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上野恭介は呪われている 第三話『瞑すべし家』



 子供の笑い声で目が覚めた。
 時計を見ると六時を指している。
 一階の方からはパタパタと忙しない足音が聞こえていて、俺は寝坊したのだと悟った。
 すでに荷物をまとめて突っ込んであるボストンバックを引っ掴んで部屋の外に出る。
 途端、小学生くらいの双子が目の前に現れて俺はたたらを踏んでしまった。

 「おはようございます! ドウシュウコジ!」

 俺の腰までくらいしかない子供が俺の顔を覗き込んでくる。俺の知らない気色悪い名前で俺を呼ぶ。
 俺の名前は神田雅弘かんだまさひろだと何度言っても聞かないから、もうあきらめた。こいつらは異常だ。
 その異常で不気味な子供がふたり、部屋のドアノブに手をかける。

「お部屋をお掃除させていただきます!」
「やめろ! 頼んでねぇ!」

 子供ふたりの手を振り払って部屋に鍵をかける。そうじゃないと、こいつらは俺がいない間に部屋を漁るからだ。
 もう関わりたくないから速足で階段を下りる。俺の背後で双子が手を合わせてこちらに頭を下げている。

「気持ち悪ぃな、シャイニングかよ」

 部屋に入るのを防げたのは幸いだった。それに相手が子供だったのもよかった。もうすこし年齢が上だと厄介なことになっていただろう。
 もう誰とも会いたくないが、六時過ぎではそれも難しい。
 案の定、一階に降りると同時に中年の女が俺の顔を覗き込んできた。顔が近い。気持ち悪い。

「あら、今起こしにいこうかと思ってたんですよぉ」

 愛想よく笑う女の顔からは感情がうかがい知れない。ただとってつけたように口角をあげているだけのように見えた。
 無視して通り過ぎると、女も手を合わせてことらに頭を下げている。気持ち悪い。
 なんとかこいつらに顔を覗き込まれない方法はないかと考えても、俯いたり目を隠したりしたら余計躍起になって俺の顔を覗き込むし、無理やり視線をあわせてくるから無駄だった。
 すれ違う中年の男が、やはり俺の顔を覗き込んできて、声をはりあげる。

「おはようございます、ドウシュウコジ!」

 俺は無視をした。どうせこいつらは話が通じないからだ。
 通り過ぎると、やはり男も手を合わせてこちらに頭を下げる。不愉快だ。いますぐぶん殴ってやりたい。
 だが、時間帯の割に合う人間が少ないのはよかった。荷物を抱えたまま洗面所に向かう途中も廊下には誰もいない。
『いつも心に感謝を』 『輪廻からの解脱』 『己を見つめよ』
 そんな、いかにも胡散臭い張り紙が、この家にはいくつも張ってある。
 そして洗面所には、仏画が壁紙のように張り付けられていた。気持ち悪い。

(……相変わらず臭ぇな)

 その上、湿った臭気に満ちているので不快指数が天井知らずだ。八本もある歯ブラシから臭いが立ち上ってくる。本当はこんなところで身支度なんかしたくないのだが、他に使える場所がないから我慢するしかなかった。
 ボストンバックから自分の歯ブラシを取り出して、念入りに磨く。こんな家で寝てるんだから、俺自身も臭いかもしれない。それがここ最近一番の恐怖だった。
 洗面所は使いたくない。できればこの家の蛇口から出てくる水を使いたくない。でも他に候補もないから、蛇口をひねる。ためしに水の臭いを確認してみて、異変を感じなかったので口をすすいで顔を洗った。
 毎日少しずつ使っている整髪料は、もう一年以上の付き合いになる。金がないから節約せざるを得ないのだ。
 この家にいる連中に、弱みを見せるわけにはいかない。
 掌に小指の爪くらいの量を取った整髪料で髪を整え、俺は急いで洗面所を出た。

  寝坊はしたが、このペースなら問題なく学校へいけるかもしれない。
  俺は急いでリビングへ向かった。
 

 ◇

  リビングにいくと、家に居座っている人間が全員、床で座禅を組んで瞑想していた。
 全部で八人いるから、リビングが人であふれかえって足の踏み場もない。

 間に合わなかったか。

 俺は玄関にボストンバッグを置いて、極力音をたてないようにリビングへ滑り込んだ。
 キッチンまでたどり着くと、食パンを袋から二枚ひっつかんで口の中に入れる。早急に咀嚼を終えると、コップに牛乳を注いで食パンを流し込んだ。
 そのあとはコップを洗わなければいけない。以前コップを流しに置いたまま家を出たら、「洗っておいたよ」と恩着せがましく何度も言われたから、どれだけ時間が押していても自分のことは自分でしなければならない。弱みは絶対に見せたくない。
 静かな空間に水音が響く。人の気配はするのに、聞こえるのは蛇口から出る水の音だけというのがとても不気味だった。
 今すぐ逃げ出したいのに、弱みを見せたくないから逃げられない。キッチンの配置上、瞑想している連中に背中を向けることになるのも嫌だった。
 きもちわるい。きもちわるい。
 視線を感じる。気配を感じる。
 はやくにげだしたい。
 急いでコップを拭いて、食器棚に戻す。

 振り返ると、瞑想を終えたらしい連中が全員こっちを向いていた。

「おはようございます! ドウシュウコジ!」

 八人分の声が鼓膜を引き裂くように迫ってくる。最悪だ。もっと早く起きていればこいつらが瞑想中にコップを洗って、とっとと家を出られたのに。そうすれば挨拶されないで済んだのに。
 俺が顔を顰めるのが気に入らなかったのだろう。八人のうちの一人が声を張り上げる。

「ドウシュウコジ! 毎日どういうつもりなんだ! 家族を無視して! みんながお前に挨拶してるじゃないか!」

「……それ、俺に言ってんのか?」

 昔、俺が父親だと認識していた生き物は、さも子供の監督責任を果たしているかのような顔をして俺を睨み付けている。
 その元の父親の背後で、他の連中は薄気味悪い笑顔を貼り付けていた。ハンコか金太郎飴みたいに均一化された笑顔に取り囲まれ、元父親の隣に女が近寄る。
 これは俺が昔母親だと認識していた生き物だ。元父親と同様、子供の監督責任を果たしているような顔で人語っぽい鳴き声を発する。

「ドウシュウコジ、ダメよ。挨拶されたらきちんと挨拶を返しなさい。それに黙って食事を持っていくのも良くないわ。みんなに申し訳ないと思わないの? 貴方はただでさえお布施を免除していただいている立場なのよ」

 長ぇ鳴き声だな。発情期の猫だってもうちょっと簡潔に鳴くだろうに。
 俺とコミュニケーションが取れていないことだけは野生の勘でわかったらしく、元母親の口調が少し強くなる。

「働きもしないのに、そんな態度でいるなんて恥ずかしい。もうすこし弁えなさい!」

「じゃあ縁切ってくれよ。そうしたら自分でなんとかするから」

 あ、しまった。つい返答しちまった。
 人語を操るからって人語を解しているワケではないのに、聞き覚えのある言語を喋られるとついコミュニケーションを取れるんじゃないかと思ってしまう。
 そしてそんな幻想を抱くのは相手方も同じらしく、元母親が非難がましい声をあげた。

「ドウシュウコジ! なんてこというの! この恩知らず!」
「恩知らずか? そんなに金が惜しいなら学費のかかる未成年を切り捨ててくれって言ってんだから、むしろ殊勝だと思うけどな」

 ああ腹が立つ。中途半端にこっちの言葉を解してるから余計に腹が立つ。
 俺が睨み付けると、元父親も元母親も、一瞬たじろいだ。
 人みてぇな顔すんな腹立つな。

「だいたい何がお布施だよ。クズ宗教に金吸われてるだけだろ。それに俺はドウシュウだかなんだかいうバカげた名前じゃない。ありがたい宗教ごっこは俺抜きでやってくれ」

「ドウシュウコジ!」

 だからそれは俺の名前じゃねぇっつってんだろ。
 元親父が声を荒げ、木製の靴べらをひっつかむ。それが合図かのように、後ろにいた笑顔の連中が俺にむかって手を伸ばしてきた。

「やめろ! 触んな!」

 消しゴムハンコ大量生産スマイルどもが、砂糖に群がる蟻のように俺へ押し寄せてきた。抵抗するために振り回した腕に、誰かが当たる。

「きゃあ!」

 尻餅をついたのは知らないババアだ。元母親と同い年くらいの女だった。もしかしたら朝挨拶されたかもしれないが、関わりたくないので顔なんか覚えてない。
 それでも女を突き飛ばしてしまったことに動揺して、俺の動きは一瞬止まった。

 いくら人間じゃないと思っていても、こいつらは幽霊じゃない。
 生きている奴を傷つけるのは抵抗があった。
 
 「大人しくしなさい、ドウシュウコジ!」
「ドウホウコジ、どうぞ!」

 隙を見せたのがよくなかったのだろう。
 おっさんふたりが俺に群がり、元母親も参戦して俺を床に押さえつける。元母親だけなら振り払えたが、いかんせん男2人が参戦すると事情が別だ。
 総勢3人に肩と腕を掴まれ、床に押しつけられる。体に力が入らないので満足に抵抗もできない。
 
 「ありがとうみなさん。放蕩息子のために、申し訳ない」

 さも悲しいですというわざとらしい顔をして、元父親が俺の背後に立った。靴べらが振り下ろされる。
 空気を来る音。
 肉を叩く音。
 視界が揺れて、口から声が出た。

「ぐぁああっ!」

「痛いかドウシュウコジ! 私はもっと痛いんだ! お前の躾けに協力してくれている皆さんも、お前よりもっと痛いんだぞ!」

「そういう台詞は自分の手で殴ってから言いやがれ!」

「減らず口を……!」

 バシンッ、と大きな音がした。
 叩かれた背中は痛みを通り越してビリビリと痺れているような感覚がする。熱くて痺れて、息が詰まる。

 ――くそっ、たれが……!

 昔は少なくとも、こんな体罰みたいなことをする人じゃなかった。
 もう人じゃなくなったからこんな事をしている。

 昔は普通の家族だったんだ。
 いつのまにか人間の皮を被ったケダモノばっかりになっちまったけど、俺の家だって、昔は普通だった。

 普通だったのに。

 なんだか無性に悔しくて悲しくて、俺は泣きたいのを必死に堪える。
 今泣いたら痛いからだと思われる。
 痛くなんかない。こんなもの。野良犬に噛まれたようなもんだ。
 俺の家族はとうの昔に全員死んだ。今目の前にいるのは家族の皮を被ったケダモノだ。野良犬が家にあがりこんでいるだけだ。

 だから屈してなるものかと、身を捩る。

 「どけオラこのクソが!」
 
 靴べらでの折檻が始まってしまえば、こいつらは油断して俺の拘束を緩めるのだ。あまり接近していたら自分が靴べらに当たりかねないので、距離をとっているのもある。
 折檻されている人間に抵抗する力はないと思っているのだろう。
 卑屈な野良犬と一緒にするな。俺は人間だから、殴られたら股ぐらに尻尾挟むお前ら獣とは違うんだ。

「テメェも調子乗って親父面してんじゃねぇぞ!」

 靴べらを持つと安心する性質があるらしい野良犬に、背中を叩かれた仕返しも込めて拳をお見舞いしてやった。

「ぎゃあ!」

 無様な悲鳴を上げて、元親父が床に転がる。
 痛いか? あいにく俺はあまり痛くないぞ。物と他人に頼って闘うお前と違って、殴り方を心得てるからな。

「てめぇらも殴られたくなかったらどけよ」

 睨み付けると、消しゴムハンコスマイルどもが俺から一歩距離を取った。その中に元母親も混じっている。デカい面してたのが嘘みてぇだな。ウケる。

「待て!」

 元親父がいつのまにか起き上がって、靴べらを握っていた。
 顔を真っ赤にして俺の背中を靴べらで叩いた。

「ぐっ……!」

 体がふらつく。床に少量の血が舞った。
 畜生、思いっきりぶん殴ったのになんでこんな元気なんだ。腹立つ。
 
「態度を改めなければこんなものでは済まないぞ、ドウシュウコジ!」

「うるせぇいっちょ前に人語喋るんじゃねぇよ!」

 怒りにまかせて回し蹴りをお見舞いしてやった。
 腹に直撃した踵に車のタイヤでも蹴ったような衝撃が残った。
 元親父の体が吹っ飛んで、冷蔵庫にぶつかる。
 轟音とともにリビングが揺れた。

 元親父は口元に手をあてたまま、俺を睨み付ける。
 嘘だろ腹蹴られて吹っ飛んだのにまだそんな元気あんの?
 俺、生き物に対してはまだ攻撃するのに遠慮があんのかな。それか幽霊ばっか相手にしてきたから肉殴るやり方がわかってねぇのかもしれない。

 ただ、顔真っ赤にして俺を睨み付けてくる元親父の必死さはなかなか面白かった。
 元気そうだが、立てないのだろう。冷蔵庫にすがりついているが、足がブルブル震えている。

「俺に言うこと聞かせたいなら、まずクソ宗教から足洗えよマヌケ」

 床に落ちた靴べらを蹴り飛ばし、生まれたての子鹿よりおぼつかないおっさんの膝を蹴り飛ばす。
 元親父が再び倒れ、消しゴムハンコスマイルどもが悲鳴をあげた。
 
 その隙に、俺は自分の全財産をつめこんだボストンバックを持って家を飛び出したのだった。

 ◇

  少し湿気た空気の中を自分でも分かるくらいの不機嫌顔で歩いていく。小雨が降っていたが折りたたみ傘を出すような気にはなれなかった。

(クソ……まだ背中が痺れてやがる……!)
 
 朝から散々な目に遭った。元父親による折檻ショーは週に何度かある事ではあるが、今朝は特に背中が痺れる。殴り返してやったし回し蹴りも叩き込んでやったが、俺の気は一向に晴れる事はなかった。ああ腹が立つ。
 俺は腹立ち紛れに早足になり、舌打ちをしながら通学路を歩いた。自分でも解っている。こういう態度を外に出すから友人と呼べるような存在がほとんど居ないのだ。
 近所で俺の家は『変な宗教をやっている家』として有名だった。なぜなら俺の家には大量に人間が出入りし、勝手に居住し、街中で行われる勧誘活動の拠点なんかにまでなっているからだ。クソが。
 中学時代、同級生の大半が俺を腫れ物のように扱い、関わりを避けた。当たり前だ。誰だってそんなヤバい家の奴とは関わりたく無い。親しくなれそうだった同級生の家にクソ宗教が勧誘に行ったおかげで一瞬で疎遠になりました、なんてのは中一のときだけで軽く五回はあった。
 そんなんだからもう諦めた。あの家の住人が解散でもしない限り、俺に友人は一生できない。一生友達できなくてもいいからさっさと解散しろバーカ。
 朝から最高レベルでイラついている俺の背中から、最近よく聞く声が追いかけてきた。

「神田先輩〜! おっはようございびゃあああぁあぁ」

 元気な悲鳴が通学路に響いた。なんなんだアイツは……。振り返ると最近何故だかやたらと懐いてくる後輩、上野恭介うえのきょうすけが半泣きで走ってくる。

「うおああああ先輩大丈夫ですかあああ!? 背中、背中から血ィ出てますよお!?」
「はぁ!? マジで!?」

 マジで!?
 どの程度か確認しようにも背中だから見えない。そういえばさっき靴べらで叩かれたとき床に血が飛んでいるのを見た気がする。あのクソ野郎が……!!
 息を切らせて追いついてきた上野は心の底から心配そうな顔をしている。

「もももしかしてとうとう抗争帰りですかあ? どこの組です? わぶッ」

 アホの上野に一発ビンタをお見舞いしてやり、「親父と喧嘩になっただけだ」とだけ答えた。まあ、嘘は言っていない。
 上野は「あら~」と言ってからニコニコと笑う。コイツは初対面以降、何故だかいつ会っても話してもご機嫌で人懐こい笑みを浮かべながら話す。家にいるクソの消しゴムハンコスマイル共に見習わせたいような能天気笑顔だ。おそらくクアッカワラビーの親戚かなんかに違いない。

「先輩もそんなことあるんですねぇ。お父さん早めに退院できるといいですね! ぶまッ」

 何故か俺が父親を病院送りにしたことになっているので無言でもう一発ビンタをお見舞いし、俺はまた通学路を歩き始めた。
 血が付いているなら急いで処理しないといけない。時間が経つ程取れなくなると聞いたことがある。
 上野はちょろちょろと俺の後ろからついてきた。

「先輩先輩! 学校着いたら保健室いきましょ! 汚れたって言えばワイシャツ貸してもらえますよ! 先生優しいから返すのはいつでも良いって言ってくれるんですよ〜」

 へえ、知らなかった。保健室なんて入学してから一度も入ったことがないかもしれない。下手したら場所すらうろ覚えだ。
 
「へぇ……じゃあ行ってみるかな。なんでお前そんな事知ってんだよ。入学してまだ二か月のくせに」

 上野は相変わらずにこにこ笑いながらえへへと頭を掻いた。

「秋葉部長が教えてくれたんです。オカ部の案件調査で水道を調べていたら真っ赤なサビ水を浴びてしまいまして……へへ」

 出たなオカ部。
 入って二ヶ月でそんなバカバカしい目に遭う部活の正式名称はオカルト同好会部という。怪奇現象に関する匿名の投書等を受け付けて調査したりしている物好きな部活だ。
 オカルト同好会部の現部長である秋葉千晴あきばちはる先輩は校内トップの成績を誇る秀才だ。上野はともかく、秋葉先輩がなんでそんな怪しげな部活に所属しているのかよくわからない。

(それにしても血か……。今日はとことんツイてねぇな……)

 ワイシャツの被害状況が気になるなか、俺と上野は校門にたどり着いた。


 
 
 学校に着いて校舎内に入ると、上野が「こっちこっち〜こっちです〜」と保健室への道のりを先導した。森で妖怪にでも会った気分だ。

「先生〜、おはようございまーす! ワイシャツ貸してくださーい!! 汚しちゃいましたぁー!」

 朝から元気ハツラツな上野を見て、保健室の先生も「あらあら」と笑いながらワイシャツの貸与を快諾してくれた。得な性格だな。
 職員室に用があるという先生を見送った上野は、衛生用品の入った棚からガーゼとキズ薬を勝手に持ち出してきて駆け寄ってくる。

「はいはい先輩! 貼りますよ! 早く早く!」
「急かすなよ……。いっってぇ! 上野お前、消毒かけすぎ!!」

 上野は俺の文句を聞いても知らん顔で適当に返事をし、背中にガーゼを貼り付けた。前から思っていたが、こいつは実は先輩に対して案外遠慮がない。
 俺は背中のヒリヒリした痛みに耐えながら脱いだワイシャツのシミを見た。結構大きめの赤黒いシミが目立つ。全部あの野良犬クソ野郎のせいだ。

(ワイシャツ一着ダメにしちまった……。じいちゃんとばあちゃんが買ってくれたのに……。こんなシミ自力で消せんのか……?)

