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読書感想|江國香織「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」

大好きな本なので、かなり感想が長くなる。20年ほど前に初めて読み、何度か読み返している。
ネタバレも含め、解説のような感想になると思う。


主な登場人物は15人、東京の同じ住宅街かその付近に住む人々。全員が何らかの形でゆるくつながっている。
全員を語り手として、しかしめまぐるしくなくゆっくりと物語が進む。(ミステリーではなくあくまで恋愛小説)

いわゆる「不倫の恋」をする人物も多い。
既婚者でありながら恋人がいたり、既婚者に片想いをしたり。

しかし全編を通して、登場人物全員にほとんど「罪悪感」がない。
不倫の恋に対する良心の呵責のようなものは、一切描かれない。
「なんてモラルが低いんだ。誰かまともなやつはいないのか」と憤る人は、早めに撤退した方がいいと思う。




水沼陶子とうこという女性が最も多く登場する。おそらく彼女が主人公。
34歳で、東京の広尾で夫と暮らす。かつてトリマーとして自立し獣医師の恋人・山岸がいたが突然別れを告げ水沼と結婚し、水沼と愛犬クロと共に専業主婦として暮らしている。

物語中に出てくる夫・水沼は人間関係には淡白な一方、モノや生活様式には人一倍こだわりを見せる。陶子はそれを苦もなさそうに受け入れる。陶子もまた快適な自分の家庭に並々ならぬ愛着を持ち、そこでの生活を満喫している。

(12ページより)
家のなかのこまごましたことは自分に責任がありながら、なおかつ庇護されている、というその感じが陶子は好きだった。
――――――――
(33ページより)
結婚して四年になるが、それ以前に着ていた服は、もうほとんど残っていない。無論陶子はそのことに自覚的だったし、あまつさえそれを愉しんでもいた。シビラやミュウ ミュウの甘やかな服は、庇護される権利を感じさせてくれる。

本文より引用(以下同じ)

庇護ひご」が繰り返し出てくる。快適な自分の居場所と、守られている実感。
結婚をそのように考える陶子は外からも、美しく幸福そうな妻に見えている。

(41ページより)
エミ子は、目の前でワインに頬を上気させ、大きな目を気前よくうるませている陶子をしみじみ眺めながらそう思った。結婚というのはたぶんこういうひとにむいているのだろう。
―――――――― 
(51ページより)
友人の姉といっても三つ歳下の、チョコレート色のワンピースにノーアクセサリーで大人のかわいらしさを演出しているつもりらしい目の前の色の白い女を、しかし麻里江は嫌いではなかった。

美しく幸福そうな、いいとこの若奥さま。
石田ゆり子と高岡早紀を、足して2で割ったような女性かなぁ(少し年代ちがうけど)……
様々な角度から描かれる陶子に、どんな女性なのかなとあれこれ想像をめぐらせてしまう。




物語では5組の夫婦が登場し、それぞれの結婚や夫婦の形が語られる。
陶子にとっての結婚は「快適な居場所」と「守られていること」。

陶子の元恋人・山岸と結婚した道子は
「結婚生活において愛などより余程大切だと道子の思う信頼と約束と思いやりとも、自分はふんだんに与えられている」(86ページより引用)
と言うが、結婚してまもなく他の男性に恋をし、平然と山岸のもとに戻ったという過去を持つ。
そして
「もう二度と、夫に男性的な魅力は感じられないと思うわ」(253ページ)
と言い放ちながらも、平然とその後も妻の座におさまる。しかし二人は穏やかに生活している。

道子はエキセントリックな人物で、登場場面は少ないのにかなり強く印象に残る。これを受け入れる夫・山岸の気持ちはよくわからないのが正直な所だが、動物病院を営みながらつかずはなれず助け合う二人の様子が描かれ、ゆるやかにだがお互いを必要としているのはわかる。

「結婚とはお互いを必要とするもの」というのが、この夫婦の答えなのかもしれない。


花店の店主・エミ子と共同経営者の夫篠原との離婚のエピソードも印象深い。11年連れ添った篠原とさしたる事件もなかったのに、エミ子は迷いなく離婚を申し出る。

自分の結婚を
「両方にとって、都合のいい結婚だった。社会という荒れた場所で生きるのに、互いに互いを必要とした」(301ページ)
とエミ子は言う。しかし篠原のことは
「はじめから愛してなどいなかったとしか思えない男」(225ページ)
と。

