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〈小説〉スカートとズボンの話 #34

「俺は華に、ぶっ壊された」
 誠順はその頃、冗談交じりによく言った。

 「ぶっ壊された」のは、理性的な誠順。
 周りからの期待に、120%応える誠順。
 後から考えると結局、それはまったく壊されてなどいなかったのだけど。

 わたしたちは、毎日のように会った。
 会うたびにわたしは誠順に思いを伝え、伝えるほど、誠順も愛おしさをわたしに返してくれた。鏡みたいだった。

 わたしはたまらなく幸福だった。服を脱いで彼の体にふれたとき、きっと生まれる前からどこかで、わたしたちはこうしていたにちがいない、と本気で考えたりした。

 わたしたちはいろいろな話をした。
 わたしの子どもの頃からの話、複筒を選んだこと。それを聞くと誠順は、本当に華らしい、と笑った。
 誠順の子どもの頃と、育った海沿いの街の話。
 でもその話からは、実家の旅館の話は、注意深くはずされていた。出てきても、ごく幼い頃の話だった。わたしたちはそこを、考えないようにしていたのだ。


「そっかあ……」
 耀子さんは、口を真一文字に結んで、ゆっくり頷く。わたしが誠順の話をすると、いつもそうだった。つきあうことになったと報告したときも、同じだった。

 わたしが誰かとつきあうと夢中になりすぎる、と耀子さんは呆れている節があった。それでも、仕事に支障をきたしたりはしないことも知っていた。そういうわたしの今までの恋愛が、大抵うまくいかなかったことを耀子さんは知っていて、ただ心配だったのかもしれない。


 下衣選択法のガイドラインは施行された。メディアにも取り上げられ、単筒、複筒、それぞれがこれまでに比べて着られるものが増えたと、概ね好評だった。

 しかし、政府の思惑通りにことは進まなかった。
 閣僚の失言禍が、また起こったのだ。

 閣僚A氏は〇月〇日開かれた自自党集会で、少子化問題について話す中
「出産適齢期、20代から40代の女性の数は決まっている。『産む機械、装置の数』は変わらないということです。その役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかない」
と発言した。

2007年〇月〇日 毎朝新聞より

 出産可能な女性を「機械」に例えたこの発言は、後に「産む機械発言」と呼ばれる。ある意味歴史的な失言だった。これにより、与党自自党への非難は高まった。

 民民党は、がぜん勢いづいた。サトウアサミは、もちろん急先鋒だ。世論は著しく政府批判に傾いた。下衣選択法のガイドラインの好評判など、あっという間に忘れられていった。


「なんで、こういうことを言うんだろうな」
 誠順は、心底うんざりした声を出した。

 世間の人と同じように、発言に対する怒りもあっただろう。
 でももっと大きいのは、時間をかけて積み上げた仕事が、無駄になったことに対する怒りだったにちがいない。
 誠順たちの仕事はきっと度々、こんな風に、一瞬で反故にされるのだ。

 女性たちが楽しく着られる服を考えて、仕入れたり作ったりして、売る。わたしの仕事はなんてシンプルなんだろう。誠順の仕事の複雑さに、胸が痛くなった。
 しかし、わたしにはどうすることもできなかった。



 2007年の夏は、これまでにないような猛暑だった。
 東京は連日35℃を超える暑さで、夜も30℃を超えた。熱中症を防ぐためにエアコンをつけて就寝するように、とテレビなどで専門家やキャスターが盛んにアナウンスした。

 風呂上がりにルームウエアを着てわたしは、マンションのベランダにいた。遠くに街の灯りが煌々としている。目の前の通りは、人が時々通るだけで静かだ。

 何してるの、と掃き出し窓を開けて誠順が呼ぶ。
 誠順はエアコンをつけるが、わたしはあの冷たい風が苦手だ。わたしは、こっちにおいでよ、と誘った。

「蒸し暑いな」
 ベランダに出て誠順は、顔をしかめた。

「時々、風が来るよ」
わたしがそう言うと、少しだけ風が吹いた。これくらいじゃ、部屋に風は通らねえな、と誠順はぼやいて、ベランダの欄干に腕とあごをのせてもたれた。

 寂しいよ、とわたしは言った。誠順が、長期出張することになったのだ。大阪に新たな外郭団体が立ち上がることになり、その準備に駆り出されるのだった。2か月ほど、離れ離れになる。

「休みに来れないかな、大阪に」

「連休は取れないもの。多分行けないよ」

 わたしは、欄干にもたれた誠順に顔を近づけた。数秒間じっと見つめると、誠順はわかったよ、というようにわたしにキスをした。わたしは誠順の背中に手を回し、Tシャツの中に手を入れ背中にふれた。誠順はわたしを抱きよせて、ルームウエアの下の何もつけていない背中や胸を手のひらでなで、さらに深くキスをした。

 通りに、人の通る気配がする。わたしたちは欄干のコンクリートに隠れ、しゃがみ込んだ。

「この変態」
 誠順は声を押し殺して、くすくす笑った。

 なんでわたしだけ、とふくれると、誠順は、入るぞ、とわたしの肩を抱いて部屋へ引き入れるのだった。



 誠順が大阪に出張し、1か月半経った。9月下旬になっても、東京は暑さがおさまらなかった。わたしと耀子さんは外を行き来する度に、暑い暑い、外と中の気温差でやられる、とぼやいた。