 俺がワイシャツを見て凹んでいると後ろから「先輩」と声をかけられる。振り返ると上野がこちらを見ていた。
 珍しいことに真顔だ。目にもいつもの穏やかさがなく、むしろ鋭い目つきとすら感じた。そして、いつもご機嫌で能天気な上野にしてはえらく静かな声だった。

 ――もしかして怒ってんのか?コイツ……。

 俺が今まで見たことのない雰囲気に動揺していると、上野は静かに口を開いた。

「先輩。傷を見るまで黙っていましたが、相手がいくら成人男性でもたまたま起きた殴り合いではそんな血の出方はしません」

 上野の顔は相変わらず真顔のまま、静かに俺の方を指差した。
 
「先輩の背中、皮がズルっといっちゃってます。超痛そうです。見たところ顔も一発殴られてます。しかもいずれも拳ではありませんよね? 顔は腫れ痕が長方形ですし、背中はどう考えても拳で殴って出来るキズじゃないです」

「……なんかに取り憑かれたのか上野……?」

 驚きすぎてこの言葉しか出てこなかった。
 こいつってこんな感じだったっけ? なんかもっとお気楽なバカっぽい奴じゃなかったか?
 動揺しきった俺が絞り出した回答が気に入らなかったらしい上野は眉を顰めてこちらを軽く睨んできた。

「失礼ですね違います。こんなの誰が見たって解る不自然さですよ。神田先輩。お家の事情が大変なのかもしれませんが、その傷はもうとっくに暴行の範囲です。警察には相談しましたか?」

 まあ、そうなるよな。
 俺だってこんなのは異常だって解っている。
 俺ははぐらかそうとするのをやめて上野の質問に答えた。

「……したよ。でも警察はロクに相手してくれねえよ。小学生とかならまだ取り合ってくれたかもしれねえが中坊のときだったからな。何言ったって反抗期で親とケンカになって行き過ぎたくらいにしか思われなかった」

 近所の交番に駆け込んだときのことを思い出すと胃が痛くなる。父親のフリをした何かが警察官に頭を下げていて、当の警察官は俺の方を見て、目に見えて面倒くさそうな顔をしていた。
 物分かりの悪いガキである俺が折れないから他の人間に迷惑がかかっているという当てつけがましい雰囲気は、『警察なら助けてくれるだろう』と期待していた俺の心を折るには十分な材料だった。

「中学生……そんな前から……だったんですね。なんか様子からして誰にも相談してなさそうだったから保健の先生にも黙っておきましたが、そのままじゃ先輩下手したら死にますよ?」

 初対面で上野に投げかけた台詞が二か月経って俺の方に帰ってきた。
 俺は正直、上野を侮っていた。
 上野相手なら流血してるのなんかいくらでもはぐらかせるだろうとたかを括っていたのでここまで理詰めで来られると思わなかった。しかも遠慮がないのが影響してか、普通の人間が踏み込むの躊躇する領域まで平気で踏み込んでくる。
 上野は黙っている俺をずっと見ていたが、やがて口を開いた。

「先輩、多分ですけどただの暴力的な親御さんってだけじゃないでしょ? よかったら僕にお話してくれませんか?」

 上野は俺を本気で心配しているようだった。そしてやはり何かに対して怒っているようだった。

「お前に何話すってんだよ。俺が親父に殴られた話なんか聞いたってどうしようもねえだろ」

「確かに僕に話したって何も変わらないかもしれないです。何もできないかもしれないですが、僕にできることがあるならなんでもしたいんです!」
「できることなんかねぇよ! お前になんか出来るんだったら俺一人でもなんとかしてる!」

 ついデカい声を出してしまった。ここまで踏み込まれたのは初めてだったから驚いたのかもしれない。それか家で腹を立てながら話の通じないケダモノをやり過ごすより難しい事が久しぶりに起きたから怖かったのかもしれない。
 俺のデカい声にも怯まず上野は真剣な表情で続けた。

「僕が今楽しく過ごせているのは先輩が危険を顧みず助けてくれたからです。だから先輩にも楽しく過ごせるようになって欲しいんです。もう夢に見るような後悔をしたくないんです……だから……!」

 上野は必死に俺を説得しようとしてくる。
 こんなに真剣な上野は初めて見た。こいつは自分の命に危険が及んでいるときすらここまで必死ではなかったような気がする。
 こいつは引っ越してきたばかりだし、学年も下だから俺んちが近所で有名な『変な宗教やってる家』だって知らないのだろう。もしかしたら知恵を合わせれば俺の生活をどうにか打開できるかもしれないと思っているのかもしれない。本気で心配してくれるのはありがたいが、おそらくお互い嫌な気分になって終わるだけだ。できればやめた方が良い。
 ただ、このまま言い合っていてもおそらく埒が開かないのでここは一旦折れることにしよう。

「そんなに言うならわかったよ。今度会ったときにでも話してやる。ただ、あんま気持ちの良い話じゃねえぞ」

 上野はパッと表情を明るくしてデカい声で「ありがとうございます!」と言った。何が嬉しいのかよくわからない。
 荷物をまとめて保健室からでる。
 互いの教室に向かう別れ際、上野が「あっそうだ」っと言って満面の笑みで振り返った。

「神田先輩、大丈夫です! ご家族の頭上から石をぶつけて殺したりはしませんから安心してお話してくださいね!」

「……笑えねえ冗談だな……」

 上野に冗談を言っている雰囲気はなかったが、俺は深く考えないようにして足早に教室へ向かった。

 ◇

 「こんにちは神田先輩! 今朝ぶりですね!!」

 放課後になり、またゲーセンにでも行くかと考えていた俺の前に上野が現れた。朝の約束通り俺の話を聞きにきたらしい。

「お前部活いいのか……? 生き甲斐なのに」
「僕の生き甲斐は部活じゃなくてオカルトです」

 キッパリと言い切った上野は上級生のクラスに遠慮なく入ってきて当然のように俺の前の席に座った。まだ教室にはまばらに人がいるのに気にせず入ってきて気にせず座る根性に驚く。普通もっと萎縮するだろ。
 通学に使っているらしいリュックを置いて一息ついた上野は、呆然としていた俺に人差し指をつきつけた。

「それにこの状況は神田先輩風に言うなら『うるせぇテメェをゲロらせる方が先だ』ってやつです! さあさっさと存分にゲロりやがれ! ください!」
 
「好き放題訳わかんねえ事言いやがって……!」

 おかしな敬語と共に詰め寄ってくる上野に負けて、俺は荷物を下ろして自分の席に座り直した。

「あ、おやつ置いておきますね〜」

 上野は緊張感のカケラもない声でリュックから駄菓子を山ほどと、自販機で買ってきたであろう飲み物を取り出す。
 万年腹減り状態の俺は、見たこともない駄菓子の山に少しテンションが上がってしまったが決して顔には出さないように努めた。なんとなく先輩としてカッコがつかないからだ。
 上野がにこにこ笑いながら「これどーぞ!」と差し出してきた紙パックの飲み物と駄菓子を、礼を言ってから受け取る。変に準備が良いんだよなコイツ……。
 他に誰もいなくなった教室で、自分の紙パックにストローを刺したあとに他の駄菓子を開封して準備を整えている上野を見て俺はとうとう諦めがついた。

(はぐらかしてもしょうがねえ……。黙っててもそのうち解る事だもんな)

 俺は俺について、最近懐いてくる後輩に洗いざらいぶちまけてみる事にした。
 他人に自分の口から全部話すのは初めてだから、なんだか少し緊張するが、これであの家に帰る時間を遅らせることもできるしまあ良いだろう。

 もしこれを話した事で上野がドン引きして疎遠になってしまっても、まあ、構わない。元に戻るだけだから。
 俺は自分に言い聞かせながら、口を開いた。

 ◇
 

  ――姉ちゃんが難病にかかっている事が判明したのは、俺が小学校に上がってすぐの事だ。
 
 姉ちゃんは俺より五個上だからあの時は十一歳くらいだったのか? あんま覚えてねえけど。
 病気の内容についてはよく知らねえ。両親は五歳だか六歳だった俺に姉ちゃんの病気の話をしたがらなかったから。
 姉ちゃんも両親も毎週のように色んな病院に行ってみてはお通夜みたいな顔して帰ってきてたな。
 そのうち姉ちゃんは入院した。手術が決まったとかならよかったんだが、精密検査で良くねえもんが見つかったらしい。
 両親は毎日病院と自宅と職場を行ったり来たりして疲労困憊。俺はじいちゃんばあちゃんの家に預けられることが増えていった。
 それでも 姉ちゃんにばっかり構ってごめん とか言いながら両親がたまの休みにどこか遊びに連れて行ってくれたりしたのが子供心にすごく申し訳なかったのをよく覚えてる。げっそりした顔してるくせに無理矢理楽しそうに振る舞う両親に少しでも休んでほしいと思ったよ。
 そんな生活が寂しくなかったと言ったら嘘になるが、俺も姉ちゃんも両親に寂しいなんて言える雰囲気じゃなかった。それだけ俺の両親は毎日死ぬ勢いで走り回ってた。
 俺も姉ちゃんも両親も、普通の生活に戻るって同じ目標に向かって走ってんのに、自分ばっかりつらいとか寂しいとか言えるわけねえ。
 だからあの頃の俺はなんか陰気だった。何が信じらんねえんだよぶっ飛ばすぞクソ上野。
 陰気だったから幽霊にやたら付け回されてな。あ、まあいいかこの話は。すまねえ話が逸れた。あ? いいんだよ! 先進まねえだろ!? あぁ? そうだよ! センセイに会ったのは小四のときだ。そっから一年間は修行してもらってた。まあ……その間は、なんか、楽しかった。自分を変えられる気がしてな。
 俺がそんな風に遊んでる間にも姉ちゃんの病状は一向に良くならなかった。
 
 それでとうとう、姉ちゃんは余命宣告されちまったんだ。俺が小六のときだったな。確か。
 俺はその頃も自宅とじいちゃんばあちゃんちを行ったり来たりしてたんだが、自宅に帰ると毎日毎日母さんが泣いてた。父さんも塞ぎ込んでてな。でも俺がいるときは無理に明るく振る舞うんだ。別にいいのによ。
 なんもしてない俺が言えた義理じゃないのは承知の上なんだが、両親はもう十分よくやったと思ったよ。家族でやれるだけは全部やったんだ。病気ならもうしょうがねえじゃねえか。そう言いたかった。絶対言える雰囲気じゃなかったけどな。
 でも父さんも母さんも強いから、ここまで戦ってこられるほど強い人だったからきっとそのうち前を向けるだろうって思って毎日を過ごしてた。

 
――そしたらある日突然、全てが狂った。

 
 俺がいつものように学校が終わってからじいちゃんばあちゃんの家に居た日のことだ。
 まだ仕事をしてる時間の筈の両親が、満面の笑みでじいちゃんばあちゃんちにやってきたんだ。
 俺もじいちゃんもばあちゃんも何が起きたのか全く理解出来ずに固まってたら、両親が姉ちゃんの病気を治す方法が見つかったって大喜びしてんだ。
 こんなこと言いたかねえけど、ありえねえだろって俺は思ったよ。余命宣告だぜ? そんな簡単に覆る訳ねえだろってな。
 多分、じいちゃんばあちゃんも同じ事を考えたんだろう。俺を別室に行かせて両親と居間で話し始めた。案の定、聞き耳を立てる間も無いくらいすぐにキツめの言い争いになった。
 じいちゃんばあちゃんは「胡散臭い」だの「騙されてる」だのって怒鳴っててな。両親はそれに対して「数値は良くなってる」だの「あの子もこれでようやく治ると喜んでいる」だのって怒鳴り返してんだ。最後なんか感情論じゃねえか。どう考えてもヤバい。
 話し合いというか怒鳴り合いは思ったよりすぐに終結した。まず話が通じねえと話し合いはできねえからな。両者ともに時間の無駄だって思ったんだろうぜ。
 俺が聞き耳を立てるかどうかたじろいでたら、襖が引かれて両親が入ってきたんだ。居間から聞こえたばあちゃんの「雅弘に触んな!」 って怒鳴り声にめちゃくちゃびっくりしたよ。ばあちゃんがあんな勢いで怒鳴ってんのはあんときが初めてだったから。

 部屋に入ってきた両親の顔には、知らない笑顔が張り付いてた。口角を無理矢理上げて作ってるみたいな気持ち悪りぃ笑顔だ。あんな顔の両親は見た事なかったから、入ってきたのは良く似た別人だって言われたら信じただろうな。
 両親は二人でおんなじ笑顔を貼り付けてニタニタしながら「おねえちゃんがもうすぐ治るからね。来週お迎えにくるから、そしたらまた家族みんなで暮らそうね」ってまるでもっと小さい子供に言い聞かせるように宣った。
 そんな言葉使いをする人たちじゃなかったからそれもそれで気持ち悪かったんだが、だが俺はそこで選択を間違えた。

 俺はバカになることにしちまったんだ。

 姉ちゃんの病気が治ったら、また普通の生活に戻れる! って目先のゴールに飛びつきたくて仕方がなかったんだ。
 だから、両親のおかしい様子全部に目を瞑って単純に喜ぶことにしたんだ。よかったね! ってよ。
 俺の両親にも言えた事かもしれねえけど、人間おかしくなるときゃ一瞬なのかもな。
 その日から、じいちゃんばあちゃんが毎日のように電話しながら怒鳴ってた。多分というか確実に、相手は俺の両親だ。
 じいちゃんばあちゃんは俺を両親に引き渡さない気だったらしい。ありがてえよな。でも俺はそのときイカれちまってたから、「じいちゃんもばあちゃんも姉ちゃんが治るのが嬉しくないのか?」とか考えてたんだ。我ながらクソだな。あからさまに両親の方がおかしいってどっかで解ってるクセによ。

 一週間後。両親は本当に俺を迎えにきた。
 しかも退院した姉ちゃんを連れてだ。普通の生活って俺の夢見たゴールが目の前に現れたような気分だった。
 じいちゃんばあちゃんは俺を引き渡さまいと最後まで抵抗してくれたが、両親は全く折れないし俺が両親のとこに行きたがったのもあって諦めた。今思い出しても申し訳ねえよ。
 最終的に俺に、じいちゃんばあちゃんちの住所と電話番号が書いてある菓子箱の切れ端を渡してくれた。「もしなんかあったら、電話しろ。逃げてきたってええからな」って言いながら。
 バカになった俺は複雑な心境だった。
 なんで両親とじいちゃんばあちゃんが喧嘩になるのか解らなかったから。両親から逃げるってどういう事なんだってな。
 姉ちゃんはこうして退院してきてる。じゃあそれでいいじゃねえかって思ってた。様子がおかしいって思ってたのを無理矢理無かった事にしてちょっとした思考放棄をした。ぶっ飛ばしてやりてえよ。俺だけど。
 帰る為に一緒に車に乗った姉ちゃんからは、ちょっと変わった臭いがした。病院の臭いかとも思ってそのときは流した。確実に違う臭いだったけどな。
 姉ちゃんが俺に笑いかけながら「マサくん、元気だった?」とか言ってな。アンタに体の心配されんのも変な感じだなって思った、それが家族が俺の名前を呼んだ最後の記憶だ。

 俺の家族は知らない間に新興宗教にハマってた。

 両親が言うのには姉ちゃんの病気もありがたい何かを分けてもらったおかげで治ったらしい。本当かどうかは知らねえけど、あの女は今も生きていやがるから治ったのだけはどうやら本当だ。医者が浮かばれねえな。
 帰った途端に家族が訳わかんねえ事言い始めてビビッたが、この後の方がもっと訳わからん事がどんどん起きて行った。

 まず家族の呼び名が変わった。
 父さんとか、母さんとかじゃなくてな、
 父親はドウホウコジ。
 母親はドウアイダイシ。
 姉貴はドウソウダイシ。
 俺は、ドウシュウコジなんだってよ。
 意味解るか? 俺は五年近く経った今でも解んねえ。解りたくもねえけどな。
 こんなのバカになった俺でも流石に無理だった。いくら理由を聞いても全く納得できないどころか先ず理解もできなかった。
 俺の名前は神田雅弘だ。もうその名前を捨てる事は無理、というか普通にしないだろ。十数年付き合ってきた名前をいきなり変えるとかよ。ただ、あの連中の中では名前を捨てるだけの強大な変化がいつの間にか起きていたらしい。ついていけない俺を置いてけぼりにして当然のように呼び名は変わった。それ以来俺は家の中で名前を呼ばれた事は無い。

 あと最悪だったのが、家に他人が住み着くようになった。知らねえオッさんとかババアとかな。子供から若い姉ちゃんから兄ちゃんまでなんでもアリだ。気持ち悪りぃ。おそらく信者だろうなっていう感じのその連中は、まるで元から家族だったみたいに家に住み着いて生活してんだ。
 しかも俺をそのドウシュウコジとかいう変な名前で呼びやがる。一体誰なんだよそいつはよ。あとついでに言うならお前も誰なんだよって感じだ。
 そいつらキモい事に何があっても必ず真正面から目を合わせて話そうとしてくんだよ。クソが。

 あとは金だな。
 宗教っつったらなんとなく予想つくだろ? 働いた金も貯めてた金も、俺の財布の金も何もかも全部献金しちまいやがった。「ドウソウダイシの命の恩人なのよ!」ってのがお決まり文句だ。命の恩人がいるとしたら医者だろ。馬鹿じゃねえの。
 俺は小遣いを貯めてた貯金箱を隠してたおかげでなんとか中二まではその金で生活してたが、それすらも取られたときは俺と父親で両者流血の大騒ぎになった。警察は相手にしてくれなかったけどな。……ああ。バスケ部辞めたのもその時だ。部費払えねえし。二年になってやっと自分のバスケットシューズ履けることになってよ、貯金使って買いに行こうとしていた矢先だったから、嫌になっちまったんだ。色々。
 
 俺はゴールに飛びつきたいがばかりにバカになったのに、飛びついたゴールは想定していた物と全く逆の物だった。
 俺は家に入り込んできた宗教の全てを断固拒否した。バカでいる場合じゃねえ。無理だ無理。そこまでのバカになってられなかった。そうやって拒否してたら、父親が「喝を入れる」とか言って俺を木でできた靴べらで引っ叩くようになった。今朝の怪我もまあ、ソレだった訳だ。あれで血が出たのは一応、今日が初めてだな。
 あの連中はイカれてやがる。色々話そうと試みて解ったが、言葉が通じねえんだよ。マジで。
 俺も相手も日本語話してる筈なのに、全く話がわかんねえ。
 じいちゃんばあちゃんが逃げて来いって言った意味がやっと解った。
 おう。そりゃあ逃げたよ。中一のときかな。割と早く限界が来てな。そんときは夜だったから、じいちゃんばあちゃんの家に行くのも憚られてなんとなく漫画喫茶に泊まってみた。
 次の日登校しようとして驚いた。朝早くから通学路に信者どもがウロウロしてた。しかも近所の家一軒一軒まわって俺の事聞いてんだよ。もう一回言うけど早朝だぜ!? 信じらんねえ。
 俺の人生で初めて 殺したい より 死にたい が上回った瞬間だった。
 これじゃじいちゃんばあちゃんちになんか到底行けねえ。迷惑かけちまうからな。
 そんな事もあったし、奴らの勧誘活動も活発なせいで俺の家は近所で『変な宗教やってる家』として一躍有名になった。多分二年で俺と同じ中学だった奴はみんな知ってるぞ。気が向いたら後で聞いてみろ。
 な、なんだよ! 怒んなよ! 大丈夫だよ別に同級生に何言われても気にしてねえから! でも下手したらお前の両親だって昔この辺りに住んでたなら知ってるぞきっと。そんくらい有名なんだって。マジで。
 
 ん? ああ、俺を高校に行かせてくれたのも、携帯電話の契約をしてくれたのもじいちゃんだ。じいちゃんばあちゃんはまさか俺が卒業したら祓い屋になるなんて知らねえから、就職するのに高校くらい出とけって金を用意してくれたんだ。
 俺としても、卒業後に自営業になるわけだからな。高校でもうちょっとちゃんと勉強したかったから正直ありがたかった。
 じいちゃんばあちゃんは両親から金を守るのにめちゃくちゃ苦労したみたいだ。金の争奪戦に負けちまった父方の方の実家は心労が祟って二人ともぽっくり逝っちまったのも考えると本当に大変だったろうなと思う。
 ああ。じいちゃんばあちゃんは今でも「なんか足りないものないか?」とか「辛い事ないか? いつでも来いよ」とか電話してきてくれる。
 引っ叩かれてるなんて言えるかよ。「ちょっと変だけど、まあなんとかなってるから大丈夫」くらいにしか伝えてねえ。実際なんとかなってるしな。
 お、おう。なんだよ。何さっきから怒ってんだよらしくねえな。実際なんとかなってるだろ。とりあえず生きてんだから。
 
 とにかく、俺は家族についての考え方を変えることにしたんだ。
 俺の家族はとうの昔に死んだ。父さんも母さんも姉ちゃんももう蘇らねえ。あと生き残ってるのは俺と知らない奴らに蹂躙されまくったあの哀れな家だけだ。
 あの家に住んでるのは、家族によく似たケダモノ共だ。会話は到底できねえ。
 だから俺はこうやって毎日金使わないようにぶらぶらして時間を潰してんだよ。あんな家に帰りたくねえからな。

 
 ◇

 「思ったのより5倍くらいヘビーじゃないですか」

 追加で買ってきた紙パックジュースのストローを噛み潰した上野は、イラついた様子を隠すことなく言い放った。

「聞かないほうが良かったろ?」

 もらったペンシルカルパスを齧りながら半笑いになる俺を見て、上野は気に入らなさそうにフンと鼻を鳴らす。

「いえ! そんなことありません! ちょっと驚いただけですから!」

 上野は俺の胸糞悪い話をずっと真剣な面持ちで聞いていた。部活中のクセなのか何故かメモを取り、時に驚き、時に質問を挟んだりはしていたが、信じていなかったり、茶化したり、引いてしまったりという様子は見受けられなかった。
 初めて自分から他人に事情を話したので、上野の反応が平均的なものなのかがわからない。
 内心緊張していた。いくら強がろうと、何度経験しようと、顔見知りと疎遠になるのは正直傷つくものだ。
 俺が一人で勝手に緊張しているのを知ってか知らずか、上野は机の上に出した大量の駄菓子を俺の方に寄せ始めた。

「ちょっと先輩、そうとなったらいっぱい食べてください」
 
「なんでだよやめろ」

「先輩がお家であんまり食べさせて貰えなくてガリガリになってしまったら落ち込むんで!!」

 上野は俺の鞄に駄菓子を入れながらこちらを真っ直ぐ見た。やはり上野にしては珍しく怒っている。そしてそれを隠そうともせずに一気にぶちまけた。

「大体なんですって!? ドウ……なんですかもう! 意味わかんないです! 宗教なんか別に個人の自由ですけど、どういうつもりで押し付けるんでしょうか! 子供を所有物かなんかだと思ってらっしゃるようで大変胸糞ムカッ腹です! 先輩には申し訳ないですが最悪の方々ですねッ!」

