知らない世界を語るには【読書】小川哲「言語化するための小説思考」
直木賞作家・小川哲氏による小説指南本……ではなく「小説を生み出すための思考術」の本。
一般的な小説指南本とはかなり異なっていて、著者が小説を書くときの思考が、きわめて論理的に説明されている。
論文調の硬派な文章の中に、ベストセラー作家の
「自分の思考を余すところなく伝えるんだ」
という熱さがひしひしと感じられ、うれしい。
私が最も印象深かったのは、「知らない世界の話について堂々と語る方法」という章の「抽象化」「個別化」の話。
小説を書くとき大きな壁になるのが
「自分の知らない世界のことを語らなくてはいけない」
ということ。でないと、作品の幅は狭くなってしまう。
でも「抽象化」「個別化」を使えば、知らない世界の話でもリアルに語ることができるという。
抽象化と個別化は、知らないことを書く上で、あるいは想像できそうもなかったことを想像していく上で、重要な鍵になる。まず、自分の目でしっかりと世界を見る。見えた世界を抽象化し、別の世界に置き換えて個別化する。
(本の内容に補足すると、「抽象化」は、構造化ともいえる。世の中にある体質・構造を解き明かすこと。
「個別化」とは、その構造を具体的な例・出来事で示すこと)
本文で著者が示した例が面白い。小説家としての実感、視点を用いて、専門外の業界のことがかなりもっともらしく語られていて、実話かとすっかりだまされた。それは本書でぜひ確かめてほしい。
ここではあえて、私が例を作ってみる。
(以下しばらくは、本書の内容ではなく私の考えた例)
SNSで人間模様を観察していて。
「他のユーザーとのつきあいでとにかくコミュニティを広げる『交流系』の人と、自分の作品(主張)を黙々と発表し続ける『職人系』の人がいる。職人系は交流系に複雑な思いを抱きがち」
という現象がある。
(SNSっていうかnoteの話だけど笑)
この現象を「抽象化」してみると
「世の中には人づきあい重視の『交流系』の人と、自分のやりたい(やるべき)ことに黙々と専念する『職人系』の人がいる。両者が同じコミュニティにいる場合、職人系が交流系に複雑な思いを抱くこと、両者の間に葛藤が起こることがある」
となる。(あれ、観察結果とあまり変わらないな。すみません)
これを「個別化」して、物語のプロットを作ってみる。
舞台は大学のキャンパス。
大型サークルを主宰するA男は、キャンパスで知らない者のいない人気者。授業にはろくに出ずイベント企画に情熱を傾けているが、そのコミュ力で同級生、担当教授まで味方につけ、抜け目なく単位を取得する。
一方学部で首席のB男。学業にいそしみ院生や教授から一目置かれるも、A男がなんとなく目障り。そんな彼らが同じゼミに入り、同じチームで研究活動をすることになったが……
凡庸なプロットではあるけど、SNSで観察した「交流系の人の戦い方」「職人系の人の気質・プライド」「両者の葛藤」にはけっこう普遍性があるのでは、と私はにらんでいる。したがってきっと、アラフィフの私でも大学生の青春ストーリーを「こんな人いそう」と思われるくらいにリアルに書けるはずだ。
(アラフィフの限界というか、どうにも90年代風にはなりそう。そこは取材するなり、いっそ舞台を90年代にするなり、いろいろ考える必要はある)
本書の内容に戻ろう。
どれも人間がやっていることなので、必ず重なるところがある。それと同時に、どれも個別の人間がやっていることなので、絶対に重ならないところもある。何が同じで、何が同じではないか。何が普遍的で、何を普遍化してはいけないか。その点に注意しながら、僕たちは知らない世界について書く。
何が普遍的で、何を普遍化してはいけないか。
まずはそこを間違わずに「抽象化」しなくてはならない。
でも「抽象化」は、noteでも上手な方が多いなと思う。
「なるほど、世の中ってそうなっているよな」と納得させられるエッセイや論考によく出会う。
エッセイや論考ではなく小説にするには、それをどれだけ「個別化」できるか。
「抽象化」で論理的に働いた脳をにわかに妄想モードにチェンジして、キャラや設定を考える。それが「個別化」だと私は思う。
「抽象化」「個別化」どちらが大事だろう。私は「抽象化」する力がより大事ではないかと思った。
どんな視点で世の中を見るか。たとえたくましい「個別化」力(妄想力ともいう)や優れた文章技術を持っていても、視点がありきたりな小説は私にとってはつまらないから。
ちなみに本書では、どちらが大事だと明言はしていない。プロでもその見解は分かれるらしい。
自分の体験談でもなんでもない話をリアルに書く方法。今まで小説をいくつか書いてなんとなく感覚的にやってきたことを、この「抽象化」「個別化」がとてもすっきりと説明してくれた。
「抽象化」「個別化」以外にも、印象深い話がいくつも。小説に限らず、文章を書く人皆が興味を持って読めると思う。
以下、断片的にメモ書きで。
文章は「情報の順番」が大事。
語り手と読者の間に知りうる情報の差が生まれないのが、読みやすい文章。読みやすいだけが価値ではないが、あえてでないのなら情報の順番は守りたい。
どれだけ「私に向けられた話だ」と思ってもらえるか。
本当は一番面白いのは、もともと前提情報を共有している仲間との内輪話。作家は顔の見えない読者に向かって、それを超えるものを書かなくてはいけない。どこまで前提情報を書けば伝わるのか想像しながら書く。端的に、野暮にならずに。
大事なのは主張や設定ではなく、書いてみたいこと、考えてみたいこと。
答えではなく、問い。価値のある問い。
アイデアは生み出すものではなく、見つけるもの。
発想力やオリジナリティは必要なく、アイデアを見逃さない「視力」が大事。
小説は、出来事とその伏線とでできている。
そのどちらでもない(物語に影響しない)情景描写は不要。
どうして小説という形式を選んだのか、特有の制限を強みに変える。
会話文が、実際の会話の劣化版になってはいけない。
景色の描写が、実際の景色の劣化版になってはいけない。
内面の描写が、実際の心の動きの劣化版になってはいけない。
(厳しい!!でもそうでないと、映像には勝てないよね)
文学とは、ある人間の認知を言語に圧縮したもの
「ある人の認知」、加えてさらにその先に広がっている「世界」が、人が作った芸術作品にしかないもの(AIにはないもの)
創作に関することはとかく「考えるな感じろ」的に論じられることが多く、それもまた真理だとは思う。でもそれを排して、徹底して、終始ほとんど理詰めともいえるテンションで語る著者に、私は読者への愛を感じた。だって「考えるな感じろ」と言われるだけではきっと、ほとんどの人間が脱落してしまう。
でもたとえ理論的に理解しても、実際やるのは至難の技。この本に書かれていることを実践するのは、多分めちゃくちゃ難しい。
一番のメッセージはきっと「志高く書くべし」だ。
流行りや小手先の手法に惑わされず、自分だけの「小説」を見つけなさい、と。そんな著者からの温かいエールと、私は受け取った。