敢然と離婚をするが、エミ子はその後喪失感に苛まれる。
必要な人だったが、愛していなかった夫との結婚生活。それを続けるかやめるかはそれぞれなのだと、山岸・道子夫婦と対比して思う。


陶子の親友・れいことその夫・土屋。
互いに仕事を持ちそれぞれのペースで暮らし、土屋はろくに家に帰らない。そして衿という女性と恋愛関係にある。れいこは薄々感づいていながらも夫を一切責めず、自由にさせる。

天真爛漫で、土屋を束縛するつもりのない衿。しかし彼女が土屋の一挙手一投足を見つめ感じるさまは、本当に愛おしさに溢れていて、衿の語りがこの物語の中で、もっとも「恋愛小説」らしく思える。

ひたすら身勝手だが衿を通して魅力的な人物として描かれる土屋は、衿とこのまま気楽な関係を続けたいと望んでいる。
れいこにないのびやかさを持つ衿は自分を癒してくれる存在だが、土屋は現状に満足しており、れいこと別れる気もない。

しかしある時れいこは
「実際のところ私はあのひとを必要としているのだろうか」(320ページ)
と気づく。

少なくとも生活面で土屋を必要としていることはなく、おそらく男性としても愛情、愛着が薄かったことも、衿との対比で嫌というほどわかってしまう。
土屋の方は、はたしてれいこを必要としていたのだろうか。




結婚生活が語られる一方で、恋愛も多く語られる。

山岸に恋をする、陶子の妹・草子。
土屋に恋をする、衿。
土屋に恋をする、れいこの部下・桜子。
ラストで山岸に恋をする、草子の先輩・麻里江。それに呼応する山岸。
作者は、土屋と山岸を少々ひいきめに描いているように思える。

結婚していない者もしている者も、罪悪感なく恋心を語る。
彼女たち、特に草子と衿の手放しな視線がとても純粋だ。
彼女たちの視線の純粋さと、山岸や土屋の甘さとはかけはなれた結婚生活が、恋愛と結婚の違いを際立たせる。


そして陶子も、恋をする。近藤という、夫の水沼とは正反対の人柄、雰囲気を持つ人物に。
飼い犬のクロの散歩中に偶然出会いお互いに惹かれ、やがて一線を越えてしまう。

(285ページより)
 いつもそうなのだ。(中略)会いたいとか触りたいとかそばにいたいとか、相手に必要とされると私は欲望をおさえられない。もっと必要とされたい欲望、すっかり奪われたい欲望だ。

しかし情事を重ねながらも、陶子は近藤に溺れない。

(290ページより引用)
 元通り。
 ホテルをでるときの陶子に、それ以上ぴったりの言葉はないと近藤は思う。それは近藤の欲望をかきたてる。すぐに部屋に入り直して、なにもかもはぎとってやりたくなる。
 同時に、それはしかし近藤を、奇妙に安心させもする。この女は、自分に依存する気などまるでない。一緒にいるあいだ以外の自分に何も望んでいない。

水沼にないところばかりを持つ近藤に惹かれながら、それでも陶子は迷いなく、水沼と暮らす家に帰る。
「情事は所詮情事だ」(355ページより)
とすら自分に言い聞かせて。

(303ページより)
  無論、もっとながく一緒にいたかった。
(中略)
 遠くにいけば、帰れなくなる。この居心地のいいリビングに。水沼との生活に。第一、自分は昔から旅行好きなタイプではないのだ。

この物語で不倫の恋をした土屋は痛い目にあい、陶子はあわない。それはなぜだろう。

陶子はきっと、読者ひとりひとりの分身なのだ。
陶子の「遠くにいけば、帰れなくなる」は読者の本音。
読書で束の間知らない世界を体験し、本を閉じてまた日常へ戻る。

読者の代わりに大胆で子どもじみた冒険をする陶子は、知らん顔で日常へ帰っていく。男性読者は少々モヤモヤするかもしれない(この物語は、女性誌「SPUR」で連載されていた)。
しかし「不倫願望を代わりにやってもらってときめく」というような、下世話な話とも思わない。