 ここまで怒って声を荒げる上野を見たのは初めてだった。
 それどころか、家の事を知ってドン引きしない奴も初めて、俺の事でここまで怒った奴も初めての初めて尽くしだった。
 こうまでなると逆に俺の方が冷静になってくるくらい上野は今も怒り狂っている。俺はてっきり急によそよそしくなったりするもんだと思っていたから、顔には出さないように努めるが少し嬉しい。
 上野は急に申し訳なさそうな顔になり、俺に頭を下げた。

「先輩、ありがとうございます。辛いのにお話してくれて。無理矢理聞いてしまってすみません」

「いいよ、別に。俺も全部話したら少しはスッとした。心配してくれてありがとな上野」

 言っていて気がついたが、本当に少し心が軽くなった気がする。話すだけで楽になるってよく言うけど本当だったんだな。
 もしかしてこれから、家で嫌なことがあったときに愚痴を言ったりしてもよくなるんだろうか。実はそれだけでもだいぶ嬉しい。実家に異臭が立ち込めているせいで自分の体臭が気になっていることや、知らない人間に無理矢理目を合わせられることがとんでもなくストレスなこと、毎日家にいる他人が入れ替わるのが気持ち悪いことを話しても、いいんだろうか。
 話してもいいなら、話したい。
 あの家の連中から助けてほしいとか、あの宗教を潰そうとか、そんな叶わぬ夢のような話でなくていいから。この愚痴を誰かに聞いてもらって一緒に話せるだけで俺は、高校卒業までをなんとかやり過ごせそうだと思った。
 それくらい、楽になっていた。
 上野の事をお気楽で能天気な奴だと少しバカにしていた気がするのを謝りたいとすら思う。こいつはもしかしたらものすごく良い奴なのかもしれない。
 そんな俺の心情の変化なんか知ったこっちゃない上野は今も荷物を片付けながら腹立ち紛れに俺の鞄に駄菓子を放り込み続けていた。やめろアホ。

「そんなに菓子入れんなアホ上野!! てかお前のリュックどんだけ菓子出てくんだよ!」
 
「お菓子はどれだけあってもいいもんですよ! 夜中とかに食べてください! 明日も放り込みますから! そのおつもりで!」
 
「やめろバカ! どうしてそういう事になったんだお前は!?」

「だって先輩、どうせ家で出されたご飯、美味しくないし食べたくないからってロクに食べないでしょ!? それか、そもそもロクなご飯出されないんでしょ!? お見通しなんですよこっちは! そんな環境で食べる物が美味しいワケないんです! 黙って駄菓子食いやがれですっ!」

 図星過ぎて口ごもった俺を見て上野は勝ち誇ったようにせせら笑うと、机にあった未開封の駄菓子を全て俺の鞄に流し込んだ。
 珍しく俺は、上野に完敗した。

 ◇

 暗くなった通学路を上野と歩いて帰る。
 そろそろ六月になるせいで空気は湿気を帯びていて、帰り道には薄く霧が出ていた。
 帰る道すがらも上野は俺に遠慮なく質問をぶつけてきたので、特に警戒することなく洗いざらい答えた。
 姉はすっかり宗教に馴染んでいて、もう何年も口をきいていないことや、洗濯機から異臭がして嫌なので中学時代のバスケ部のツテで部活棟にある洗濯機を借りて自分の洗濯物を洗っている事等だ。
 上野は「洗濯なら僕の家でもできるんで! 遠慮なく言ってください!」と言ってきてくれたが、上野の家の人に悪いからと断っておいた。
 ぶらぶらと歩いている内に、俺の家の近くまで来てしまった。上野とはここから道が別れる。
 朝はどうなる事かと思ったが、話しづらかった事を自分の言葉で打ち明けられた事で結果的に俺の人生は少しだけ好転したような気がする。
 意固地になる俺から無理矢理にでも話を聞き出してくれた上野に、俺は結構本気で感謝していた。 
 俺が今日の事について礼を言おうと口を開いたのと同時に、青白い街灯の下で上野はこちらに振り返る。
 いつもの人懐こい笑みとはまた違う、かといってあのクソ宗教連中のわざとらしい作り物のような笑顔とも違う、考えや感情の読めない静かな笑みを浮かべてた。
 
 
「ねぇ、先輩? どうやってその宗教潰します?」

「…………………………へ?」

 突然後輩から投げかけられた『叶わぬ夢のような話』は、俺が欲しくてたまらなかったゴールのようにも、人ならざる者の手招きのようにも思えた。

 俺はもしかしたら、ヤバい奴に事情を話してしまったのかもしれない。

 ◇

  いつも寄り道して時間を潰し、早くても午後八時以降に帰宅しているのにも関わらず今日は早めに家に着いてしまった。
 時刻はまだ午後六時半。これでは家に住み着くケダモノ共と鉢合わせる機会が増えてしまう。しかし俺はなんとなく寄り道をしに出かけていく気になれなかった。
 上野のあの言葉があったからだ。

(あいつ……本気だった。本気でこの宗教を潰す算段を立てようとしていた……)

 俺はあの後、情けないことに上野のあの発言を冗談として流すことしかできなかった。感情と考えがまるでついていかなかったから。
 俺だってできる事ならこんな生活からは抜け出したいが、それはどう考えても高校生が二人でなんとかできる事ではない。かといって上野が馬鹿だから軽率に発言したと切り捨てることもできなかった。
 上野の目は本気だった。もしあのまま俺がその提案に乗っていれば、あいつは本気で何でもする気だったに違いない。そう確信できるだけの迫力が、あの目にはあった。別れ際の上野の「冗談じゃないんだけどな」とでも言いたげな表情が頭から離れないまま、俺は玄関のドアを開けた。

「臭ェ……」

 ついさっきまでの悩みが頭から吹っ飛んでいくほどの異臭。玄関を開けた途端、籠っていた臭気が外に逃げ出すように吹き抜けて俺に纏わりついた。
 絶対朝より臭くなってる。
 玄関で靴を脱いで洗面台で手を洗うものの、洗面台にもこの異臭が立ち込めていて吐き気がする。備えつけてあるタオルは使いたくない。俺は自分の鞄からタオルを引っ張り出して手を拭いた。逃げるように自室に行き、鍵を開ける。荷物を置くためにドアを開けてみて安心した。部屋は臭くない。

(今日は風呂だけ済ませて部屋にこもるか……)

 こんな臭いのなかで何か食うのは無理だ。
 どこで何をしたのか知らないが、経験上この臭いはあのクソ野郎共からも臭っている。リビングなんかもっとすごい臭いがするに違いない。宗教連中とも鉢合わせたくないしちょうどいい。まさかさっき話してからすぐに上野に入れられた駄菓子に頼ることになるとは思わなかったが、さっそく世話になることにしよう。
 俺は荷物を置いた後バスタオルと入浴用品の入った袋を持ち、部屋に鍵をかけてから風呂場に向かった。

「ゔぇっ……」

 風呂場は家中の臭気を集めたような臭いが漂っていた。あいつらなんでこんな環境で生活できんの? イカレてんの? そういやイカレてるわ。
 獣臭とアンモニア臭と汚物臭をせんぶぶち込んでぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな最悪の臭い。
 湯舟は無理だ。キモ過ぎる。
 俺はシャワーを浴びて念入りに頭と体を洗った。自分からもこんな臭いがしたら嫌だから。この臭いの発生源が全く分からない以上ずっと安心できない。昔からそうだった。俺はこの家が他人に蹂躙され始めたときから、姉からこの臭いがしたときからずっと、この臭いに怯えて生きている。
 気持ち悪い。最悪の家だ。
 一瞬上野の言葉とあの目が頭を掠めたが、やはり考えがまとまることはなく、俺はシャワーを止めて風呂を出た。

「何だコレ……」

 風呂を出てすぐ、俺の着替えの上に白いものが置いてあるのが目に入った。バスタオルで顔と体を拭いてから恐る恐る白いものを広げてみると、それは装束だった。
 おそらくクソッタレ宗教カス共が置いたに違いない。勝手に入ってきやがって死ね。

(ぜってぇ着ねえ)

 どうやって着るのか知らないが、とにかく触りたくもない。俺は装束をぐしゃぐしゃに丸めて放置した。
 イライラしながら部屋着に着替え、自分の洗濯物を持って脱衣所から出ると、脱衣所のすぐ外に人が立っていた。

――姉。

 今日上野に話したばかりの、五つ離れた姉。余命宣告されて、宗教に狂ってしまった姉。同じ家に住んではいたもののもう何年も話していなかった姉と、俺は久しぶりに目を合わせてしまった。俺と目が合った姉は意外なことに、作り物のようでも貼り付けたようでもない自然な笑顔で微笑みかけてきた。

「おかえりドウシュウコジ。白い装束は気に入らなかった? 今日はね、お祝いご飯だから綺麗な服で食べて欲しかったんだけど……いまからでも着替えてもらえないかな? ご飯も私が頑張って作ったんだ」

 思ったよりマトモな文章を喋っている事に動揺する。
 なんだ? 何が目的なんだ? 何故俺に話しかけてきた?
 疑問は尽きないがここで動揺を悟られたくなかった俺は冷静を装って言い返した。

「変な名前で呼ぶなっつってんだろ。あんな服だれが着るか気色悪りぃ」

 突然話しかけてきた元家族の姉は「……そ、そっか。ごめんね」と呟いて下に俯いてしまった。
 俺が悪いみたいじゃねえか。人間じゃねえクセに変なマネすんじゃねえ、と言ってやりたいのを飲み込んだ。
 強気に来る相手にはなんでもいくらでも言えるが、こうもしおらしくされてしまうと好き放題言いづらい。
 姉は俯いていた顔を上げて潤んだ瞳で俺を見つめた。

「じゃあ、じゃあご飯だけは食べてほしいの。いつも人が作ったもの食べようとしないでしょ? でも今日は私、頑張って作ったの。みんなに食べて貰いたくて……。味がどうか気になるから……お願い」

 段々と声は小さくなり、また顔を俯けてしまう。こんなのどうやって断れってんだよ。
 
(これに文句言ったり、怒鳴ったり断ったりしたら俺だけがとんでもねぇ我儘言ってるみたいになるじゃねえか……!)

 卑怯な言い回ししやがってと思う反面、別に飯を食うだけならいいんじゃないか? という気持ちも芽生える。
 家に宗教という化け物が入り込んできてから今までの間、ずっと気を張り続けて全てを拒否して生きてきたからどうしていいのか解らない。ぐるぐる悩んでる間にも姉はこちらを見つめてきている。
 息が詰まるようなその空気に負けて、俺はため息をついた。

「解ったよ……」

 小さく呟いた途端姉の表情がパッと明るくなり、「ありがとう!」と言いながら俺の手を両手で握ってきた。
 思わず声が出るんじゃないかと思う程驚いてしまったが、なんとか堪える。
 姉は依然として俺の手を両手で握ったまま、キョロキョロと辺りを見回す。誰も来ない事を確認しているような動作を終えた姉は、今度はこちらにもっと身を寄せてから俺にヒソヒソと耳打ちをしてきた。

「あのね、マサくん。わたしね、今度お嫁にいくことになっちゃった。じゃらくさま……あ、あの、教祖さまのことなんだけどね。じゃらくさまにお嫁に貰われちゃうの。マサくん、あのね。あのね……」

 姉は話しながらだんだんしゃくり上げていき、声には涙が滲んでいる。何が起きているのか、どうすればいいのかまるで解らなくフリーズしてしまった俺は言葉もかけられないまま、姉を見ていることしかできない。
 耳打ちをやめてこちらに向き直り、俺を真っ直ぐ見つめた姉の目は真っ赤になって涙を流していた。

「あのね、マサくん。助けてほしいの」

 ◇

  姉が突然話しかけてきたことで俺の内心は大パニックになっていた。
 助けてくれ? 助けてくれだって? それは紛れもなく俺の台詞じゃないのか? それとも、この女も……姉ちゃんも、ずっとこんな生活が嫌だったんだろうか。ずっと馴染んでいたように見えたから気がつけなかっただけで。宗教に染まれなくて苦しんでいたのは、姉ちゃんも一緒だったんだろうか。
 俺がどういう事か問い詰めようとした途端、リビングから「ドウソウダイシー、どこー?」とケダモノの呼ぶ声が響いた。姉はそれを聞いて「はぁーい」と返事をすると、いきなり俺を抱きしめる。
 今度こそ耐え切れずに「ぅぇえっ……!?」という間抜けな声を出してしまった俺に、姉はまたもや耳打ちしてきた。

「後でお手紙をお部屋に入れておくから読んでね」

 それだけ言うと、リビングの方にぱたぱたと走っていってしまった。

――なんだ? なんだったんだ? 何が起きている?

 全く状況が掴めない俺は、しばらく一人で廊下に立ち尽くしてしまった。
 姉からは、やはりあの時と同じ臭いがしていた。

 頭の整理はまだつかないがずっと突っ立っている訳にもいかないので、リビングに向かった。手早く飯を済ませてさっさと部屋に帰ろう。考えないといけないことが山ほどある。

 リビングは予想通り異臭に包まれていた。こいつらはこんな異臭のなかで飯が食えたんだろうか。それとも嗅覚が死んでいるんだろうか。
 ふと見ると今朝見た他人がまた新たな他人に入れ替わっていた。今朝見たシャイニング小学生と中年ババアが居なくなり、代わりに中年オヤジ三人と二〇代くらいの陰気そうな女が二人増えていた。そこにプラスして元両親と先程の姉なのでリビングの密度はとんでもないことになっている。
 そんな人数でテレビに映った他愛もないバラエティー番組を見て全員で笑っていた。今朝方俺が大暴れした事なんか何も無かったみたいだ。
 気色悪くて仕方がないが幸い食卓テーブルには誰もいなかったので、俺のものと思しき食事が置いてある席につく。食卓には赤身の刺身、つみれ汁、茶碗蒸し、蒸した肉を添えたサラダがおいてある。見栄えは普通に綺麗だった。あの人料理できたんだな。

(部屋の臭いが酷すぎて飯の匂いがわかんねえな……)

 ふと見ると姉がもじもじしながら恥ずかしそうにこちらを見ていた。

(分かったよ……。食えばいいんだろ食えば……)

 俺はため息を吐いてから箸を持って姉が頑張って作ったらしい食事に手をつけはじめた。
 最初につみれ汁から食べてみたが、汁からして少し変な臭いがした。味は悪くないんだが、鼻から抜ける臭いがなんとも臭い。

(サカナの臭み……なのか? コレ……)

 団子の方はというとボソボソしていて口当たりが悪い。そしてやはり臭かった。とても正直に言っても良いのならもう率直にマズかった。噛むのがつらい。とにかく臭くてたまらない。つみれ一個と汁一口を無理矢理水で飲み下してから別の料理に移る。これ以上は好き嫌いのある幼児のように料理と睨めっこを始めてしまいそうだ。
 今度は刺身を見てみる。

(これ魚じゃねえよなあ……多分。でもわかんねぇなあ……。魚って、刺身ってこんなんだったっけ?)

 自慢じゃないがもう何年も刺身なんて食べていない。なんだったら見た目すらうろ覚えだ。自慢してやりたいくらいだが。だから今目の前にある物が魚肉なのか牛肉なのかすらよくわからない。鶏肉ではなさそうだな。それは解る。

(豚肉って生はダメなんだっけ……?)

 不安の末に出てきた知識すらうろ覚えの状態だが、意を決して何かの刺身に醤油をつけてからかじってみた。

(めちゃくちゃ血! しかも臭ェ!)

 自慢じゃないが俺はよく聞くジビエなんかも一切食ったことはない。ただこの刺身を食べると、またもやよく聞く「ジビエって下処理が命だから。そこ下手クソだと臭いとか血の味とかで不味くなっちゃうの」って言うのは真実だったんだなと解る。これが何の肉かは解らないままだが、下手クソなジビエがどんな味になるかだけは解ってしまった。こりゃあクソ不味い。
 噛む度に鳥肌が立つような強い血の味を誤魔化す為にまた大量の水を飲んでから白米をかっこんだ。一刻も早くこの味を口から消し去らないと鬱になりそうだった。

(何の肉なんだコレ……。馬肉とかか?)

 当たったりして具合悪くなったら嫌だな……。
 それにしても何を考えて夕食にジビエを用意してみたんだあの女は。どこから仕入れたんだコレ……。しかも不味いぞ。大丈夫か。
 おい姉ちゃんチラチラこっち見てる場合じゃねえよ飯がめちゃくちゃ不味いよ。誰か何か言ってやれよ。俺には言えないけど。これで本当に嫁入りできんのか……? 等と最近の風潮だったら何者かに怒られそうな事まで考えてしまう。それとも料理はじゃらくさまとやらがしてくれるんだろうか。知らんけど。
 今度は鎮座する茶碗蒸しを睨みつける。
 いや、コレは大丈夫だろ。だって卵だぜ。卵だよね? 確か。茶碗についた蓋を取ってみて既に嫌な予感がする。

(なんかこう……くすんでるな……。色合いが……)

 スプーンで掬って口にいれて悶絶した。不味ッッッ! 何コレめちゃくちゃ不味い! 臭みは他に比べてあまり無いが、苦味とかエグみとかがとにかく凄い。

(茶碗蒸しって卵じゃねェのか!?)

 一般的なレシピは知らないがとにかくコレは卵じゃねえ。俺はまた頼みの綱である水と白米を大量にかっこんだ。
 これまで色々あったが、飯を食うのにこんなに疲れたのは始めてだ。上野とファストフード店でこっくりさんに嫌がらせした時より疲れた。あの時は飯美味かったからかな。
 俺は数分の間この料理たちを睨んでいたが、これ以上食いたくないがばかりに姉がテレビを見ている隙を狙って残った飯を近くにあったビニール袋にこっそり捨ててしまった。だって無理だこんなの。
 
(食いもん捨てるなんてプライドに反する……。でもこんなん食えねえよ……。飲み込めねえし……)

 全て食えと言われたら絶対無理だが、まだ食べられるものを捨てるのは罪悪感がある。しかも曲がりなりにも他人が「頑張って作った」と明言したものだ。
 情けないやら申し訳ないやら、多方面からメンタルダメージを負った俺はふらふらとリビングを後にした。
 このしんどさもこの臭いも、もう限界だ。早く部屋に帰りたくて堪らなかった。

 ◇

 部屋に帰ってきても考え事をする気にもなれず、上野に貰った菓子を摘もうにも先程捨ててしまった料理が頭につっかえてしまい、何もできないまま転がっていると部屋にノックの音が響いた。
 警戒しながらドアの前に行こうとしたところで、ドアの下からピンク色の封筒が滑り込んでくる。

(手紙……。さっき言ってたやつか……)

 拾い上げて封を開けると、中には数枚の便箋が入っていてびっしりと綺麗な字が並んでいた。

『マサくんへ
 お手紙読んでくれてありがとう。
 ずっとひとりぼっちにしちゃってた事、本当にごめんね。それでも手紙を読んでくれるなんてマサくんは本当に優しいね。ありがとう。
 私、つい最近までじゃらくさまの教えは正しいって思い込んでた。この教えのおかげで私の病気が治ったって。でも他にも身体の具合の悪い信者さんはたくさん居て、みんなたくさんお布施をしても助からない人は死んでいく。
 私は運が良いだけだったんだって気づいた。私は不治の病が治ったからっていうことで他の信者さんの希望のように扱われていて、それが私には騙してるみたいで辛くて辛くてたまらない。
 お父さんは私が広告塔みたいなったのを良い事に、私をじゃらくさまにお嫁に出すことで幹部になろうとしている。
 幹部になるとお金が入るようになるからって。
 お父さんは、マサくんも結婚させようとしてるみたい。私もお嫁に行ってこれ以上に人を騙すのに加担するのなんか嫌。
 そこでマサくんにお願いがあります。
 明日、午後五時から本部でじゃらくさまと幹部たちの集会があります。この集会の様子をマサくんには動画に残してほしいの。動画に残して、外部の生き証人になってほしい。
 そしたらこの教団はもう終わり。
 集会の準備は信者全員でやらないといけないし、私はもうじゃらくさまのお嫁だからいなくなったら探されちゃう。これは外部の人にしか頼めないの。
 これまで散々マサくんをひとりぼっちにしておいて、ムシがいいことはわかってます。これで全部終わりにしたいの。
 私と一緒にこの教団を潰しましょう。
 ただ、お父さんとお母さんはもしかしたら逮捕とかされちゃうかもしれない。それだけのことをしてしまったから。
 お返事はいらないです。
 マサくん、協力してくれる気になったら明日の四時までに本部にきてください。本部の住所は下に書いておきます。
 p.s.お料理食べてくれてありがとう。嬉しかったよ! 神田 翠より』

 神田翠かんだすい
 久しぶりに目にした姉の本当の名前だ。
 あのふざけた名前ではなく本名を署名することで俺からの印象を良くしようとか考えているんだろうか。
 今までの人生が俺を疑り深くする。
 しかしこんな手紙を書いて別の場所に呼び出してまで俺を騙すことはこの女に一体どんなメリットがあるのだろう。
 それとも。それとも、本気なんだろうか。
 本気で俺と、このクソ宗教を潰す気なんだろうか。
 それにしてもまさか一日の内に二度も、夢にまで見た『この宗教を潰そう』という提案をされるとは思わなかった。内部告発の姉に持ちかけられた方が確かに現実味があるが、集会とやらの内容も書かれていないし、いまいち信用はできない。
 奴ら集会で何をするんだ? 動画に納めれば終わるような事……。クスリかなんかだろうか。
 今日突然話しかけてきた姉を本当に信じていいんだろうか。乗るべきか、流すべきか。
 俺が頭を悩ませていると、また部屋にノックが響いた。

(なんなんだ今日は……。もう想定外の事は勘弁してくれ……)

 いつもだったら完璧に無視するが、もしかしたら姉がまた何か伝えにきたのかもしれない。俺がドアを開けようか開けまいか悩んでいると、外からか細い女の声がしてきた。

「こんばんはドウシュウコジ。お世話させてください」

 姉の声ではない。
 
「……は?」

 何言ってんだコイツ。意味が分からず固まる俺の脳内に姉の手紙にあった文言が掠める。

――お父さんは、マサくんも結婚させようとしてるみたい。

「お世話させてください」
「うるせぇな! 帰れ! 気色悪りぃ!」

 怒鳴っても尚、女は部屋の前にいるようだった。
 今までこんな事は無かったのを考えると、おそらくそういうことなのだろう。こんなクソ宗教の人間と結婚なんか絶対したくない。しかも俺がまだ在学中なのにそんな事目論んでるのかあのクソケダモノ野郎は。まさか俺を中退させる魂胆でもあるんだろうか。

「お世話させてください」
 
 姉の手紙に戻る。
 もし本当に潰せるのならばどうにか逃げる算段をしなくてもいいし、生活も改善する。

「お世話させてください」
 
(潰せるのか……? 本当に。俺の生活は……変わるのか?)

