「女性下衣選択法」で「単筒型下衣」を選択したからです。その日から私が穿けるのは、スカートだけになりました。
私は、幼い頃からスカートが大好きです。だから、ズボンを穿けなくなっても問題はない、と思っていました。
しかし、そうではありませんでした。
実際、穿いてはいけない、と言われると、あれも穿きたい、これも穿いておけばよかった、と後悔や、うらやましく思う気持ちばかりです。
私の母はアパレルショップに勤務し、いつもおしゃれなジーンズや、他の複筒の衣類を身に着けています。それを見ると、私も穿いてみたいなあと思いますが、もうかないません。
そして母も代わりに、かわいい単筒の服を着ることをあきらめてきたはずです。
このように、女性が着たい服を自由に着られない、そんな社会はおかしいのではないでしょうか。
わたしは思わず隣にいる母、花凛にとってのばあばを見た。案の定、眉間にしわを寄せている。
わたしは、いいぞ花凛、もっとやれ、という気持ちと、これは少々まずいのではないか、という気持ちとが交錯していた。
花凛は第一志望の中高一貫女子校に合格し、昨年入学した。ばあば念願の制服は、花凛によく似合っていた。パンデミック下の入学だったが、花凛はつつがなく学校生活を送り、周囲を安心させた。そして今年14歳を迎え、下衣選択法により単筒を選択したのだ。
しかしその頃から、ばあばはときおり愚痴をもらすようになった。
「なんだか花凛は最近、華に似てきたわ。ときどき反抗的な目つきで『私も、いろいろ考えているから』なんて言ってくるのよ」
幼いころから花凛は、わたしに顔が似ていた。よく会わせていたサヤカは、花凛を「小華ちゃん」などと呼んだ。
しかし、性格やふるまいは、だいぶちがっていた。女の子らしい格好が大好きで、行動も、迷ったときは誰かが喜んでくれる方を選択する。
そして、中学受験が最たるものだったが、いつでも誰かの期待に応えようと努力する子だった。この性格はきっとわたしではなく、誠順ゆずりにちがいなかった。
その花凛が、こんなスピーチをするなんて驚きだった。わたしは固唾をのんで、見守った。
「女性下衣選択法」は、施行されて今年でちょうど、30年になります。これまでに反対運動などが起こったことはないのか、私は調べました。
すると、民民党のサトウアサミ衆議院議員が、十代の頃から根強く活動されているということを知りました。
わたしは、市民ホールの椅子からずり落ちそうになった。どうしてここで、サトウアサミの名前が出てくるのだ。いったい彼女はどうして、忘れたころにわたしの前に現れるのだろう。
2009年にはじまった民民党政権は、わずか3年ほどで終わった。防衛面を中心に、政権運営は不安定だった。サトウアサミ1人のパフォーマンスで、それを補えるはずもなかった。
民民党は再び下野し、現在までそのままだった。サトウアサミは相変わらず党の要職を務めていたが、近年あまり目立った活動はなかった。
花凛は、彼女の現在の活動を紹介した。近年はまた、下衣選択法撤廃の活動に力を入れていたようだ。
しかしわたしは、彼女の名前をもう耳に入れたくなかった。あまりにいろいろなことを、思い出し過ぎてしまう。
わたしはサトウ議員のように、周囲に忖度せず、女性の自由な権利のために戦う人を尊敬します。
すべての人が、自由に服を着るために。
その時を迎えるために、私に何ができるのか。懸命に考え、力を尽くしたいと思います。
花凛がスピーチを終え、壇上でお辞儀をした。観客からは、大きな拍手が送られた。
帰り道、ばあばは終始ぶつぶつと文句を言った。
「女性の権利がどうとか、校風に合わないんじゃないかしら。担任の先生がよくOKを出したものだわ。いったい、どんなご指導をされたのかしら」
「だいたい、あんなギスギスした女政治家を尊敬するだなんて。あの花凛が、どうしちゃったのかしら。あの学校に、そんな子いないわよ。おかしなことを言ってるって、いじめられたりしないかしら。心配だわ」