この物語を通して多くの登場人物たちから繰り返し語られるのは「孤独」。

(254ページより引用)
 ケニー・Gは泣ける。
 陶子は床にうつぶせになってほっぺたをつけ、部屋の空気をみたしているサックスに全身で聴きいった。飾りつけをほどこしたクリスマスツリーの下で。
 どうしてだろう。このひとのだす音は何かにふれる。何も届かないはずの場所に届く。自分がいまでも一人ぼっちだという気がする。水沼も近藤も無論山岸も、誰も自分に影響できない、と、思う。それはひどく孤独な、ひどく安心なことだった。

陶子が部屋でひとりきり、じっと音楽を聴く場面が繰り返し描かれる。
夫にも恋人にも誰にも入ってこられない、自分の心の奥底の部分。
それは決してなくならない孤独であり、誰にも立ち入られたくない領域。
自分の居場所で、静かにそれと向き合うこと。
陶子にとっては、それが一番大事なことだった。




冒頭で私は「登場人物に罪悪感がない」と書いた。
再読してみて私は、「罪悪感は、あえて描かれていないんだ」と思った。
「罪悪感」「良心の呵責」も人間らしい感情だけど、それは人が社会で受け入れられるために後から身につけるものだから。

この物語を通して描かれるのは、人間が元から持っている、子どもじみた自分勝手な感情、欲求。
愛する人に、受け入れてくれる人に甘えたい。
いつでも帰ってこられる、絶対的な自分の居場所がほしい。

人はどんな風に人を好きになり、その人を思うのか。
どんな風に、自分の居場所を守ろうとするのか。

「罪悪感」をノイズとして排除したかのようなこの物語は、そういう人間の根源的なものをくっきり浮かび上がらせ、軽やかにみせてくれる。

誰もが、そういうわがままな感情や欲求を持っている。
しかし実際は多くの人がそれを抑えて、良心に沿ったまま穏やかに暮らす。
しかし同じように良心に沿っていたとして、
「そういうわがままな心を持っているようではダメだ」と自分をおさえつけるのと、
「そういうわがままな気持ちは確かにある」と認めながら、それでも良心に沿うのとではどうだろう。
私は後者の方が、心穏やかでいられる。
認めたからといって、実際自分勝手にふるまうわけではない。
でもそれで落ち着き、どうしようもない自分の内面をなだめ、本をぱたんと閉じて、しっかり背すじをのばして日常に戻れる。

だから私はこの物語が好きで、繰り返し読むのだと思う。




最後にこの物語の一番好きな所、端的でキラリと光る描写をいくつか紹介したい。物語には直接影響しなくても、本当に印象に残るものが多い。

(16ページより)
子供というのはつめたいものをのむと、どうしてこうもたちまち声が濡れたようになるのだろう。
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(19ページより)
だいたい、衿には花を買う人の気持ちがよくわからない。花屋の花は夜店の金魚みたいな気がするし、道端の草のほうが余程好もしい、と思うからだ。
――――――――
(66ページより)
コンピュータ・グラフィックスには、ここ半年ばかり凝っている。スイッチを切ればあとかたもなく消えてしまうところが気に入っていた。
――――――――
(218ページより)
薔薇模様のソファやカーテンから、フェミニンというか個性的というか、道子がなんとなく他人をよせつけない趣味の持ち主であることもうかがえた。

それぞれ短いけど、その人の人柄やその時の風景、本当に様々なものが伝わってくる。

陶子の夫・水沼の描写も所々に出てくるが、最も印象的なものが、水沼と土屋の会話のシーン。

(215ページより)
「声量には圧倒されますね」
 ちょっと下世話なところもファンには魅力なんだろうなあ、と、洋楽にはある程度の知識があると自負している水沼が言い、しかし土屋は実のところほとんど話をきいていなかった。妻の親友の夫であり、妻自身の学生時代の友人でもある水沼という男を土屋はあまり好きになれなかったし、僕もボヘミアン・ラプソディは素晴らしいと思いますよ、とか、死によって英雄にまつりあげられてしまう人間というのも不幸ですよね、とか、言外になにかを含ませるようなもってまわった言い方を、土屋が元来嫌悪しているせいでもあった。フレディ・マーキュリーは英雄にまつりあげられてなどいないと思うし、彼が英雄であろうとなかろうと、曲がいいということが土屋にとっては真実のすべてだったが、そんなことをこの男に言う気にはなれなかった。

この会話だけで水沼がどんな人物かありありと伝わってきて、土屋の人柄までもさらにくっきりとしてくる。

描写や会話のこんな絶妙さも、この物語が大好きな理由の一つだ。


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