 潰せるならそりゃあ俺だって潰したい。
 内部告発の姉を信じて組むか、手紙の内容を利用して本気らしい後輩に協力を要請するか。あの宗教が壊滅するのなら、俺はなんでもしたい。

「お世話させてください」
 
 手紙をひとまず畳んで封筒に戻して机に置いてから、俺は寝返りを打った。もう寝ないといけないのに眠気が来てくれない。今日は何かと想定外の出来事が多かったせいで考えるべきことが山ほどあるからだ。
 色々な疑問が浮かんでは解決出来ずに頭の片隅に追いやっていく作業が延々と続き、眠れないまま夜は更けていった。

「お世話させてください」
 
「お世話させてください」
 
「お世話させてください」
 

 俺は耐えきれずに耳を塞ぐ。
 こんな生活は、もう嫌だ。 

 ◇

  昨晩考える事が多すぎて遅くまで眠れなかった俺は普通に登校時間ギリギリまで寝てしまったせいで、あのがっかりな朝メシすら食いっぱぐれた。

(腹へった……。昨日の夜飯、酷かったからなあ……)

 かろうじて顔は洗って歯は磨けたが髪を整える時間まではなく、急いで荷物を持って家を飛び出してきていた。
 一つ良かった事といえば、朝起きてからドアを開けてみたらあの悪霊よりタチの悪い女はいなくなっていた事だ。起きてまだ居たら朝から怒鳴り散らしていたか、もっと悪ければ蹴り飛ばしていたことだろう。

「神田先輩おはようございます! アレ? 大丈夫ですか? だいぶお疲れのようですが……」

 髪はボサボサの腹減り状態で死んだように歩く俺を発見したらしい上野が心配そうに駆け寄ってきた。

「昨日眠れなくてな……。寝坊したんだよ。朝メシ食う時間もなかった……」

 上野はそれを聞いて申し訳なさそうな顔になり、俺に頭を下げた。

「神田先輩、すみません昨日は。僕、知り合いが理不尽な目にあってるとつい怒りっぽくなってしまって。先輩からすれば素人が簡単に潰そうとかそんな現実的じゃない話されたらそりゃあ疲れちゃいますよね……」

「いや、お前のせいで寝坊したんじゃねえから謝んなよ」

 確かに上野の言動には驚いたが、眠れなかったのは他の要因だ。こいつが謝る必要はない。
 それにしても普段の様子と怒ったときとギャップがありすぎるだろとは思うが。
 上野はリュックからラップに包まれたサンドイッチを取り出して俺に渡してきた。

「部活中に食べようと思って食パンを拝借して作ってきたんです。よかったらどうぞ」

 断ろうと思ったがあまりにも腹が減っていてこのままでは日中の授業に支障をきたしそうだったので、礼を言ってありがたく受け取り歩きながら口に入れた。
 食パン二枚にピーナッツクリームが非常識な程たっぷり挟んであるだけの簡単なサンドイッチだったが、久しぶりに食パンに何か塗ってあるものを食べたような気がする。
 血糖値が上がるのも相まって心身に染み渡る味だった。こういうのでいいんだよこういうので。
 甘味ですっかり心安らいだ俺は、今も心配そうに俺を見ている上野に昨日の夜あった事を話してみた。
 もう一人で抱え込むのは昨日の夜だけで十分やりつくしてしまった。吐いて楽になりたかったのだ。
 上野は難しい顔をして考え込んだ後に、「先輩、行くんですか?」とだけ聞いていた。

「それで寝坊したんだよ。まあ、でもあの宗教潰して生活変えられるってんなら、いいよ。誰が逮捕されようと構わねえ。行ってやる」

 俺が不機嫌気味に唸ると、上野は間髪入れずに返してきた。

「しかしお姉さんが何を考えているかハッキリしない以上少し危険だと思います。確かに先輩を騙して本部に連れていくメリットは思いつきませんが……。それこそ、下手したら殺されちゃうかもしれないです。先輩、僕も何か手伝います!」

「大丈夫だ。お前はついてくんな。何があるか分かんねえから」

「……でも……!」

「碌でもねえ連中の巣窟に無関係の後輩連れていけるか! 危ねぇから大人しくしてろ! 絶対来るんじゃねえぞ!」

食い下がる上野に俺は強めに出た。こうでもしないと、こいつは食い下がり続ける。
 上野は良い奴だ。
 俺のしょうもない身の上話を全部聞いてくれたし、怒ってくれすらした。だからこそ変な事に巻き込みたくない。
 俺がこの賭けに負けたときに責任をとるのは、俺だけじゃなきゃ駄目だ。これは、俺の家族の話だから。
 
 俺は後ろでむくれる上野を残して、一人校舎に入っていった。

 ◇

 「神田先輩が一人で危ないことをしようとしてます」

 僕は年甲斐もなく、神田先輩の事を告げ口した。
 だって、絶対危ないじゃないか。
 相手は新興宗教だよ? 言っちゃ悪いけど何を考えてるか解らない連中の代名詞だ。
 そんな所に単身で乗り込むなんて、もしこれがホラー作品だったら神田先輩はバッドエンドにまっしぐらだ。
 先輩はお姉さんを少し信用している様子だったから言えなかったけど、お姉さんもやっぱり怪しいと思ってしまう。大体、例の手紙をくれた翌日がもう集会でそれまでに決めろだなんて、急すぎる。その行動の真意は神田先輩に考える時間を与えないためなんじゃないかと疑ってしまう。
 僕にだってきっとやれる事がある。
 神田先輩に突っぱねられた腹いせに、僕は他の先輩に協力を仰ぐ事にした。

「その分だと何か協力を申し出て断られたのか? 君らは本当に仲が良いな」

 そう言って静かに笑ったのは秋葉部長だ。
 秋葉部長はこの学校で一番頭が良い。頭も良いし優しいし知識も豊富だからきっと色々助けてくれるに違いない。
 僕が神田先輩の居ない時に頼れる人たちと言ったらオカルト同好会部の人たちしかいなかった。本当だったら一人で色々出来ればカッコいいんだろうけど、悲しいことに僕にそんな力はない。
 秋葉部長は今まで見ていた報告書の束を傍に置いてから、僕の方に真っ直ぐ向き直る。

「恭介。よかったら俺にも話してくれないか。雅弘を失うのは我々オカルト同好会からしても大きな損失だからな」

 真剣な表情の秋葉部長の横から副部長の高田先輩が口を挟んだ。

「部員じゃねえけどな。神田」

 馬場先輩も作業する手を止めないまま高田先輩に続いた。

「失うってのもまた大袈裟よね。で、危ない事って何なのよ上野。キチンと話しなさい」

 後ろの方の席でUFOの模型を作りながら「……面倒では?」と呟いたのは大崎先輩だ。面倒じゃないですっ!

「神田くんなら一人で帰ってこられるんじゃない?」

 そう言ったのは二年の浜松先輩。僕も少しそう思います。最終的に隣に浜松先輩の座っている田町先輩がやきもきしながら僕に聞いてきた。

「で、上野。その危ねえ事って何系なんだよ。都市伝説とか降霊術系とか?」

 うーん。言っていいのかな。まあ、詳細話さなきゃ良いか!誰か何か知ってるかもしれないし!

「怪しい新興宗教系です!」

 高田先輩と馬場先輩がめちゃくちゃ興味あり気に立ち上がってこちらを見ていた。きっとミッドサマーとか、ヘレディタリーとかそんな感じを期待してるんだろうな。残念ながら今回はノット・アリ・アスターです先輩方。

「では、恭介。ちょっと廊下で話そうか」

 デリケートな話題になるかもしれないと察知した秋葉部長は僕を廊下に連れ出して話を聞いてくれた。とりあえず僕は、神田先輩から聞いた事を全て秋葉部長にお話した。もちろん、今日先輩が怪しい集会を隠し撮りしに行こうとしていることもだ。
 秋葉部長は真剣な表情で話を聞いた後、「ふむ」と考えた。

「ではまず、どのような教団なのかを調べよう。敵地に乗り込もうというのなら、どのような考え方の相手なのかを知っておいて損はないだろう」

 やっぱり学校で一番頭が良い人なだけあって冷静だなあ。相談してみてよかった!
 秋葉部長はそのまま、部室の横にある倉庫に入って行った。詳しく知っているかもしれない人に連絡してくれるらしい。
 倉庫には歴代オカ部部長の連絡先があるらしいから、その中に宗教関係に精通してる人がいるのかもしれない。
 僕が部室に入ると、ちょうど高田先輩が他の先輩たちに話を聞いていた。

「大崎と五反田って確か神田とクラス一緒って言ってなかったっけ? まあそこまで仲良くなさそうだけど、神田からなんか聞いてたりしねえの?」

 そう言われて初めに口を開いたのは五反田先輩だった。怪奇小説を書いている二年の先輩だ。

「神田くんかぁ……。席近いけどおれはあんまり話したことないですねえ。あ、こないだ体育のフリースローで居残り貰いそうになったときにコツを教えてくれましたね」

「五反田が運動できないらしいって事しかわかんねぇなぁ」

 高田先輩が呆れているのを気にせずに五反田先輩は「うーん」と唸った。

「神田くん、優しいのに結構色んな人に避けられてるんだよねえ。なんでだろ。おれが落としたペンとかよく拾ってくれるのに」
 
「五反田がやたら物を落とすって事しかわかんねぇなぁ」

 高田先輩が諦めた様子で「大崎は? 何か知ってる?」と大崎先輩に話を振った。
 大崎先輩はUFO模型から目を逸らさずに答えた。

「俺、小学生のときからずっとクラス同じですけど今まであいつと口きいたことないです。なんか、合わないんで」
「話してねえのに合うも合わねえもねえだろうよ。まあ神田のやつも愛想ねえからなあ。みんな俺を見習え俺を」

 ため息を吐く高田先輩を無視した大崎先輩は興味無さ気に続けた。

「でもあいつの家が変な宗教やってるのは同級生の間で有名なんで知ってます」

 神田先輩が言った通り、一部の二年生の間で先輩の家の事は有名みたいだ。それを聞いて田町先輩が話に入ってきて五反田先輩に説明するように話始めた。田町先輩は浜松先輩と二人で心霊写真を作っている二年の先輩だ。

「中学のときにさぁ、神田を宗教のことでからかった奴がぶん殴られたとかでエラい騒ぎになったんだ。鼻折れたんだってよ。胸糞野郎だったからザマァだったけどな」
「先生とか来て止めなかったの!?」

 五反田先輩が悲鳴混じりに聞くと、田町先輩はそのまま続けた。
 
「それが教師も止められなくてさ。クラス全員が壁に寄ってる中心に、返り血浴びてすげえ顔した神田が立ってた。アタシは隣のクラスだったから騒ぎを聞いて浜松と見に行ったんだ。地獄絵図だったな」

 ああ……。神田先輩、怒ると顔めちゃくちゃ怖いからな。ブン殴られたらしい誰だか知らない先輩もさぞや怖かったことだろう。損なほど大馬鹿だと人生辛いね。
 他の先輩らが口をぽかんと開けて話を聞くなか、浜松先輩も話に加わった。

「確かご両親が学校に呼び出されたらしくて、殴られたバカ男が連日『ヤバい両親だった』って騒いでたの覚えてる。何言ってるかわからなかったとかイカレてるとか。神田くんは騒がれてる間ずっと凄い顔してた。ぶっ殺してやる〜! って感じの顔」

 全員が何も言えなかった。神田先輩の心情を思うと居た堪れない。きっともう三発くらい殴りたかっただろうな。
 
「相手にはおじいちゃんおばあちゃんがきて謝ったらしいって聞いたよ。それから神田くんめちゃくちゃ大人しくなったよね。たまにまた凄い顔はするけど」

 田町先輩が紙パックジュースを飲みながら僕の方を見た。

「だから上野が神田連れて現れたときはマジでビックリしたわ。神田があそこまで誰かと仲良くなってんの初めて見たな。なァ大崎!?」
「……興味ない知らない」

 高田先輩と馬場先輩は絶句していた。思った以上にヘビーな話だったからだ。かくいう僕も神田先輩のこれまでの環境を思って寂しい気分になった。
 家族はおかしくなり、学校では避けられる。神田先輩は、ずっと自分の居場所がないまま過ごしてきたのだろう。
 馬場先輩が悲しげなため息をついた。

「何よ。面白くない。宗教ネタなんておかしな儀式したり捜査してる刑事をデカい人形に押し込めて燃やすくらいで丁度いいのよ。そんななんの非もない子の人生が半壊させられる話なんて最悪も最悪だわ。これだからリアルはクソ。神田くん……大丈夫かしら」

 僕も神田先輩が尚更心配になってきた。多分先輩はあの生活を抜け出す為に手を尽くすはずだ。それだけの地獄が、あの家には渦巻いている。
 でも神田先輩はそんな酷い環境のなかにいながら、まったく見ず知らずの僕のことを命懸けで助けてくれた。今度は僕が絶対助けるんだ。僕にできることは全部やって、神田先輩に恩返しするんだ!

 僕が決意を新たにして立ち上がった途端、酷い頭痛が後頭部を襲った。一瞬にして気分が悪くなる。気持ち悪い。吐きたい。
 そして、頭の中に、が響いた。

 ⦅困っているみたいだね、恭介くん。私が助けてあげようか?⦆

 ――そんな、なんで……!?
 
 先輩達の話に集中できない。
 僕は冷や汗を垂らして自分の心臓の早鐘をずっと聞き続けていた。

 ◇

 ⦅困っているみたいだね、恭介くん。私が助けてあげようか?⦆

 どうしよう。こんなこと初めてだ。本当だったらすぐ神田先輩に相談したいけど、今は居ない。
 
 (前までははこっくりさんの紙と一〇円玉が無いと話せなかった筈なのに……!)

 僕の左肩には悪霊が憑いている。
 かれこれ八年くらいの付き合いになるこの悪霊は、小学生のときに一人でこっくりさんをして遊んでいたせいで今も僕の左肩に居座り続けている。
 霊感のある神田先輩が言うには、死人のような血色の悪い手が僕の肩に乗っているらしい。
 いくら僕がオカルト好きでも喜んでばかりはいられない。ただ居るだけなら僕は見えないから良いけど、憑かれていると今回みたいな霊障に遭ってしまう。
 僕が勝手にこっくりさんと呼んでいるこの悪霊は長年放置してしまったせいで力をつけてしまったらしく、最近になって僕の意識を勝手に乗っ取ってくるまでになってしまっていた。今までは意識を乗っ取られている間僕の記憶はなく、眠ったような状態でこっくりさんの声を聞いていたのに今日は、とうとう僕の意識があるまま割り込んで無理矢理話しかけてきたのだ。率直にヤバい。症状が悪化している。

(頭が……! 頭が痛い……! それに吐きそうだ……)

 こっくりさんの話が僕の頭に流れ込んでくる度に酷い頭痛と吐き気に襲われる。口のなかに生唾が溢れて気持ち悪い。

《なんで恭介くんはあの人をそんなに助けたいの? わからないわからない。私がいれば恭介くんは安心なのに》

 構わず喋り続けるこっくりさんに反論したいけど、ここは部室で人がたくさんいるから無理だ。でも実は反論どころじゃないくらい気持ち悪い。
 頭を振ってこっくりさんを振り払えないか試してみるけどできない。気持ち悪さが増すだけだった。

《どうやったらあの人を助けられるか教えてあげるよ恭介くん。最近ずっと話しかけてくれないから寂しかったんだよ。あんなに良くしてあげたのに恭介くんは酷い子だ。でも今なら許してあげる。さあ、紙をひらいて一〇円をもって》

 僕が頭を抱えていると、高田先輩が「上野どしたー? 具合悪りぃのかー?」と心配してくれた。
 僕はなるべく笑顔を作って「えへへ……ちょっと、眩暈がしまして……」と誤魔化して一度部室を出た。
 
⦅ここなら誰もいないよ恭介くん。ゆっくり私とお話をしよう。あの人を助けるのは私が手伝ってあげる。それがいいよ。 そうしよう? だから紙を開いて……⦆

「……うぅぅ……!」

 何か言われていても上手く理解するまでいけないよう頭痛と吐き気。
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。ついでに目が熱い。何だこの感覚。初めてだ。
 僕はあまりの気持ち悪さに、部室の近くのトイレに入って手洗い場に唾を吐き出した。
 ふと鏡を見て驚く。
 
 ――目が、目が白黒逆だ。
 
 眼鏡の奥の僕の目は本当だったら白目の部分が真っ黒に染まって、黒目があるはず場所に白い部分があった。こっくりさんしてるときの僕はこんなふうになっているのか……。
 段々と、霊障に侵されていく。意識を乗っ取られ、頭の片隅に入り込まれて目までおかしくなった。
 でもこれは仕方がないんだ。
 こっくりさんを呼んだ僕の、こっくりさんと共犯になってしまった僕の責任だ。

《そうだよ恭介くん。私を使って人殺しなんてするから罰を受けたんだ。でも大丈夫。恭介くんは私が守ってあげるからね》

「……るさい……です」

 でも今は、そんなクソくだらないことで悩んでる場合じゃないんです。
 僕が人殺しだろうと酷いやつだろうとかまいません。
 でも今は、今はやらなきゃいけないことがあるんで。
 貴方みたいな悪霊なんかを頼ったら、僕はもっと僕が嫌いになります。そして神田先輩に顔向けできません。
 それに、今忙しいんです。うるさいです。ムカつくんです。昨日、先輩から話を聞いてから腹が立って腹が立って仕方がないんですよ。
 だから、僕はもう判断を間違わないように慎重にならないといけないんです。
 だから。

 僕が鏡に思い切り頭を打ちつけると、狭いトイレに低い音が鳴り響いた。
 
「静かに……! していてください……!」

 鏡に映った僕の目はもう元に戻っていた。

 ◇

  僕がこっくりさんを静かにさせてから部室に帰ると、秋葉部長が戻ってきていた。
 秋葉部長はいつも座っている先生用のデスクで誰かと電話をしていたが、しばらくしてお礼を言いながら電話を切って僕の方を見た。

「恭介、ちょっといいか」

 秋葉部長に呼ばれ、僕は近くにあった椅子を引っ張ってきて、デスクの真ん前に陣取る。部長は僕が椅子に座ったのを確認してから穏やかに話し始めてくれた。
 
「本部の住所にあった教団の名前を知り合い数人に聞いてみたところ、あまり表立って言ってはいないようだがあの教団にはどうやら同物同治どうぶつどうちの考えが根強くあるらしい」
 
「どうぶつどうち?」

 秋葉部長と話しているとたまに自分の馬鹿さにうんざりするときがあるけど、こういう「あまりに理解が追いつかなくてひらがなで喋ってしまう」みたいな瞬間がよくうんざりポイントになる。そんなうんざりする程の馬鹿な僕にも、秋葉部長は嫌な顔一つしないで優しく教えてくれる。