ばあばの言葉はだいぶ表現に問題はあったが、わたしも似たような感想だった。本音は、自分の意見を持つようになった花凛を応援したい。でもそれは、今の学校にはきっとなじまないのだ。これから、思わぬ苦労をするのではないか。
その不安は的中した。
花凛は、いじめに遭った。いわゆるネットいじめだった。ほんの数人の生徒らしいが、アプリのグループだかSNSのDMだかで、キモいとかなんとか、花凛を口汚く罵っていたのだ。それが簡単にばれ、結果広まってしまうところが、また呆れるほど浅はかだ。
わたしは花凛とともに謝罪を受けたが、花凛は学校に行かなくなった。もうすぐ1か月になる。
「ママ」
自室から花凛が出てきて、リビングにいるわたしを呼んだ。
「私、来週から学校に行くね」
えっ、と次の言葉を探すわたしに花凛は、大丈夫、もう気持ちは整理できたから、と言う。
「あのくだらない人たちと距離を置くために、時間が必要だったの。もう大丈夫」
まるで、大人のようなことを言う。くだらないは言いすぎか、と花凛は、ソファに座るわたしの横に腰かけた。
「別にね、違和感を持たれることはかまわないの。でもその違和感を『キモい』としか表現できない人たちなんだよ。うちの学校、もっと皆ちゃんとしてると思ってたのに、そういう人たちがいたんだなって。残念だな、言葉が貧しいな、と思う」
わたしは驚いた。花凛はいつの間に、こんなにしっかりとものを考えられるようになったのだろう。
「そういう人たちばかりじゃなく、応援してくれる子もいるの。だからなんとかなるかなって。2,3人だけどね」
花凛は、少し寂しそうに言った。あとの人は? とわたしが聞くと
「あとの人は、ひたすら様子見。それが無難だもの。皆、変に賢いの」
わたしは、昔を思い出した。騒がしいけど自由な雰囲気の、高校の教室。一転して、どこか窮屈な空気が支配していた女子大のゼミ。サトウさんなど異質な者に、冷ややかな視線をあびせる人たち。
でも大丈夫、と花凛は気丈に前を見つめて言う。
ずいぶん大人っぽくなったが、まだかすかにふっくらした花凛の頬。変わらずくるんとした、長いまつ毛。
その横顔は、あのころの愛らしい花凛と少しも変わっていないのだ。
ねえ花凛、とわたしは、しばらく考えていたことを口に出した。
「高校、別のところに行ってもいいんだよ。もっと花凛に合った学校があると思う。また受験しないといけないけど。一緒に探してみない?」
「……いいの?」
花凛は、驚いた顔でわたしを見た。わたしは頷いた。
「オープンスクールやっているところもたくさんあるし。いろいろ探してみよう」
うん、と花凛は心から安堵したように言った。あ、でも、とわたしを見る。
「ばあば、がっかりさせちゃうね」
「大丈夫だよ」
わたしは、花凛を抱きしめて頭をなでた。
「ばあばのことは、ママにまかせて。ママは、ばあばをがっかりさせるプロなんだから。なんてことないの」
なあにそれ、と腕の中で花凛が笑った。
よかった。
これからはもっと、ばあばと花凛の間に立って、花凛を応援しよう。
こんなにしっかりとものを考えられる。周りに流されず、人を見る目だってある。花凛はきっと、大丈夫だ。
ほっとしたように花凛は、これからのことを話しはじめた。
「高校のことは夏休みが終わってから、ゆっくり考えようかな。夏休みは、ひさしぶりに四季乃井に行きたいの。シオリが、もうこっちは大丈夫だから絶対来てね、って。もう3年、行っていないんだもの」
わたしは、そうだね、行っておいで、それからゆっくり考えよう、ともう1度花凛の頭をなでた。
わたしと花凛は、3年前のあの台風の日から誠順に会っていない。あの後冬が来て年が明けすぐにパンデミックが起こり、しばらくは別の県にすら行けないほど緊迫した状況だったのだ。
震災もパンデミックも、神様が起こしたことなどではない。でもわたしはあのときの誠順とのキスを、神様に怒られたような気がしていた。
もうそれくらいにしておきなさい、しばらく会わないほうがいい、と、まるで言い聞かせられているような。
つくづく笑ってしまうくらい、わたしは誠順と縁がないのだ。
つづく