 わたしはひどく夏バテをしていた。休憩時間になると、バックヤードで横になった。食欲もあまりなくコンビニの素麺ばかり食べていて、かと思うと急にフライドポテトを食べたくなって食べ、胸やけしたりしていた。

「華、生理きてる?」
耀子さんがそんなわたしを見て、聞いた。たしかに最近、来ていなかったのだ。

 妊娠検査薬を買って検査をすると、くっきりと「陽性」が示された。

「そっかあ……」
 耀子さんは、口を真一文字に結んで、ゆっくり頷いた。
 いつもの耀子さんだ。


 わたしは、妊娠していた。産婦人科で10週3日、と言われてもよくわからなかった。いわゆる妊娠3ヶ月だ。超音波を示され、赤ちゃんはもう胎児の形をして、心臓が動いているのが確認できる、と医師は言うのだった。

「失礼な質問だったらごめんなさい。皆さんに聞いているんですけどね」
「未婚」に〇がついている問診票をちらっと見て、医師は言った。
「妊娠を継続される意思は、ありますか?」

 一瞬返事をためらったわたしを見て、では、と何か言おうとした医師を、わたしは制した。
「あります」

 あります。あるに決まっている。
 好きで好きで仕方ない人の子どもが、お腹にいるんだ。
 こんな幸せなこと、ないじゃないか。


 その夜は、誰にも何も言えなかった。浮足立っていた。
 まずは明日、耀子さんに話そう、とわたしは思った。

 次の日、出勤してバックヤードで着替えをはじめた瞬間、下半身でいやな感触がした。慌ててトイレに駆け込むと、出血していた。服が汚れるくらいの量だった。

 トイレから出ると、耀子さんが出勤していた。

 わたしは、産婦人科を受診した昨日のこと、そしてたった今出血していたことを、耀子さんに話した。

 耀子さんはいつものように、そっかぁ、とは言わなかった。

「……病院!すぐ!!」

 わたしはタクシーで、昨日の病院に向かった。


 切迫流産です、入院しましょう、と医師は言った。
 切迫流産とは、ようするに流産のおそれがある状態、ということだった。

 店から来たわたしは、着替えも何もない。家に取りに帰りたい、と言うと
「ダメです。絶対安静ですから。ご家族の方に、持ってきてもらってください」
と医師は言う。

 わたしは、大阪の誠順、実家の両親、の順にこのことを知らせた。

 誠順には、病室からメールをした。妊娠していることがわかった、でも流産の恐れがあるということで、今入院している。わたしは産みたいと思う、と。

 実家には電話をした。予想していたことだが、母は取り乱した。わたしは、突然こんなことになってごめんなさい、と素直に詫びた。たまにしか帰らない娘のくせに、動けない身になってしまった以上、両親に頼るより他ないのだ。

 誠順はまもなく、電話をくれた。きっとメールではなく、電話をくれるだろうと思っていた。誠順は、そういう人なのだ。

 華、大丈夫か? 大丈夫じゃないから、そこにいるんだよな。メール読んだよ、全部わかったから。産もうな。

 仕事中らしく、短い電話だったが、わたしには十分だった。
 わたしの言ってほしいことを、全部言ってくれる。誠順は、そういう人なのだ。

 次の日、誠順は急遽大阪からやってきた。居合わせた両親に頭を下げ、どうか華さんと結婚させてほしいと頼んだ。そうか赤ちゃんを産むというのはそういうことなのだ、とわたしは今さらに思った。

 少々頼りないわたしの両親にも、誠順が信頼に足る人物だということは、すぐにわかったようだった。


 しかしわたしの出血は、すぐにはおさまらなかった。それだけではなく、今まで気づかなかったくせに悪阻もひどくなった。ついには食べ物を受けつけず、点滴で栄養をとるようになった。

「10週まで気づかなかったんでしょう、この時期に悪阻がひどくなるって珍しいよね」
 担当になった看護師が言った。

「妊娠したってわかったら、途端に気持ち悪くなったのかもしれません」

「そういうものなのかな」
看護師は笑った。でも大丈夫、必ず終わるからね、と。

 結局、退院まで2か月近くがかかった。
 通常は「安定期」といわれる時期になっても、しょっちゅう腹痛や出血が起き、わたしはろくに仕事にも行けなかった。妊娠後期には、もう1度入院したりした。「産む機械」としては相当効率が悪いのが、わたしだった。

 誠順は、ずっと優しくわたしを気づかった。両親にもとても気に入られた。妊娠中に届けを出してわたしたちは、夫婦になった。


 この妊娠中のドタバタで、誠順はわたしに、自分の実家のことを何も言えなくなってしまったのかもしれない。
 もっと安定した妊娠だったら、自分の実家での立場、思うことを、わたしにもっと正直に言えたのかもしれない。

 もし言ってくれたら、どうだっただろうか。わたしの答えは、変わらなかったかもしれないけど。

 誠順は、何度も実家に連絡していた。もちろん、帰って直接話したこともあった。
 わたしも一緒に行くと申し出たが、止められた。とてもそれができる体調ではなかった。

 誠順は実家を継がず、東京でわたしと子どもと生きていくと言ったのだ。
 誠順の両親は、決してそれを許さず、認めなかった。


 年が明けて2008年の初夏、わたしは無事女の子を出産した。
 わたしたちは彼女を、花凛かりんと名づけた。


つづく

第1回はこちら

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