「同物同治というのは簡単に言うと、体の中の調子の悪い部分を治す為に、健康な他の動物の同じ部位を食べるのが良いとされる考え方だ」

 ほうほう? ちゃんとした名前は知らなかったけど、なんか聞いたことあるかも。
 
 「肝臓が悪くなっちゃったから治す為に新鮮なレバーを食べる みたいな感じのやつですか?」

 ふわっと確認してみたら秋葉部長は優しくにっこり笑ってくれた。よかった合ってたみたい。

「そうだ。もしかしたら、その教団は特殊な動物の珍しい部位なんかを食べたりしているかもしれないな」

 秋葉部長は椅子に深く腰掛けながら両手の指先を突き合わせて話を続けた。

 「お姉さんもそれで病気が治ったとされているなら、教団に広告塔にされるのもまあ頷ける。集会っていうのはもしかしたら、狩猟許可もないのに動物を捕まえて来て自分たちで解体して食べているとか、そういう事なんだろうか」

「そういえば神田先輩が、昨晩お姉さんが作った夜ご飯が下手くそなジビエみたいですごく不味かったって言ってましたねぇ」

 神田先輩、本当にげっそりしながら言ってたからよほど美味しくなかったんだろうな。
 でも僕の情報はあまり役に立たなかったようで、秋葉先輩は困ったみたいに笑った。

「うーん……それだけだと、なかなかコメントに困るなぁ。雅弘のお姉さんの料理の腕の話だからな……。そういえば、恭介。雅弘は家でなんと呼ばれてると言っていた?」

「……はい! えっとですねぇ……」

 僕は昨日話を聞きながら取ったメモを取り出し、秋葉先輩に神田先輩の家族の呼び名の事を話した。秋葉先輩は話を聞いてすぐ「ほう」と言ってにっこり笑った。

「それは戒名だね」

「戒名? 戒名って死んじゃった後につけるアレですか?」

「そうだ。戒名の一番最後の部分を位号というんだが、男性には居士コジ女性には大姉ダイシをつける場合がある。ランクにもよるんだが」

 戒名って仏教で亡くなった人につけるあの世での新しい名前? とかじゃなかったっけ。あの、位牌に書くための名前で……、ありがたい名前をもらう為にはお金がそこそこかかっちゃうせいでたまに親族間が揉めたりするやつ。
 僕は秋葉部長に「……でも神田先輩生きてますよ……?」と至極真っ当な事を質問してしまった。
 うーん。やっぱり自分の馬鹿さにうんざりだ。
 部長はスマホに送られてきたらしい情報を見ながら目を細める。

「教団に入ることが、俗世のしがらみを捨てるために一度死んでから蘇る事と同じ効果を得るのだ という言い分らしい。色々考えるものだ」

 秋葉部長は目は鋭いまま穏やかな声で言った。部長って怒る事とかあるのかな。まあいいや。
 デスクにあったプリントの裏にボールペンで走り書きをしながら部長は唸っている。

「ドウという字が全員に入ってるんだな……? 一体どの字を書くのだろうか。ドウ……ドウ……その後の一文字も気になるが……」

 プリントの裏に山ほど漢字が書かれて行く。
 導、桐、猱、橈……多分『ドウ』の音を持つ漢字なんだろう。僕に最後の漢字は読めないけど。よく事典とか見ないでこんなにたくさん漢字が出てくるなあ。

(感心してる場合じゃない! 僕も頑張らないと!)

 ただ、色々調べようにもこの宗教のことをネットで検索しても情報がほとんどヒットしない事は昨日の夜の時点で解っている。
 地域に根付いたマイナー新興宗教ってことかな。その割に本部は結構大きくて、先輩が言っていた住所をストリートビューで調べてみたら三階建ての白い建物が建っているのが確認できた。

(随分儲かってるよねえ……。ここで集会かあ。秋葉部長の言う通り動物の違法解体だとしたら昨日の下手なジビエって話も納得いく)

 あとは神田先輩のお姉さんが信用に足るかどうかだ。
 確かにお姉さんがわざわざ隠れて手紙なんか出して、ずっと口をきかなかった弟を本部につれていくというのは『この宗教を潰したい』という理由があれば納得できる。
 先輩の言う通り、もしお姉さんが騙すつもりだとしても騙してまで神田先輩を本部に連れていくメリットはわからないままだ。だからって信用に足るとは思えないのは、やっぱり話が急すぎると思うから。
 お姉さんが人を騙すような罪悪感を感じて宗教を潰す決断をしたにしても、それは最近じゃないと思う。両親や知り合いが入れ込む宗教を潰す事への罪悪感を感じて悩んだり、それがなかったにしても本格的に潰すと決めてから入念な作戦を練らないといけない。
 それは一朝一夕ではどうにもならない事だろうに、神田先輩に協力を仰いだのは決行日前日。ギリギリすぎるよ。
 
(神田先輩自身が目的だとしたら確実に罠なんだけど、まさか本部で神田先輩に何かする気なんだろうか?)

 でもそもそも、この世で神田先輩に何か危害を加えられる人間っているんだろうか。酒瓶を逆手に持って躊躇なく振り下ろす神田先輩の姿を思い出して少し冷や汗が出た。

(まあ……大人数でかかれば、なんとかなるのかな? わかんないけど。ただそこまでして神田先輩に何がしたいの? って話ではある……)
 
 自分で言っておいてなんだけど、神田先輩自身が目的っていうのも少し疑問で、神田先輩は確かに半分ヤクザで強くて頼りになるけど、まあ結局は高校生だ。
 ただ普通の、とは言えない。だってほら、先輩には霊感が――

(霊感……。神田先輩の両親って、自分の子供に霊感があるのを知っていたんだろうか)

 昔は対処法が解らなくて怖くて困っていたって神田先輩は言っていた。
 センセイに会ったのは小学四年のとき。先輩はそれまでの間、幽霊が見えて怖い事を誰かに相談したんだろうか。
 なんの確証もない、よくわからない考えとすら呼べないものが頭を掠めて鳥肌が立つ。
 だって秋葉部長が書き出した字の中に『瞳』の字があったから。
 僕は、考え込む秋葉部長に恐る恐る質問をした。

「あの……部長。同物同治を信じる人たちって……霊感のある人の眼を食べたら、自分たちにも霊感が宿ると思ったりするんでしょうか……」

 秋葉部長は返事をしないまま顔を上げて僕を真っ直ぐに見た。完全に真顔の部長を、僕は初めて見たかもしれない。

「……同物同治は力を得る方法というよりは、自分の悪い部分を直すための考え方だから聞いた事はないが、無いとは言い切れないな」

 部長は字を当てはめて行く。
 ボールペンのガリガリという音が響いて変に緊張する。
 同物同治を信じる教団、異臭のする家とその住人、必ず目を覗き込んでくる信者、血の味の強い刺身……。
 色々な事が頭のなかできっちり並んでいく感覚がある。なんの確証もないのに。

「瞳を修めると書いて瞳修居士ドウシュウコジだとしたら、だいぶ気分の悪いものになるな」

 秋葉部長の手元の紙には、おそらく先輩の家で使われていると思しき戒名に漢字を当てはめたものが並んでいた。
 瞳捧居士ドウホウコジ 瞳愛大姉ドウアイダイシ 瞳想大姉ドウソウダイシ 瞳修居士ドウシュウコジ

 相変わらず何の証拠もないままなのに何故かしっくりきてしまうこの並びを見て、僕と部長は黙って目を見合わせた。
 瞳という字を中心にして決めているであろうこの戒名たちを見る限り、教祖はよほど神田先輩の霊感を欲しがっているのかもしれない。
 秋葉部長は腕を組みながら静かに口を開いた。

「もし教団が雅弘に霊感があるのを知っていて、しかもそれを瞳由来の能力だと考えていたら雅弘の父が幹部に昇進するきっかけはお姉さんと教祖の結婚だけではないかもしれない」

 時刻は午後三時五十分。
 秋葉部長も同じ考えだったらしく、時計を見た後すぐに僕の方に向き直った。

「恭介、雅弘に急いで連絡できるか?」

 ◇

  午後四時に間に合うよう余裕をもって下校した俺は、午後三時半には指定された建物の付近に到着していた。
 白い外装の三階建ての建物は派手な装飾などは無いものの、街並みに馴染めず悪目立ちしているように見えた。

(ここで何があるってんだ……)

 白い建物には大きなガラス扉がついていて、扉の奥には受付らしきものがあり、男性二人と女性一人が座って何やら仕事をしているようだった。
 
(入るなら関係者か内部からの手引きが無いと無理ってところか)

 この時間にこの場所へ来てしまった時点で俺は姉に頼るしか道は無いが一応単独行動するための情報も集めておきたい。
 俺は昨晩から今日一日唸って考えても姉を完全に信用することも切り捨てることも出来なかった。信用するには情報が少なすぎるし、話が急すぎるのも気になる。
 しかし、俺はこの生活から抜け出す千載一遇のチャンスを逃すことができなかったのだ。一緒だ。ガキのときと。俺は飢えてまたゴールに向かって飛びついていこうとしている。それで失敗しているのに。
 正直ずっと手が震えているが、飢えて飢えて飢えて仕方がない。この冷静に考えれば絶対乗れない胡散臭い誘いにたやすく乗ってしまう程、俺はマトモな生活に飢えていた。
 もう自宅で隠れて食料を漁ったり、安定した居場所がなくて一年中どこかをフラフラして過ごすのはゴメンだ。

(まだ時間に余裕があるな……建物の様子でも見とくか)

 この団体を潰そうってときに正面玄関前で待ち合わせ時間まで突っ立ってるというのも馬鹿らしくなり俺は建物周辺をぐるりと歩くことにした。
 一階にも窓がついているがすべての窓のカーテンが閉まっており、中の様子は伺い知れない。
 裏手に回ってみて俺は思わず目を剥いた。

(な……なんだこいつら……!)

 この建物の裏手には五、六人の幽霊が建物に縋って泣いていた。その幽霊らには、片足のない奴や腹に穴の開いた奴など体の一部が欠損しているという共通点があった。

 ――この施設で一体何が起きているんだ。
 
 普通の人間には見えないであろうその光景があまりにショッキングで俺はしばらく立ち尽くしてしまった。
 幽霊共は俺に見向きもせずずっと建物に縋っている。
 
(金に困って自殺でもした連中か……?)

 それにしては欠損の意味が解らないが。
 何があるか分からないし祓ってしまいたいところだが、相手は敷地内だ。自分の背より高い柵を登って超えることも出来ず、俺は仕方なく正面玄関に戻ることにした。

 正面に戻ると、そこには姉が待っていた。俺に気づくと姉はこちらに手を振って穏やかな笑みを向けてくる。

「マサくん、本当にきてくれたんだね。ありがとう! 凄く嬉しい」

 「そういうのはいい。この中で何があるってんだ?」

 姉は「移動してから話すね」というと、裏にある小さい門の鍵を開けて俺を中に引き入れる。
 そのとき俺のスマホが振動した。
 驚いて見てみると上野から電話がかかってきている。
 俺の様子を察したのか姉が俺の手元を覗き込む。

「だあれ? お電話?」
 
「後輩。大丈夫。後でかけ直すから今は切っとく」

 今は話している余裕がない。
 おそらく心配してくれているであろう上野には申し訳ないが、電話を切った。
 
「ここならひとまず誰も来ないかな。今みんな忙しい筈だから」

 そういって案内された施設内の小部屋で、姉は今回の集会について話し始めた。真っ直ぐに俺を見据えた目は共犯者の覚悟を確かめているようだった。

「今日の集会では狩猟が禁止されている動物が解体される筈なの。マサくんは同物同治って知ってる?」

「あぁ? 確か中国の薬膳かなんかの話じゃなかったっけか?」

「そう。他の生物の優れた部分を食べることでその生物の力を手に入れようって考え方。私たちはその考え方を教典に取り入れている」
 
 詳しくは知らないが聞いたことはある。そんなの信じて違法な解体ばっかりしてるからこいつら年がら年中臭ぇのか。
 姉は真剣なまなざしで俺を見ながら続けた。

「集会ではいつも幹部と候補たちの前で解体が行われるから、お父さんとお母さんもそこで見てると思う。マサくん、これを告発したらお父さんとお母さんも動物の解体に関わってた事とかが発覚して逮捕されちゃうかも……。本当に大丈夫?」 

 姉はまっすぐ俺を見ている。
 複雑な気持ちはまだあるし、絶対悔いはないと言えば嘘になるかもしれない。あんなんでも一応親だ。まともな時期だってあった。でも俺は宗教が家に上がり込んできた日から、お父さん お母さんと呼ぶことすら諦めたんだ。
 だからもう、いい。
 俺は姉をまっすぐ見て無言で頷いた。
 
「わかった。じゃあ案内するね。人が通らない今がチャンスだから」

 姉はそう言って小部屋から出て足早に俺を案内した。
 本当はもう少し事情を探ってこの女が本当に信用に足るかを探りたいが、少し焦った様子の姉に変に質問攻めしてこの作戦が失敗しては元も子もない。それに姉の表情からも『この機会を逃せない』という必死さが伺えた。俺は姉が退院してきた日からずっと『姉はすっかり変わってしまった』と勝手に決めつけてきたが、思えばなんの話もしていない。こんなことならもっと早く、話してみればよかったのかもしれない。俺は、家族に生き残りがいたのを知らぬまま過ごしてきていたのかもれない。とにかくこの作戦が上手くいって色々解決したら、もっと話してみなければいけないと思いながら、俺は姉についていった。

「集会所がここ」

 姉に案内されたのは一階奥の薄暗いホールの中だった。
 集会用なだけあって広くて明かり取り用の窓もたくさんついているのに全ての窓に黒いロールカーテンがかかっている。教祖や幹部たちが座る椅子や机も置かれていて、ホール全体を包む薄明りのなかで机の前のゴムマットが敷かれたスペースだけスポットライトのように明かりがついている。

(あからさまにここで解体しますって感じだな。いい趣味してるぜ。下衆共め……)

 姉は俺を隅の方に連れていく。
 大きな段ボールがたくさん積まれている陰に案内し、段ボールを押しやって狭い隙間を作った。
 
「マサくんにはここから撮影してほしいの」

「この隙間からあのライトのところを撮れってことか?」
 
「そう! 大丈夫。こっちの方はもうずっと使ってないの。見ての通り荷物置き場になってるんだ。だから誰にも見つからない」

 俺の手を両手で握ってからにっこりと笑った後に姉は真剣な目をして俺の目をまっすぐ見た。

「頼んだよマサくん。また終わったらちゃんとお迎えにくるから、それまでここから動かないでね。絶対だよ」

「解ったよ。さっさと行け。教祖さまに探されちまうんだろ」

 姉は「それもそうだね」と笑うと最後に手を振って、段ボールの壁で俺の退路を塞いでから外へ出ていった。
 そのあとしばらくしてホールの扉が大きく開く。
 幹部連中や教祖らしき男の中には姉の言った通り両親の姿もあった。
 俺が身をかがめて、動画撮影のためにスマホを取り出すと、通知欄には上野からのラインが来ていた。
 『先輩、いまどこですか』だの『あぶないのでにげてください』だのという文面を見て、またもや申し訳なく思いながらLINEの通知設定自体を切るために設定画面を開く。
 集会がどの程度の長さになるか解らない以上、充電残量を減らすわけにはいかない。通知を切る直前、一瞬見えたメッセージに俺は息を呑んだ。

『早くにげて! 先輩がたべられちゃう!!』

 先ほど裏で見た欠損幽霊らが脳裏によぎる。
 もう引き返せない所に、俺はいた。

 ◇

  スポットライトの前に集まってきた幹部たちが机について近くの席同士で何か話している。
 上野から来たメッセージが頭から離れないまま、集会が始まろうとしていた。

(たべられちゃうって何だ? どういう事だ?)

 しかし今は深く考える余裕はない。
 いつ何が始まるか解らないので、俺は早めに動画撮影を開始することにした。
 もたもたして失敗するわけにはいかない。
 幹部たちが全員席についたところでまたホールの扉が開き、今度はおそらく普通の信者たちがゾロゾロと入ってくる。
 解体を担当している信者たちらしく、ノコギリやナタ、大小様々な刃物や清掃道具等をそれぞれ持ってきていた。
 上野のメッセージが脳裏によぎる。
 言語化したくない嫌な予感がひしひしと俺の背中から押し寄せてきているようだった。
 上野はおそらく、この宗教団体を調べてくれたに違いない。そして何かを突き止めたのではないか?
 上野は何を突き止めたのか。
 解らないが嫌な予感してたまらないのは、ホールに次に入ってきたのが装束を来て目隠しをした男性だったからかもしれない。その男性は別の信者に連れられてマットの上に座らせられた。毎朝家で見ていた座禅を組んだ瞑想のポーズを取った男性は落ち着いた様子でいる。

(動物は、動物はどこなんだ? 解体するのは……動物、なんだろ?)

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 焦っているせいで突如聞こえた拍手に驚いてスマホを取り落としそうになるのを堪える。
 見ると、テーブルについた幹部たちが目隠しの男に拍手していた。
 テーブルから小太りの男が前に出て、目隠しの肩に手を置いて何か語りかけている。何を言っているかまでは聞こえないが、目隠しは手を合わせてぺこぺこ頭を下げていた。おそらく小太りの男は教祖なのだろう。小太りの教祖が目隠しの肩に手を置いたまま、もう片方の手を上げると、幹部やその場に来ていた信者たちが一斉に拍手をする。

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 喉が渇く。
 何が起きようとしているんだ。
 動物を解体するって話だったんじゃないのか。
 俺はどうしてここに居るんだ。

 目隠し男の後ろからナタを持った信者が近づく。
 嫌だ。
 やめろ。
 違う。違う。違う。

 高く、高く、ナタが振り上げられる。
 やめろやめろやめろやめてくれ! 頼む! 頼む頼む頼むから……! 頼むから……

 ドッ

 低い音がして、目隠し男の首にナタが食い込み、目隠し男はおそらく即死した。もう意識はないだろうに、足や腕がビクビク動いているのが見える。
 俺は叫び出したくて堪らないのを押さえることしか出来ずにずっとスマホを握りしめて動画を撮っていた。
 手がガタガタ震えている。汗も凄い。
 こんなことをしていていいのか?
 そんな考えもよぎるが、動けない。
 俺は頭の中が真っ白になって、震えた手で馬鹿みたいにスマホを握りしめているしかできなかった。俺が震えている間にも、目隠し男の解体はどんどん進んで行った。頭から目玉や舌や脳を取り出し、肉を削ぎ、臓物を回収し、腕や脚を切ってそれぞれ信者が持って行って削ぎ肉にしている。
 解体する信者たちも、それをみる幹部たちも談笑している。何故人間を殺しておいてそんなに朗らかにしているんだ。まるで全員で夕食でもつくっているかのような雰囲気だった。
 何故、何故そんな異常な場に、俺の父さんと母さんが居て、しかも笑っているんだ。
 何で……

 気持ち悪い。吐き気がする。逃げ出したい。
 
 (なんで俺は……こんな所にいる?)
 
 何もかも解らない解らない解らない。解らない中に、俺の頭の中に、何か引っかかっていることがある。
 嫌だ。嫌だ、考えたくない。忘れたい。知らない。思い出したくない。
 考えたくない。考えたくない。考えたくない! 
 でもどうしても、頭にあった。
 俺はどうしてもこの事実から逃げられなかった。

――ああ……俺が、俺が昨日食った肉は……

 

「マサくん。大丈夫? ちゃんと撮れたぁ?」

 突如背後から聞こえた声に、振り返る事ができなかった。

 ◇

 「秋葉部長。僕、やっぱり神田先輩を探しに行ってきます」

 神田先輩に送ったメッセージに既読がつかないことにしびれを切らした僕がそう声をかけると、秋葉部長はめずらしく難しい顔をして考え込んだ。
 
「しかし恭介、行ったとして俺たちだけで中に入るのは難しいと思うぞ。だれか大人を連れて行ったにしても『雅弘は来ていない』と言われてしまえばそれまでだし、警察を呼ぼうにもあの施設に警察が入るようにするには、突入に足るような決定的な証拠を手に入れるか数日待って捜査してもらうかしかない」

「うううう……」

 僕が唸りながら考えている間にも、集会が始まるとされていた時間は刻一刻と迫っていた。
 秋葉先輩と僕の推測は結局のところ確証のないままで進展しなかった。しかし先輩が危険かもしれない恐れだけは跳ね上がって大きくなっている。
 
(どうにか……どうにかできないかな……)
 
 僕は一瞬胸ポケットに手を伸ばす。
 そこには懲りずに持ち運んでいるこっくりさんセットが入っていた。本当はこんな物も持ち運ばないほうがいいんだろうけど、小学生のときからの習慣というか、強迫観念みたいなものが抜けずにずっと持ち続けてしまっていた。

(ダメだ……僕は、今度こそ……自分の力で助けるんだ)

 考え込む僕の前で、秋葉先輩も頬杖をつきながら唸っている。秋葉先輩でもすぐ答えが出せないことってあるんだな……。

「俺たちでは侵入経路の特定すらできない。闇雲に突っ込んでいくのはまさしく命取りだ。せめてなにか策を思いつかないと」

 そのとき僕はパッと思いついたことがあった。これなら中に入りながら警察も入れられるかもしれない……!
 
