生成AIを使った創作(文学)に思うこと
noteでも最近、生成AIを使った記事が多いですよね。
自分が使わないので「こういうものができるんだ」と、基本的には興味深く拝見しています。
でもそうでないものというか、それはどうなの? と思うものもある。
おもに、以下の二つで。
①明らかに生成AI使ってるのに「使ってます」って言わないやつ
やたら文章が整ってて余白がないので、だいたいは言わなくてもわかるんですけど。私個人の感想はいいとして、少なくとも使ってるのに「使ってます」って申告しないのは悪質だと思う。
②長すぎるやつ
生成AI使ってる記事って長いのが多い。スクロールバーがちっちゃ~くなってて平気で一万字近くいってそうなものはげんなりする。もうちょっと読みやすく要約すればいいのに(結局読まない)……
人が書いてるものは長くても知らない人でも、多少文章が読みにくくても読んじゃうのに。なんでだろう。
……で、②の「人が書いてると多少長くても読むのに、AIだと読む気がしないのはなぜだろう?」についてもうちょっと考えてみます。
最近読んで面白かった、直木賞作家小川哲氏の「言語化するための小説思考」という本がありまして。
この中で、AIの創作活動に関する記述がありました。
芸術とは「ある人間の認知を圧縮したもの」と小川氏は言うんですね。
人間が芸術に感動するのは、圧縮された作品を解凍して、根本に存在したはずの「ある人の認知」を受容するからだと思っている(もちろん例外もあるだろう)。僕がAIによる表現活動に対してそこまで悲観していないのは、AIには解凍した先の「ある人の認知」、加えてさらにその先に広がっている「世界」が存在していないからだ。
……なんか小難しいですけど。
でも「すごくわかる」と思ったんですよ。それは私が少し前に別の本を読んで、同じような感想を抱いていたから。
大好きな宮本輝氏の「錦繡」という小説なのですが、感想をメモしていたのでそこから。
亜紀のふともらした言葉や有馬の死線をさまよった経験から、かなり独特な死生観も展開される。
これといった死生観を持たない私は「そういう考え方もあるのか」とただそれらをなぞるだけなのだけど、これは著者のどんな経験から出た話なのだろうと、興味深く思いを巡らせてしまう。そこには、ものすごく濃い原液のような経験談がある気がして。
ここで持ち出す話でもないけど、AIが書いた小説だったらそういう読み方はできないと思った。どんなに示唆に富んだ話でも、背景に濃い原液はないのだから。
ちょっと同じようなこと言ってませんかね?? 直木賞作家と!
(……全然違う?まいいや)
どちらの本も面白いので、後日ちゃんと感想UPしたいです。
でも何かで最近読んだのですが、3,40年前ワープロが普及しはじめたとき、作家の中にはそれを拒否する人も少なからずいたんですって。
「手書きでないものになど魂がこもらない」
か何か、忘れたけどそんな感じの主張で。
今そんなことを言ったら、笑われてしまいますね。
……でもそんな感じで、
「生成AIを使った文章なんて魂がこもってない」
と言ったら、笑われてしまう時代が来るのですかね?
冒頭で私「使ってるって申告しないのは悪質」なんて書いたけど、申告する必要なんてないくらい、創作するときにこれを使うことが、いつか当たり前になってしまうのですかね?