(ただ少し危ないけど……)
 
 僕はさっそく秋葉先輩に声をかけた。

「部長! ……僕が。僕が侵入します。あの……部長にやっていただきたいことがあります! お手伝いをお願いできませんか……?」

 部長は僕の方を見てにっこり笑う。いつものような優しい笑顔だった。

「なにか思いついたんだな恭介。もちろん手伝わせてもらおう。まずは聞かせてくれ」

 ◇

 
 僕は秋葉部長を自転車の後ろに乗せて例の宗教団体の本部へ急いでいた。

「恭介! やはり俺が変わるよ。君は施設内に入らないといけないんだから」

「いえ、大丈夫です! 秋葉部長にこの自転車は低いですし、交代する時間も惜しいです!」

 僕は息を切らしながら秋葉部長のありがたい申し出を断った。
 これくらい大丈夫。夜中に化け物に追われて泣きながら漕いだことだってあるんだから。
 自分にいい聞かせながらふと腕時計を見ると、時刻は午後四時半を回ってしまっていた。予定通りならもう神田先輩は施設内に入ってしまっている。

(急がないと……!)
 
 行きすがら僕の家に自転車と荷物を取りに行ったから少し時間をロスしてしまった。
 僕は大汗が流れるのも気にせず自転車を飛ばす。
 
(明日は筋肉痛かもしれないなぁ)
 
 学校を出たときから僕の頭のなかはずっと神田先輩の家族のことが渦巻いていた。
 もしも本当に戒名が秋葉部長の推測通りだとしたら、神田先輩のお父さんは本格的に入信したときから神田先輩の霊感を教祖に売り込んでいたことになる。
 実は先輩に話してもらったとき、少し引っかかっていた事があった。
 神田先輩は「話をしようにも、あの連中は何を言っているかわからない」とだけ言っていた。宗教の一切を否定していた先輩は基本的に放っておかれていたが、あまりに態度が悪いときに暴行を受けていた。家のルールに宗教がらみの事が増えた事に関しても急に告知されて無理矢理浸透させられただけ。

――おそらく、神田先輩は一度も経典に関しての説明や入信するようにと両親から促されていない。

 神田先輩は当時まだ小学生で、両親が促せばなんとかなるかもしれなかったのに、そうされなかった。おそらく両親の中で、その必要が無いと判断された。
 誰の何を食べたのか知らないけれどお姉さんの病気が治って、父親が教団内でいきなり幹部候補にでもなったときに、神田雅弘先輩の目は勝手に頭のおかしな連中の間で取引道具にされた挙句、本人の扱いも決定したんだろう。
 確証はないままけど、もしこの推測が合っていたら……間違いなくヤバい。
 
(いやあ……石を投げつける相手を間違えたかな……。さすがにもうやらないけど……!)

 僕はこの推測が間違っているか、当たっていても神田先輩がその事実に気が付かないことを祈りながら自転車を漕ぎ続けた。

 ◇

 「マサくん。大丈夫? ちゃんと撮れたぁ?」

 理解できない恐怖と吐き気に震える俺は、後ろを振り返る事が出来ずに固まっていた。
 
 ――こいつだ。こいつはどうなんだ。
 
 敵か? 味方か? 正常か? 異常か?
 最初にこの作戦を持ち掛けてきたのはこいつだ。
 助けてって言っていたのに。
 人が死んでるのにこんなに冷静で、動物が解体されるって嘘を言ってて、俺にアレを食わせた。
 知ってたのか? 俺は騙されたのか?
 色々な考えが巡っては溜まっていくばかりで、俺の思考能力はまったく機能しなかった。
 あまりに色々な事が一気に起き過ぎている。

 ガチャリ

 手首に冷たい鉄の感触がまとわりついて重くなる。
 急に感じた感触と音への理解が追いつかないなかやっとの事で姉の顔から目を離し目線を下に向けると、俺の手首にはいつの間にか手錠がついていた。

 ――は?

 理解が追いつかない。なんだこれ。手錠?

「マサくんはぁ……暴れん坊だからね。ごめんね?」

 そう言って笑うと、姉は俺の足にも手錠をかけた。
 吐息混じりの声が変に耳について離れない。
 姉は目を細め恍惚の表情を浮かべて俺の目を見ていた。
 姉が、気持ち悪い。

「アンタ……俺を騙したのか?」

 俺が呆然としながら聞くと、姉は今までに見た事のないような醜悪な笑顔を浮かべてニタニタと笑った。

「マサくぅん。ダメじゃない。今までずーっと警戒して生きてきてたのに、お姉ちゃんがちょっと弱々しくしたらコロっと信じちゃうなんてぇ。マサくんはぁ! 優しいんだねぇ! うふふふふふふふふ」

 ああ、やっと冷静になった。解った。
 俺は、俺はまた、ミスをした。
 飛びついた先は、またもや地獄だった。
 怒りが沸々と湧いて俺の身体を頭を満たして行くのが解ったが、手錠をつけられてしまった今となっては遅すぎるくらいだった。

「テメェ……!!」

「怒ってる? マサくん怒ってるの? そうだよねえ! お姉ちゃんのこと助けようとしてくれてたんだもんねえ!? 本当に優しい子……。そしたら人が解体されててびっくりしたんでしょ? さっき震えてたもんねえ? 見てたよ? あ、動画撮影ありがとね。助かっちゃった!」

 目の前にいる悪魔のような女はすこぶる楽しそうにケラケラと笑いながら、俺のスマホを取り上げた。
 怒りに震えて血管が切れそうになっている俺を見おろしながら相変わらず恍惚の表情を浮かべている。

「お姉ちゃんが味方かもって思った? 嬉しかったんでしょ? マサくん? マサくんずーっとひとりぼっちだったから!! マサくんは強いフリしてるだけで本当は弱虫だもんね。安心してマサくん……。マサくんはぁ、これからもずぅーっとひとりぼっち! うふふあはははは」

 あッははははははははははははははははは

 イカレたバカ女の笑い声がホール中に響き渡った。
 人間を解体している信者どもが全員、こちらを見ている。
 俺は手錠をかけられたまま立ちあがろうともがくが目の前のクソ女がそれを許す筈もなく、余裕の表情で蹴り転がされてしまった。

「まだそんな暴れようとする余裕があるんだぁ……。ねえマサくん? マサくんが気になってそうだから教えてあげるけど、昨日少しだけ食べたお料理ね、マサくんが朝突き飛ばしたおばさんなんだよ?」

 え?
 
 声を出そうとした俺の喉が上手く酸素を扱えずに「ヒュッ」という音だけを立てた。
 何を、何を言っているんだこの女は。
 女は自分が言っている内容を理解しているのかいないのか、尚もニタニタケラケラと笑い続けている。
 生意気な弟に絶望を叩きつけ、虐げ、弄ぶのが楽しくて楽しくて仕方がないとでもいうかのように――

「マサくんが突き飛ばしたあの朝にね、傷物になっちゃったからみんなで食べちゃったの! おばさん泣いてたよぉ? ね? マサくんのせいだよ?」

 目から勝手に涙が溢れ出す。
 弱みは見せたくないと思ってたのに、堪える堪えないの選択肢は俺に与えられなかった。
 こいつらは食人鬼だ。もう、人間ですらない。幽霊でもない。こいつらは本物の……化け物だ。

「うふふふふふマサくん泣いてる!! 怖くて仕方がないんでしょ! カワイイ!! カワイイねマサくん!」

 化け物は涙が出るほど笑いながら俺の背中をパシパシ叩いていた。
 触るんじゃねぇ。
 俺は目の前の化け物を睨みつけた。涙を拭うことは出来ないが、せめて殺されるまで抵抗し続けなければ俺は俺を許せない。

「もっといっぱい食べてほしかったなあ~! お姉ちゃんせっかく頑張ってつくったのにマサくん捨てちゃうんだもん~! せっかくマサくんが知ってる人をお料理したから素材の味強めにしたのに! お口に合わなかったかな?」

 他の食人鬼どもの気色悪い貼り付けただけの笑顔とは違う、悪意に満ちた醜悪な顔で笑う化け物がそこにいた。
 人間を殺しただけでは飽き足らず、死後すら蹂躙し、弄び、その片棒を俺に担がせた悪夢のような化け物が俺を見下し、指を差して笑っていた。

「この……このクソアマがぁああぁあぁぁぁぁあぁ!!!!」

 他の化け物どもをもう気にすることもない。俺はいままでの分全てを投げつけるかのような大声で叫んだが、俺の怒鳴り声くらいでは目の前で嗤う化け物が怯む事はなかった。
 化け物は人間を真似た恍惚とした表情を浮かべたまましゃがみ込み、俺の耳元に汚い息を吹きかけながら喋りだす。

「ねえマサくん。お姉ちゃんね、嘘ばっかりついちゃったけどお……同物同治を信じてるのだけは本当だったんだ。ねえマサくん? マサくんさあ、昔から言ってたよね? お化け見えるって……すごく怖がってて可愛かったなあ……」

 吐息混じりの声が耳について気持ち悪い。
 確かに俺は物心ついたときから霊感に悩まされていたから、家族に相談したことがあった。
 そのときは両親もまだ健康だった姉も俺の悩みをよく聞いてくれたのを覚えている。
 化け物はニタニタ薄気味悪く笑ったまま耳元でささやき続ける。

 「お姉ちゃんもね、その目が欲しいの……。マサくんにだけ見えるものがあるなんてそんなのズルいから。お姉ちゃんにもお化け見せてぇ? ねえ? マサくぅん……」
 
 甘ったるい媚びるような声が気持ち悪くてたまらない。
 同物同治、人食い、霊感、目。
 ああ、そういうことか。バカじゃねえの。それでずっと奴らにまで目を見られていたのか。
 長年の不快感への理由付けが完了してしまった俺は、少し引っかかったことを心の奥底に押しやった。
 
(今は、それについて考えたらダメだ。立ち上がれなくなっちまう)
 
 人食いの化け物は、俺を真正面から見据えるように向き直ると目の奥まで覗き込むようにして言った。

「お姉ちゃんに雅弘の目玉ちょおだい……?」

 ◇

  侵入した施設の廊下は学校の廊下みたいな材質で出来ているせいで冷たくて、この季節でも裸足で歩くのには少し辛い。
 それに裸足だと何か踏んだ時に痛いし、ひたひた音がするから嫌なんだよなあ。
 階段の踊り場に設置されていた鏡に映った僕の姿と言えばまあ酷くて、両手の指先数本と右足親指の爪から出血していて、歩いた後には血の跡があるし右手には金槌を持っていた。極めつけに頬や首などに点々と血がついている。

(うーん……もし僕が今の僕を見たら間違いなく逃げ出すね。二、三人殺してそうだもん)

 神田先輩は結局電話に出ないし、メッセージに既読もつかない。
 焦って来ちゃったけど、もし神田先輩の気が変わってて、ここに来るのをやめてどこかで昼寝してたりしたらどうしよう。こんな格好でうろうろしてる僕は間違いなくお巡りさんのお世話になってしまう。

(でも危ない事がないならお巡りさんに怒られてもまあいいや)

 案件調査のおかげでお巡りさんに声をかけられるのは慣れっこだし。

(秋葉部長が一階を探せって言ってたな……。おそらく集会所は一階だからって)

 僕が階段を見つけて降りていたとき、地獄の底から響いてくるような怒鳴り声が聞こえてきた。

「このクソアマがぁああぁあぁぁぁぁあぁ!!!!」

 全身がビリビリする。背筋が凍りついて動けなくなるような、頭が真っ白になるようなそんな怒鳴り声。
 神田先輩の声だ。間違いなくここにいる。そして今まで聞いた怒鳴り声の中で一番怒っている。
 僕は先輩が生きていてホッとするのと同時に、ピンチかもしれないと思い至り足を速めた。

「こりゃあヤバいぞ! 先輩が人殺しになっちゃう前に急がないと!」

 あの声は本当に殺しかねない声だ、と思いながら急ぐ僕の頭の片隅にはずっと考えないようにしてきたことが離れず張り付いている。

(……もし、殺されてしまったらどうしよう。また、仲良くなった人を殺されてしまったら……)

 ああダメだ。これを考えると、僕は腹が立って仕方がなくなって焦る。そして……選択を誤る。これ以上選択を誤るわけにはいかない。僕の人生に、もうあの選択肢を入れちゃいけない。
 変な考えを振り払おうとしていると、ピキッという音が鳴ったかのような小さくて鋭い頭痛に襲われる。

 ――ああ、またか。
 
 そしてまた、僕のじゃない僕の声が聞こえ始めた。

《無視するなんて酷いじゃないか恭介くん。あの男を助けたいんだろう?私が手伝ってあげようか?》 

 僕が考えてもいないことが脳内に流れ込んできて、吐き気に襲われる。今は急がないといけないのに……!

《君一人じゃ無理だよ。私が手伝わないと君もあの男も死んでしまう。私がいれば君に害を為す者をみんな殺せる》
 
「……やめて……ください」
 
《恭介くんはあの男に死んでほしくないんだろ? 何故私を頼らない? いいんだよ。またいつものように私を頼ってごらん?》

 僕は頭痛を振り払って言葉を絞り出す。
 弱みをみせたらダメだ。ナメられたら終わりだ。大丈夫、この人は、こんな奴は、怖くない。言い返せ、言い返せ、言い返せ……!

「やめてください。聞こえのいい言葉で僕を使おうとするのも、勝手に頭に話しかけるのも、どっちもやめてください。僕は困ったときや辛い時に貴方を頼らない僕になりたいんです。いつまでも貴方に頼ってばかりじゃダメだってやっと、やっと気づけたんです。だから、話しかけないでください」

 きっぱりと言い切った。
 でもこんなので絶縁出来るほど甘い関係じゃないのは解っている事だ。とりあえず今黙ってくればそれでいい。
 強く出てみた事で僕が内心ドキドキしていると、さっきまであまり強くなかった頭痛が急に酷くなった。こっくりさんの反論が始まるってことなんだろう。嫌だな。きっと凄くなじられるぞ。

《恭介くん、酷いじゃないか。私を裏切るのかい? 君の為に人を1人殺すのを手伝った私を。君が泣きじゃくってばかりだったときにいつも一緒にいたのは誰? ひとりぼっちだった君の話し相手だったのは誰?》

 僕は足を動かしながら黙って俯いていた。言い返す言葉が出てこない。
 確かに僕はこっくりさんと共謀して人を殺してしまったし、その後はずっとこっくりさんと話してばかりだったから。でももう頼っちゃダメだ。無視しろ。謝っちゃダメだ。折れちゃダメだ。

《君はあの男の話を真に受け過ぎている。相変わらず影響されやすいんだね。あの男にしても君にしても、私が君を利用するかのように言ってばかりいるが、君が私を一方的に利用してばかりの間違いだろう? 恭介くんはそんなに酷い子だったかな?》

 ああもう。
 我慢していれば自分に都合の良い事ばかり一方的に好き放題言って。頭痛と吐き気が酷くてイライラする。
 うるさいうるさいうるさいッ!!
 僕は色々な感情がとうとう我慢できなくなって、口の中にたまった気持ち悪い生唾を廊下に吐き捨てた。
 
「ふざけ、ないで……ください! 誰が一方的に利用してるですって!? 僕は貴方に左肩貸してやってるんですッ! 家賃くらい払えってもんです! そんな陳腐な言葉で騙され続ける程僕は馬鹿じゃありません。ナメんな……!!」

 アドレナリンが出たせいなのかこっくりさんが怯んだのか、頭痛が少し和らいだ。
 ああもう、イライラする……!!
 間に合わなかったら、絶対許さない。
 僕は窓ガラスに映っている白目と黒目が反転した自分に向かって怒鳴りつけた。
 
「僕は、僕は自分の力で、先輩を助けます。僕が困ってたときに先輩がそうしてくれたように。絶対に今度こそ、助けるんです……!! 今! すごく! 忙しいので!! 黙っててください!!」

 そのままの勢いで窓を叩き割ろうか悩んだが、物に当たるのはあんまり好きじゃないからやめておいた。
 ここからは冷静かつ迅速に、そして慎重にいかないと。
 僕はそのあとうっすら聞こえたこっくりさんの声を完全に無視した。

 《いいよ……恭介くん。また絶望したら私のところに帰っておいで。人を殺した君なんかの味方は結局私だけなんだから》

 ◇

 「じゃらくさま! 瞳修居士ドウシュウコジは幼少より霊魂を見ることのできる特別な瞳を持っています! 是非、是非ご賞味いただきたい!!」

 元父親の食人鬼がこちらにゆっくり歩いてくる教祖らしき男に向かって呼びかけている。
 人語を介しているからか得意げな様子だが、まっとうな人間の俺からすればこの空間に居る全員が人間になり得ない汚らしい化け物だった。
 俺は化け物どもの手で冷たいホールの床に押さえつけられていた。
 姉のような顔をした化け物女は今も俺の側にしゃがんでこちらをニタニタ笑いながら見ている。
 食い意地の張った薄汚ない化け物どもが俺の周りにゾロゾロ集まってきて俺の目を覗き込む。
 
「この目が……!」
「素晴らしい」
「通りで綺麗な目玉をしている」
「私も食べたいわぁ! 素敵な目!」
「こんなに多くの人に食べてもらえるなんてこの子は幸せよ」

 化け物どもが俺の目を見て好き勝手いいやがる。
 こっち見てんじゃねぇよ汚ねぇな。

「そんなに化け物が見てぇならデカい鏡でも買えよ。お前らが全員鏡の前に並べば、外に居る幽霊どもよりよっぽどグロいもんが映るだろうぜ」

 いくら食人鬼どもを睨みつけてやっても怯みもしない。まあ、こいつらからすればまさしくまな板の上の鯉だからな。クソが。
 胸糞悪りぃ。こんな死に方最悪だ。化けて出て全員殺すまで絶対成仏してやんねえからな。
 小太りで油ぎった教祖の男が胡散臭い笑みを貼り付けて俺の近くにやってきた。めちゃくちゃ臭ェ。多分相当食ってやがる。化け物め。

「ほう。これがあの霊視の目か。瞳捧居士ドウホウコジありがとう。これが我々の探し求めていたものだ。よくここまで熟成させてくれたね。さぞや強い力を蓄えた事だろう」

 わけわかんねぇ理屈を披露した人食い狸の側に化け物女が駆け寄る。ああ、こりゃあお似合いの夫婦だ。嫁も料理上手だろうしな。マジで気持ち悪りぃ。

「じゃらくさま? こちらの瞳修居士ドウシュウコジの解体はまた後日にいたしましょ? 今日は1人解体しましたし、そちらのお肉の鮮度が落ちてしまいますから!」

 じゃらくさまと呼ばれた人食い狸はまだ俺を舐める様に見ていたが、そのうち女の方に向き直った。

「うむ、ではそうしようか。新鮮なうちに食べなければ二倉居士に申し訳ないからな」

 すっかり肉になった目隠しのオッさんのおかげで俺の屠殺は延期されたらしい。勝手にしてくれ。
 姉の皮を被った化け物が俺を見下ろして気色悪くニタリと笑い、また俺の傍にしゃがんだ。何か耳打ちするつもりらしく近くに寄ってくる。

「近寄んなクソ変態女」

 悪態をついたところで化け物は気にしない。ニタニタと笑いながらまた砂糖を焦がしてダメにしたような、甘ったるさの奥に悪意の籠った声で俺に耳打ちした。

 「よかったぁ。あの人たちにはマサくんの目を食べさせたくなかったの。私だけでじっくり、じっくり食べてあげる。可愛い私の雅弘……!!」

 化け物の唱えるクソの理屈に吐き気がする。こんな気色悪いこと言われるならいっそこの場でとっとと殺された方がマシなんじゃないかとすら思う。
 
「嫁入りしたばっかでもう夫婦仲悪りぃの? アンタの作る飯がクソマズいからじゃねえか? 気色悪りぃ変態同士お似合いなんだから俺を巻き込むな死ね」

「いつもの調子が戻ってきたねマサくん。震えてたほうが可愛いんだけどな。ま、もうすぐその悪い目つきも見られなくなっちゃうから今楽しんでおくよ。あ! そうだ! 今日解体した二倉居士なんだけどね? 凄く視力の良い人だったの! マサくんの目ももっと良くなるように今食べちゃおっか!」

「……何言ってんだてめえ……」

 意外なことに化け物の心にも俺の悪態が響くだけの人間らしさが備わっていたらしい。化け物女は一瞬だけあからさまに気に入らなさそうな顔をしていたが、すぐにまた気味の悪い笑みを取り戻し肉の解体現場へと走って行った。

「昨日の茶碗蒸しも目をミキサーして作ったのにマサくんちょっとしか食べてくれないんだもん! 生の方が美味しいから今一つ食べちゃお!」

 女の指がつまんでいたのはデカいビー玉くらいの大きさの球体。宣言した通りの人間の眼球だった。近くに寄せられると、細かい血管や肉片がついているのが解って吐き気がする。女は自分の指に血や肉、粘膜や血管が付くのをまったくためらわずに持ち直してから、目玉を俺に差し出した。

「はいあーん!」

 俺は絶対に口を開かないように固く閉じた。
 この気の違った化け物は本気だ。おそらく俺の心を挫くためならなんでもする気なんだろう。
 もう二度と食うかそんなもん。
 口を閉ざして睨みつけてくる俺を見て女はため息をついた。

「もー。マサくんはしょうがないなあ。お父さんとお母さんにも手伝ってほしいんだね?」

 女が手招きすると、化け物どもの中から元父親と元母親が前に出てきた。ふざけんな帰れ。元父親は幹部昇進がよほど嬉しいのかギラギラと汚い笑顔を浮かべており、元母親の方は全くの真顔だった。
 二人は俺の口に手を掛けて強い力で無理やりこじ開けようとしてくる。

「大人しく口を開けなさい」
 
「最後くらい言う事を聞け雅弘」

 ――ああ。本当に、俺の家族は死んだんだ。

 化け物二人の声を聞いて悲しみが込み上げる。
 だって父さんはこんなことする人じゃなかった。母さんはこんなこと許す人じゃなかった。
 
(こんな抵抗して、悲しくなって、潰れそうになって苦しいなら、もう何も考えないで死にたい)
 
 普段だったら絶対に押し殺して微塵も出したくないような情けない感情が、すぐそこまで押し寄せていた。
 両親に無理やり口を開けさせられて、唾液がとめどなく出ていて、身体のあらゆるところが痛い。
 もうなにもかもやめちまうか、という考えが過る度懸命に振り払っているがなかなか消えない。そんな俺の葛藤を見透かすかのように姉が朗々と語りだす。

「あのさぁマサくん? 私が入院中に健康な人の心臓を分けてもらったおかげで病気が治ったときにね、じゃらくさまがお父さんにお化けの見える人を探していて、その人の目を食べてみたいってお話したの。それ聞いてお父さんどうしたと思う?」

 気づいていた。でも聞きたくない。この状況ですでに答えが解ることだ。お前らはあの家に踏み入ってきたときからずっと俺の目を覗き込んでた。だから解る。俺の霊感はおそらく両親によって食人鬼に売られた。
 何故なのかは知らない。知りたくもない。俺の都合の良い妄想通り、両親はその時には死んでいたのかもしれないし、一人でのうのうと生活する俺が憎かったのかもしれない。あまり病院に行きたがらない俺が可愛くなかったのかもしれない。でも、もうどうでもいい。
 俺が涙を流しても、強い力で掴んで離さない両親を目の当たりにしていたらそんな過去のことは些末事だ。

「お父さん二つ返事だったよ! 笑っちゃうくらい! すぐにマサくんの事売っちゃったの! 私の命の恩人だからって! だからぁ、マサくんはね? い」

 ガンッ!!!!

 ――いらない子。
 
 おそらくあの女が言おうとしたのはその単語だ。しかしかき消すかのような大きな音がホール中に響き渡ったのでその場の全員が固まっていた。
 なんの音だ? 何かを叩く音? 
 次いで聞こえたのはだった。

 ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた

 ガンッ!!

 ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た ぺ た

 ――この音は……!

 ホール内の全員が入口を凝視していた。正体不明の音が絶え間なく聞こえてきていたからだ。

 「なんだ、なんの音だ?」
 「ちょっと、誰か確認してきて!」
 「今は受付以外は誰もいない筈なんだが……」
 
 食人鬼どもは騒めき狼狽えている。誰も外に見に行く勇気は無いようだ。
 俺はこの音を知っている。この感覚を知っている。背中に虫が這いずるような強烈な不快感。その感覚がどんどん近づいてきているのが解る。
 ただこの何かをぶつけるような音はなんだ? でも確かにあの夜に聞いている気がする。
 俺は混乱した。
 あの化け物は確かに殺した筈だ。いや、違う。化け物は二匹いた。一匹は殺した。後輩が鏡を割ったから死んだんだ。
 もう一匹は……。

  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た  ぺ  た
 
 ガンッ!! ガン!! ガン!!
 
 全員の視線が集まるなかホールの扉が強い力を叩きつけられたような勢いで開く。
 そこに立っていたのは化け物を左肩に住まわせた後輩、上野恭介だった。
 右手に金槌を握りしめた上野の身体には所々返り血のような血痕がついており、なぜか靴を履いていない。また見る限りの様子も酷く、息を荒くし口から唾液をこぼしていて、見間違いでなければ左目だけ異常に黒目が大きかった。

「……ッ!!」

 上野が頭を振るうと、異常な目は元に戻っていた。あれはなんだったんだ……?
 入口に立つ上野と目が合う。
 昨日までは普段の様子の中から怒気がにじみ出ている程度だったが、今のあいつはこれまで見たことが無いほど表情を歪ませて激怒していた。
上野は怒りに顔を歪めたまま血の付いた金槌をまっすぐ姉に向け、怒気と殺気に満ちたまるで別人のような声でホール中に叫んだ。

 
「鬼畜犯罪者の皆さんにお知らせします!! 警察を呼びました!! 今すぐ神田先輩を離してください!! 離さねぇと……! 全員もれなくブッ殺します!!!」

  ホール中に響いた上野の怒声に、食人鬼どもは静まり返っていた。俺としても上野がどうやって入ってきたのかも、何故血を浴びているかもわからない。
 
(あの血……あいつここに来るまでに何があったんだ……!?)

「何だね君は! どういうつもりで部外者が勝手に……!」

 我に帰ったらしい教祖狸が人語を使って上野を食い止めようと近寄ったが、上野は血走ったような目で教祖を睨みつけながら金槌を向けた。

「なんですか。僕に何かする気ですか? 僕をあんな風にバラバラにして食べる気ですか? それ以上近寄らないで下さい! ちなみにここに入る前からずっと音声を録音しています。早く! 下がって下さい!」

 ドスの効いた声で普段の様子からは考えられないような捲し立て方をする上野を見て、俺はさっきまで絶対に開けまいとしていた口をたやすく開けてしまっていた。

(あいつ……よくあの惨状を目の当たりにして、ここまで喋れるな……。怒りとアドレナリンでわけわかんなくなってんのか!?)

 上野は教祖を睨みたいだけ睨んだ後に、周囲を警戒しながら俺の方に駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか! 先輩! 怪我ないですか!? とにかく生きててよかったです……!」

 涙を浮かべながら喋る後輩を前に何から聞けば良いのか言葉が出ないままで居ると、上野は次にすぐ近くにいた俺の元両親に金槌を向けた。

「いいんですか? 逃げなくて。本当に来ますよ、警察。ここで僕や先輩にさらに何かしようものなら容赦しませんのでお忘れなくです!! 離れて下さい! ほら! 早く!」

 上野は躊躇なく金槌を振り回した。元両親が悲鳴に近い声をあげて俺たちから離れていくのを、上野は忌々しげに睨みつけ続けていた。
 今度はその様子を見ていた姉が不機嫌丸出しの表情でこちらに歩み寄ってくる。この表情だけで俺はいくらか溜飲が下がる。やるじゃねえか上野。

「なんなの貴方……。どこから入ってきたの? それに警察が簡単にこの施設に入り込める訳ないでしょ。来たところで門前払いなの。嘘つくならもっとマトモな嘘つきなさいよ。バカな子」

 姉を視認した上野は今度はそちらに金槌を向ける。手の中で金槌を返して鋭利な釘抜きを下にしている様子を見る限り、どうやら上野が一番警戒しているのはあの女のようだった。

「嘘じゃありません! 本当に通報してもらいましたから!! 僕らだって貴方たちの犯罪の証拠を押さえないと警察が調べてくれないことくらい解っていますよ。ナメないでください」

 姉が何か言い返そうと口を開いた瞬間、外からパトカーのサイレンが聞こえてくる。
 その場にいた幹部連中は目に見えて慌てふためき始め、早いやつはホールの扉から出て行こうと走り出している。近くにいた元両親の化け物も逃げ出す算段をしていいものか教祖に何か確認しようとしていた。
 目の前の女はますます機嫌が悪くなり、舌打ちしながら上野を睨みつけた。睨まれた上野は一瞬怯んだが、負けじと声を引くして応えた。

「どこから入ってきたかですけど、三階です! 不用心ですね。三階は窓が開いていましたよ。だから僕のことを通報してもらったんです。壁を登って三階から侵入する僕の姿を動画に撮って通報に使ってもらいました!」

「お、お前、三階まで登ったのか!? 壁を!?」

 せっかく命懸けで助けにきてくれた後輩へ最初にかける言葉がこんな言葉で情けなくなるが、聞かずにはいられなかった。
 上野は俺が喋ったので少し安心したのかいつも通りにっこり笑って答えた。

「はい! 僕、どこかに登るのすごく得意なんです! いざとなったら裸足になれば大抵どこでも登れますよ。まあ今回は掴むところが少な過ぎてちょっとキツかったですけど」

 三階建ての建物の壁を登ることを「すごく得意」の一言で片づけていいのかは甚だ疑問だが、今ツッコんでいる余裕は無かった。
 手をひらひらさせた上野の指には出血が目立っている。
 手足の出血は壁登りしたからかと俺は勝手に納得して少し安心した。おそらく顔や首についた血痕も手が出血した状態であちこち触ったせいなのだろう。
 痛々しくて申し訳ないが、受付を突破するために大暴れしたとかでは無さそうで少しホッとする。おそらく周囲の食人鬼どもは上野の血痕を返り血だと思っているだろうが、そこは黙っていることにしよう。箔が付くからな。
 上野は女に向き直り睨みつけた。

「外には協力者がいます! あの人は僕なんかよりよほど頭が良いですから、警察にも上手く話してくれます! なので貴方たちはもう終わりです!」

 女はたじろぐ。自身も逃げ出す算段をしなければいけないことに気づいたようだ。
 上野は女の悔し気な表情を見て勝ち誇った表情をした後、俺の手錠に釘抜きを何度も打ちつける。鍵がすぐに外れるような事はないが手錠は割と早くひしゃげていき、無理矢理手を抜けるほどの隙間が出来た。
 
「貴方の顔……忘れないわ。後輩くん」

 無理矢理手を引っこ抜く俺を忌々しげに睨みながら女が呟く。
 上野は女を睨み返そうと顔を上げるが、すぐに顔を背けてしまった。側にいる俺にしか聞こえないような小さい声で「顔、怖……。神田先輩そっくりじゃん……」と呟くのが聞こえる。マジでぶん殴るぞ。

「じゃあね、マサくん。これありがとね。これでこの教団を解体しやすくなっちゃった。私が次の教祖になった暁にはまた招待するね!」

 女は無理に作った余裕の表情で俺のスマホを振って見せた。この状況でまだ時間を割いてまでマウントを取ろうとしてくるのには感心する。やはり人間より野生動物に近い化け物らしい。
 しかしあれを持って逃げられたらせっかく収めた証拠がいくら改ざんされるか分かったものではない。

――それに、やられっぱなしは性に合わねえ。
 
「上野……悪りぃ。足の方もぶっ壊してくれ」

 今すぐ突っ走って追いかけたいのを堪えながら頼むと、上野は俺の考えを察したのか何も聞かず、何も言わず足にかけられた枷に金槌を打ち付け始めた。
 手錠がひしゃげ始めたタイミングで俺は靴と靴下を脱いで手錠から無理やり足を引っこ抜く。かかとの皮が持っていかれて、いくらか血が出たが痛みすら感じない。
 俺は上野の肩に手を置いて、なるべく落ち着いた声で話した。ここまで来てこれだけしてくれた後輩に無闇にブチ切れた態度を見せたくはない。まともな会話はおろか、まだしっかり礼も出来ていないのだから。

「上野。ありがとな、マジで。後でちゃんと礼するからな。俺は今はあのクソアマを追いかけてスマホを取り戻す。アレにはあいつらの犯罪の証拠が入っている。編集されたりしたら最悪だ。お前はとりあえず早めに逃げろ」

 もう幹部や教祖、元両親さえもホールには居なくなっていた。残っているのはトップを失って狼狽える下っ端信者どもだ。すぐにここを出れば逃げられるだろう。
 肩を数回ポンポンと叩かれた上野は心配そうに俺を見ていたが、俺が立ち上がって走る準備をし始めると後ろから「先輩ッ!」と声を掛けてきた。
 俺が振り返ると、上野はこちらにもう一本の金槌を投げて寄こした。見覚えのある金槌でやたら手に馴染む。やるじゃん上野。
 
 「ありがとな上野! あのクソ女……俺を殺しておかなかった事を後悔させてやる!」

 俺は化け物を追いかけて全速力で走りだした。
 
 ――ナメやがって化け物め、ぶっ殺してやる。

 ◇

  気色悪い施設の廊下を全速力で走り抜けていく。
 この建物全体もうっすらと実家の臭いがしていて、息を吸うだけで気分が悪い。あのケダモノどもめ。俺の家に変な臭いつけやがって死ね。

(あのクソ女、何処に行きやがった……!)

 本当だったら孤軍奮闘してくれた後輩をあんな場所に一人残してくるなんてことはしたくなかった。警察も来るしおそらく逃げられるだろうが、なるべく早く済ませて戻ってやりたい。

 ――いた。

 化け物女の後姿を捉えた俺は更に加速した。
 あの女、一時期余命宣告をくらう程具合が悪かったとは思えないくらい身軽で素早い。背後からの足音に気づいた女は、振り返って俺の姿を確認し舌打ちをする。

「あら、もう追いついちゃったのマサくんたら。大丈夫よマサくん。この動画はちゃんとおまわりさんにとどけてあげるから」

 苦々しい顔をしながらも余裕のある文言で煽ってくるバカ女を睨みつける。テメェの都合よく編集して渡されたんじゃたまったもんじゃねえんだよ死ね!

「そんなんどうでもいい! てめえをぶっ殺してえだけだ!」

 ついうっかり本音が漏れ出ちまったらしい。まあ今までで一番腹立ってるからな。本音ぐらい出るよな。
 つまりそういう事だ。とにかくぶっ殺してやる。

 女は走りながらこちらを見てニヤりと笑う。何が可笑しいのか知らねえが今にそのムカつくツラを抉ってやるからな。俺が殺す勢いで睨みつけると、女はけらけら笑った。

「やだぁマサくんそんなに怒っちゃってぇ! 昨日まであんなに優しかったのに〜! またギュッてしてあげよぉかぁ?」

 死ね。
 
「気色悪りぃんだよこのクソアマぁあぁ!!」

 俺は怒りに任せて金槌を横投げした。投げられた金槌は綺麗に回転しながら飛んでいき、釘抜き部分が化け物女の右腕に刺さって血飛沫をあげた。ざまあみやがれ!

「ぁぐッ……!!」

 女は呻き声をあげてうずくまる。腕からはだらだらと血が流れ、さっきまで手に持っていたスマホは手から落ちて女の足に当たり、廊下を滑って隅の方までいってしまった。
 女が止まった隙に加速する。
 痛みに耐えられずその場でしゃがむような体勢になった化け物女は俺の姿を確認して顔を歪めた。立ち上がる前に仕留めてやる。
 俺が廊下で座り込む女に追いつき、思い切り蹴飛ばそうと足を上げたところで女はこちらを見てにっこりと笑った。

「ねぇ、マサくん……。お姉ちゃんさ、入院して病気のまま死んじゃえばよかったのかな?」

 ――え?

 言葉が出てこない。今まで何回も考えたが、明確な答えが出せないままだったから。
 あのまま死ねば良かった? そんなことないのか? でもこいつがあの時死んでいれば両親も宗教なんかにのめり込まずに済んだ。でもそれって考えていいことなのか?混乱しフリーズしている俺を見てせせら笑った姉は立ち上がって俺の鳩尾に膝蹴りを打ち込んだ。
 俺は思ったより強い蹴りに不意を突かれ膝をついてしまった。一瞬呼吸ができなくなり、目の前が軽く暗転する。

「このッ……! クソ女ァ……!!」

「かぁわいい! マサくんたら! ガキのクセに生意気なんだよバァーカ! 一生そこで這いつくばってろマヌケ!」

 姉は俺をせせら笑った後一瞬スマホを探したが発見出来ず、腕を押さえて逃げていった。クソアマが……!
 俺は滑っていったスマホと血のついた金槌を回収してから女の後を追う。走り始めてすぐにさっき上野が言っていた事を思い出した。

(お前の言う通りだ上野……! あのバカ女と俺、ムカつくくらい似てやがる……!!)

 腕から血を流した女は一階隅の部屋の中に逃げ込んでいき、当然のように鍵を掛ける音がする。

(面倒くせぇ事しやがって……!)
 
 俺はすぐにその部屋の前に辿り着き、今までの怒りを全てぶつける勢いで木製の扉に金槌の釘抜きを叩きつけた。

「俺が! てめえの!! 赤いラム酒になってやるよ!!」

 少し前にオカ部で見た有名な洋画を思い出したが、あの女に扉の側で悲鳴をあげて動けなくなるような殊勝さはないというのは解っていた。
 釘抜きを打ちつけられてボロボロになった扉の隙間から部屋の中を見る。

(ジョニーが登場! ってか? クソが……やっぱりもう居やがらねえ)

 部屋の窓が大きく開け放たれているのが見えた。室内には人の気配がないので、おそらくそこから逃げたのだろう。
 俺は力が抜けてへたり込みたいのを堪えて、金槌の木屑を払ってから柄をズボンのポケットに入れた。

(疲れた……。でも死んでねぇだけいいか……。早く上野を探しに行かねぇと……)

「雅弘!! 大丈夫だったか!?」

 ヘロヘロになって歩く気力も無く俯いていた俺は、前から声をかけられて飛び上がる。
 秋葉先輩だ。上野の協力者が居るという発言でなんとなく解ってはいたが、こんな訳の分からない宗教施設の中にまで入ってきてくれているとは思わなかった。
 秋葉先輩は俺と目が合うと、近くに駆け寄ってきて俺の背を優しく叩いた。
 
「様子は全然大丈夫じゃなさそうだが、とにかく命が無事で本当によかった……!」
 
「……ありがとうございます。秋葉先輩」

 俺が頭を下げると、秋葉先輩は首を振った。

「いや、礼を言うなら恭介だ。彼は君を助けるために奔走した。俺は手伝えることを手伝っただけだ。いい後輩を持ったな雅弘」

「……はい」

 あいつがいなかったら今頃どうなっていたかわからない。上野にはいくら礼を言っても足りないくらいだ。
 秋葉先輩は俺の顔色と状況を軽く確認した。

「恭介と会ったよな?」
 
「はい。逃げろとは言いましたが、俺のほうが頭に血が昇ってここまで一人で来てしまったので、今から探して迎えに行ってきます」
 
「よし、俺も行こう。ここにいたら君が凍死しそうだ」

 室内だし、俺は小説家でも管理人でもねぇけどな。
 俺が扉を破壊し隙間から中を覗いたのを見たらしい秋葉先輩は、オカ部らしい冗談で締めた。

 ◇

 俺は早足で歩きながら秋葉先輩に事のあらましを話した。この宗教の連中は同物同治とかいうのを信じていて人を食うことや、俺の霊感が欲しくて目を狙っていたらしい事だ。
 秋葉先輩は上野と部室でこの宗教を調べていてこの事実に辿り着いたらしい。俺はほとんど秋葉先輩が突き止めたとばかり思っていたが、上野もかなり頭を悩ませながら貢献したらしい。おお……やるじゃん上野!
 集会の様子なんかも話しては見たが集会を思い出す度、色々後回しにしていた感情が押し寄せてきた。

 ――気持ち悪りぃ……。

 足がふらつく。靴の底がきちんと地面を踏みしめられていない気がする。
 あのクソ女の呪言が俺の頭に蔓延って、昨日の朝突き飛ばしてしまった中年女性の顔がチラつく。突き飛ばすつもりもなかったのに。昨日の朝まで生きていた人が、その日の夜に死んだ。
 俺は目の前が回転するかのような感覚に襲われ、足がもつれて膝をついた。

「雅弘、大丈夫か?!」

 秋葉先輩が心配している。早く立たねぇと。もう少し、もう少しだけ考えるのを後回しにする。

「大丈夫です。なんか、色々ありすぎて……。疲れがドっときたみたいで……。早く、上野のとこに行ってやらねえといけないのに……」

 俺が立ち上がると、秋葉先輩は肩を貸すか聞いてくれたが、悪いので遠慮しておいた。
 こんなところにまで来てもらってしまっているのにこれ以上迷惑をかけたくない。
 そう思っていながらも、俺の口からはポツポツと抱えきれなくなった感情がこぼれていった。
 秋葉先輩には申し訳ないが、精神の方が限界でせめて少しでも楽になりたかった。

「秋葉先輩……。俺、人の肉を食わされたみたいです。その肉にされた人ってのが、俺が朝突き飛ばしちまったおばさんで……。俺が、俺が突き飛ばしたせいで傷物になったから食われたって……姉貴が言っていて……」

 俺は話しながら歩いていられなくなって立ち止まってしまう。疲れはもちろんあったが、感情を吐くのだけで精一杯になってしまったのだ。
 秋葉先輩も立ち止まり、黙って俺を見ていた。

「あの女に逃げられて落ち着いたら、俺のせいで人が死んだって、そればっかりが頭を回って……。なんか、すみません。こんなときに変な話しちまった。忘れてください」

 こんな中途半端に自分が好きなだけ吐くなんて、慰めて下さいといっているようで最悪だ。カッコ悪りぃ。
 楽になった証拠なのか、急に恥ずかしくなって後悔する。
 話を聞いていた秋葉先輩は無表情だった。しばらくして「……そうか」とだけ言うと、ズボンのポケットから何やら細くて長い工具らしき物を二本取り出し、俺の方へ歩いてきてしゃがみ込んだ。
 何が起きているか解らない俺を気にせず、秋葉先輩は取り出した工具を俺の足にかけられた手錠の鍵穴に突っ込んでカチャカチャと器用に動かした。

「雅弘。変な話ではない。吐き出していいんだ。辛かったな。ただ、雅弘。君のお姉さんは同物同治を信じていると言っていたんだろう?」

「え、ああ……はい」

 秋葉先輩は鍵穴をいじり続けている。先輩の感情も考えも俺にはまったく読めない。

「それは他の生き物の良い部分を食べることでそのまま自分たちの体に反映されると信じているということだ。

 ガチャ

 俺の足から枷が取れた。
 秋葉先輩は立ち上がり、今度は俺の手の枷に取り掛かった。相変わらず感情や考えが読めない。
 だがこれが下手な励まし等ではない事だけは解る。きっと嘘に違いない、とかお前のせいじゃない、とかそういったものではない。
 この人は事実を述べているだけだ。動物の生態を語るように、論文の間違いを指摘するように、ただ事実を述べているんだ。
 だから秋葉千晴先輩は俺の食った物が人肉であることは否定しない。おそらく間違っていないからだ。ただ先輩は、あの食人鬼共は傷物になったからという理由では人を食わない、とそこだけを訂正したに過ぎない。
 俺が食ったのは人肉であること、突き飛ばしてしまった女性の痛んだ部分をよけたモノかもしれないことは完全に否定しないまま秋葉先輩は続けた。
 
「それは君のお姉さんが君の心を傷つける為に言った最悪な嘘だ。雅弘には悪いがあまりに卑劣で反吐がでるな」

 ガチャ

 手の枷は足のものよりも圧倒的に早く外れた。
 話している間も終始無表情だった秋葉先輩は、外した手錠をまじまじと観察してみた後に興味を無くしたような表情になり、手錠を廊下に捨てた。おそらく先輩からすると物珍しくなかったのだろう。
 圧倒的な説得力と共に俺の罪悪感を打ち砕いてくれたことはありがたいし、先輩が気を遣って掛けてくれた言葉を疑うのは心苦しいのだが、この人は姉に対して本当に卑劣だと思っているんだろうか。
 秋葉先輩は「」という蓄積データを基にして話しているんじゃないだろうか。
 そう思ってしまうくらい、今の瞬間の秋葉先輩には何の感情も無かった。
 あの碌でも無い姉は確かに厄介だが、秋葉先輩のような人間こそ敵に回したく無いとすら思う。
 オカルト同好会で唯一マトモな先輩だと思っていたが、もしかしたらこの人が一番異常なのかもしれない。
 しかし励まされた事は事実だ。とてもありがたい事だ。俺は鳥肌の立った心にそう言い聞かせて秋葉先輩にお礼を言った。

「……なんか、ありがとう……ございます」

 秋葉先輩は俺の言葉を聞いて、思い出したようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「大丈夫だ雅弘。また何か悩んだら相談してくれ。俺にとっては君も可愛い後輩の一人だからな。さあ、恭介を迎えにいこう」

 この宗教の人食いどもより、もしかしたらこの人の方が怖いんじゃないか。そう思う心を今はねじ伏せる為に俺は疲れた体に鞭を打ち、走って後輩の下へ向かった。

 ◇

 「ありがとな上野! あのクソ女……俺を殺しておかなかった事を後悔させてやる!」

 そう言い残して神田先輩は金槌を片手に握りしめ、尋常じゃないスピードでお姉さんを追いかけていった。いきなりトップスピードで走りだしたようにしか見えない先輩の体勢はおそらく無意識だろうけどいつもより低めで、豹とか狼とかの狩りを思わせる。うっわ怖……。

「僕があの追いかけられ方したらトラウマ確定だな……」

 あんなのから逃げられる気がしない。悪いことはしないに限るね。
 ピンチの山場になんとか間に合った僕は、怒りと勢いに任せて金槌を振り回しながら怒鳴りまくってどうにか神田先輩を助け出すことに成功した。

(つ、疲れた……!)

 強がってはみたものの、全速力自転車漕ぎからの三階まで壁登りを経て集会襲撃という地獄のトライアスロンは相当キツかった。しかもときたまこっくりさんに話しかけられるハンデ付きだ。もうこれは誰か僕にメダルをくれるべきでは?

(疲れたけど神田先輩が無事で本当によかった……! 僕! 今度はちゃんと助けられた! エラいッ! よしっ! 僕も逃げよう!)

 僕が一人喜びを噛み締めてから、先輩に続き出口へ行こうとするとホールの中心、スポットライトの当たった場所にはまだ数人の信者の人たちがひしめき合っているのが見えてしまった。信者の人たちはみんなすすり泣いている。
 教祖様だって幹部の人たちだってみんな外に逃げ出したのに、この人達は逃げなくていいのかな。
 教団崩壊の直接の原因を作った僕が気にしたことではないのは解っているけど、つい足を止めてしまった。そしてすぐに逃げるんだったと思い直すことになる。

 ――そこにいる信者全員がすすり泣きながら笑顔を浮かべ、解体されたばかりの生肉を貪っていた。

「二倉居士ありがとう! ありがとう!!」
「二倉居士はお酒もタバコもやってなかったから、きっと肺も肝臓良いものだぞ! ほら! こんなに綺麗だ!」
「ああ……私たちはこれからどうすればいいのかしら。このままじゃ俗世で生きていけるだけの身体になれない」
「でも今は新鮮なうちに二倉居士を食べ切ってあげないと。せっかく私たちの為に優良体を提供してくれたんだから」
「二倉居士ありがとう、おいしいよ。ありがとう」
「今は幹部も瞳想大姉ドウソウダイシも居ないから心臓も食べられるぞ! 食べる人ーッ!?」
「はい!」 「はーい!」 「私も!」 「こっちにも分けてくれ!二倉居士の心臓は強い音がしていた!」

 僕はあと出口に向かえばいいだけだったのに、その場から動けなくなってしまった。
 見たくないのに目が離せないのは、僕の中に残る動物としての本能なのかもしれない。もし目を離して襲われでもしたら、僕はあの人たちにとって比喩ナシの捕食対象だ。そういう意味では今僕の目の前にいるのは種を食す天敵だった。
 いくらアドレナリンドバドバだったとはいえ、よくこんな状況であれだけ怒鳴り散らせたな僕……。
 自分に感心してみてもあの時の勢いは神田先輩と一緒に走って行ってしまったらしく、ここには残りカスのような大して役に立たない僕が居るだけだ。

(扉まで行けばなんとかなる筈。後は振り返らないで走ればいい)

 疲れて体力が、とか言ってる場合じゃない。僕はゆっくりと踏み出し、音を立てないように扉に向かった。
 幸い、まだ信者の人たちはちょっと前まで人だったお肉を食べるのに夢中らしい。今は心臓をみんなで分け合っている。
 僕は信者たちから目を離さずにできるだけ速足かつ目立たないように歩いた。……のに。

 ぐちゃ

「ぅうぇ……?」
 
 なにこれ。なんか踏んだ。嫌な感触。いままで踏んだことのない、やわらかいのに弾力のある……なにこれ?
 あ、うそ。なんか見たことある。これ知ってる。これって……。

 ――目玉だ。人間の目玉がなぜか僕の足元で半壊していた。
 
「うわ、うわうわあああああ!!」

 間抜けな声を上げてしまった。叫び声なんか気にしてられないくらい血の気が引いているからしょうがない。
 なんで目玉!? 普通に床に落ちていて良いものじゃない! は、裸足なのに! 酷い!
 僕はちょっとパニックになってしまい、大騒ぎしながら足を振ってなんとか嫌な感触を床にこすりつけて無くした。
 そして冷静になる。でも、ホールの中には僕がパニック状態で大騒ぎした声が響き渡った後だからいまさら冷静になってももう遅い。自分の目に涙が滲むのが分かった。
 
 ――あぁそうだ。今、声あげたら……ゲームオーバー、なんだった……。
 
 涙目の僕が「あっ」と声をあげながら信者の人達を確認すると、案の定みんなが僕を見ていた。そして示し合わせもせず全員がこちらに歩き出していた。
 ゆらゆらと近寄ってくる信者の人たちの口には血が、肉がたくさんついている。手も白い装束みたいな服も全部血まみれだ。
 そして全員がとてもとても嬉しそうに笑っていた。
 
「あらあなたまだいたのね。瞳修居士ドウシュウコジのおともだちの子」
「そういえばこの子のせいだよなあ。この子のせいで瞳修居士ドウシュウコジを食べられなかった。瞳捧居士ドウホウコジが提供してくれた優良体だったのに」
「この子さえ来なければいずれ俗世を乗り切る完璧な体になれたのよね」

 やっぱり神田先輩を食べようとしていたらしい人たちに、僕は最後の威勢を集めに集めて金槌を向けた。

「ち、近寄ったらこれで……」
「あなた肌綺麗なのね」

 その言葉と同時に悪霊に、左肩を引かれた。

 僕の精一杯の脅しなんて全く聞かずに、信者のおばさんは僕の顔をまっすぐ見ながら言い放った。そして、その言葉を皮切りに他の人たちも僕を舐めるように見始める。まるで買い物をしているときのような目がたくさん僕を見てくるのがとても怖くて気持ち悪い。
 肩は今も強い力で引かれ続けている。この人たちが僕を殺そうとしているのが感覚で解ってしまう。

「あらほんと。目も可愛いけどダメみたい。眼鏡は視力矯正用?」
 
「臓器はみんな健康そうだぞ。若いし」
 
「そういえばこの子、壁を登ったって言っていなかったか!? 怪我してるのは指だけみたいだから外して、脚はみんなで分けよう!」

 じろじろ見ながらみんなで僕の品定めをしている。ここを食べようあそこは外そう、強くなれる、おいしそう……いくら好き放題に言われても僕は金槌を握りしめて後退りするしかできなかった。後ろには壁しかないのに。
 僕が腰を抜かしている間に、解体現場から大きなナタを持ち出しているおじさんが見える。
 ヤバい! でも立ち上がれない、足に、力が入らない。全員が見ている。僕を、食べ物として見ているのに……!
 左肩が凄く痛い……!!

「また心臓を食べられるぞ! 今度は若い子のやつだ! 食べる人ーッ!」
「はい! はい!」 「はーい!」 「私も!」 「俺にも! 俺にもくれぇ!」

 うわ、ああ……ああああああああああああああああああああああああ…………!!

 バンッ!

「おい上野っ! 大丈夫か!?」

 わああ……神田先輩だあ……。
 僕は状況を飲み込めないまま駆け寄ってくる先輩を見ていた。
 走ってきた神田先輩は一番近くにいたおじさんを凄い勢いで睨んだ次の瞬間、一切躊躇のない踏み込みからおじさんにとび膝蹴りを食らわせた。
 おじさんは顔面に先輩の膝をモロに食らってしまい、「ガボッ」という声なのかよく解らない音を立てて真後ろに倒れた。
 ものすごく綺麗なフォームの跳び膝蹴りだったけど、神田先輩って本当は地下格闘技場かなんかで闘ってお金を稼いでいたりするんだろうか。よし、今度聞いてみよう。
 どうやらさっきの音は扉が開いた音だったらしく、後から秋葉部長が「こっちです!」と警察の人を案内しながら入ってきた。
 
「なんだこれは……!? ぜ、全員動くなッ!」

 警察の人が怒鳴る声が聞こえて、すぐに大人数が踏み込んでくる足音がしてきた。
 
(ああ……助かったみたい……。よかったぁ……)

 僕がへたり込んでいると、神田先輩が来てくれた。
 すぐに秋葉部長も駆け寄ってくる。

「こんなとこに残してきちまってごめんな上野……! 怪我ねえか!?」
「恭介! 大丈夫か!?」

 僕はやっと知っている人の顔と声を聴いて安心して涙があふれた。正直な話、どのアタリ案件よりも怖かった。

「神田先輩と部長ー! ありがとうございますっ! 正直ヤバかったけど怪我はないです!」
 
「恭介、一緒に行けなくてすまなかったな。よく雅弘を助けた。君は本当に立派だ。さ、俺たちもさっさと出よう。ここはマトモな人間が居ていい場所じゃない」

 秋葉部長に背を叩かれ、神田先輩に肩を貸してもらい立ち上がる。ふらふらだし、まだちょっと頭が痛いけどなんとか歩ける。
 僕には神田先輩に会ったのが一ヵ月ぶりくらいに思えて、挨拶代わりにふと思い出したことを呟いた。
 
「あ、神田先輩……。僕、嫌な話してるのが聞こえてムカついたから邪魔する為に扉に金槌投げつけてやったのに……いざ入ったら先輩のご両親とお姉さんにクソほど文句言うのを忘れてしまいました」

 それを聞いた先輩はなんだか嬉しそうにはにかんで小さい声で答えた。
 
「あの音……金槌投げてたのかお前……。なんにしてもアレだけで十分だ。ありがとな上野。後でちゃんと礼するけどよ、お前が来たらこの宗教マジで潰れたぜ? すげえよ。本当に、ありがとうな」

 神田先輩にここまでありがたがられたのは初めてでちょっと照れくさいから「えへへ……」と笑ってごまかしてしまった。
 そのまま歩きだした神田先輩は、さっきの半壊した目玉が床に落ちているのを見つけて忌々し気に睨むと、靴の先で思い切り蹴とばした。

 ――この人どんな神経してるんだろう。
 
 僕たちは、心身共に満身創痍で天敵の巣から脱出した。

 ◇

  警察署の長椅子に座って、俺はぼんやり後輩の後ろ姿を見ていた。いつもの猫背がより酷くなり、よけいに小さく見える上野は、『警察署で事情聴取を受けて帰るから遅くなる』という事を何事もなかったかのように電話で伝えたせいで親の誤解を招いてしまい怒られているようだ。

「ぼ、僕は何もしてないよ! 大丈夫だって! 迷惑かけてないよ! 本当! あの、えっと、とりあえず帰ったら話すから! え? ダメだよ! やめてよ恥ずかしいから! 絶対やめてね!?」

 半泣きで親を説得しようとしている上野を見て面白がるのは一旦中止して、俺は奥の小部屋の扉を見た。
 今は秋葉先輩が中で事情聴取を受けている。あの人のことだからテキパキと答えてさっさと終わらせるのだろう。むしろそんな様子の高校生を相手にした警察官の方が戸惑うに違いない。
 俺達はあの悪夢の宗教施設から脱出した後、普通に帰してもらえる筈もなく自然な形で事情聴取を受ける事になった。あの人体解体の実行犯はもちろん、足早に逃げた筈の教祖や幹部、俺の両親なんかも逃げる前にきっちり捕まっていたらしく、今警察署内は大忙しだ。
 脱出直前に耳打ちしてきた秋葉先輩の考えで、姉から宗教施設に呼び出され不安に思った俺が上野を誘ってこの施設に来た筋書きにしようという事になった。
 秋葉先輩はさらっとそのシナリオを用意した後で穏やかに笑いながら言っていた。

「俺が動画を撮って通報した壁のぼり男は集会を襲撃しようとした元信者、という事にしよう。雅弘、集会に元信者の男が来たことの口裏合わせを頼む。特徴は大柄で茶髪で包丁を持っていた、にしてくれ。恭介が壁を登っている映像をそう言う特徴で編集してしまったからな」

 今思い出しても「何言ってんだアンタ」のオンパレードな発言だと思う。事情聴取の口裏合わせを頼むわ警察に提出する映像を編集するわしてあれだけ平然としているのはおそらくあの人ぐらいだ。後輩である俺たちが大変な思いをしないように手を尽くしてくれたのだろうが、間違いなく高校生の行いではない。
 今回の件で俺の中の秋葉先輩の印象は大きく変わった。今までは頼りになる保父さんくらいの印象だったのが一気に、考えが読めず敵に回したくない存在にのし上がっていった。
 俺が秋葉先輩に慄いている間に上野が電話を終えて帰って来た。元々疲れ果てていた上野は親に追い討ちをかけられて死にそうな顔をしている。

「嘘ついてもしょうがないと思って正直に取り調べ受けるって言ったんですけど、めちゃくちゃ疑われました。なんもしてないのに……いや、したか。内緒ですが。先輩も内緒にしといてくださいね」

「まあ、そりゃあ言わねえけど……。多分信じねえと思うぞ。息子さん、三階まで壁登っちゃったんですよ〜なんて言ってもよ」

 上野は「ですよねぇ〜。そんなことする人居ませんよねぇ〜」と困ったように笑った。する、しないではなく、できる、できないの話なのだが上野には壁登りが実はとんでもない特技である自覚はないらしい。
 俺は上野が隣に座ったのを見計らって、そちらに向き直る。
 
「なあ上野。今回は本当にありがとう。お前が心配して走り回ってくれてなかったら俺は多分目ん玉引っこ抜かれて食われてた。本当に、本当にありがとう」

 俺が深く頭を下げると、上野は狼狽えてしまったらしく頭上から「そんな! 頭下げないでください~! びっくりするんで~!」という声が聞こえてきた。
 顔をあげると上野は顔を耳まで赤くして恥ずかしそうに笑っている。

「先輩に助けてもらったお返しです。こっちはなんといっても命救われてるんで! まあそのあともずっと助けてもらってるんで返しきれてないんですけど……。でもこれで先輩の中の頼れる後輩枠はいただきですかね!?」

 照れ隠しなのか「えへへー」と笑った上野を見て思わず俺は吹き出し笑ってしまった。そんな枠は俺の中に存在しないが、もし作るならまず間違いなく上野が入る。なにせエントリー希望自体がこいつ一人だからな。そんな訳のわからん枠に入りたがる奴は上野しか思い当たらなかった。
 思わず声を出して笑った俺を見て釣られたのかなんなのか、上野もにこにこ嬉しそうに笑っていた。

「なんだソレ。まあでも……そうだな。俺もなんといっても命救われたからな。そうそう他に抜かれねえよ。安心しろ」

 何年かぶりに心の底から嬉しくなって、笑いついでに上野の背中をバンバン叩いておいた。上野は一発叩かれるごとに「ゔっ」だの「ぶぁっ」だのと声を出して顔を歪めていたが、まあ照れ隠しかなんかだろう。
 なんだか急に日常に戻って来たような、むしろ日常より良いところに来てしまったような気持ちが溢れて嬉しくなる。こんな気持ちは初めてでどうしていいかわからない。昨日から想定外の事ばかり起きて頭が疲れる一方だった俺は、久しぶりに幸せな想定外を味わった。

「助けてくれたお礼に今度ケンカの仕方教えてやるからな」
 
「え。それお礼ですか……!? それって教わってるときにケガするやつじゃ……」
 
「今日みたいなピンチのときに困るじゃん。もし誰かに喧嘩売られても俺が駆けつけるまでは軽傷で済むくらいに鍛えてやる」
 
「うわ……鍛えても僕が負ける前提なのすごい。せめて痛くない鍛え方してくださいね?」

「そんなんあるわけねえだろ。覚悟しやがれ」
 
「罰ゲームですよー! それじゃあー!」

 ◇

  秋葉先輩が帰ってくるより前に上野が事情聴取に呼ばれて行ったことで一人取り残された俺は、いよいよすることが無くなってしまいただぼーっと壁を見ていた。
 明日から家族が居ない なんていうのはもう慣れっこだ。俺の家族は五年以上前に全員死んだのだから。だから寂しさのようなものはないがやはり生活が激変するだけあって漠然とした不安はあった。
 これからどうなるのだろう。俺は、どこで暮らすのだろうか。あの家で一人暮らしするんだろうか。それはそれで悠々自適で良いとは思うが、ニオイがなぁ。

(よし。とりあえず臭いものは全部捨ててめちゃくちゃ換気しよう。そんで近所一軒一軒に謝って回ろう。そうしよう)
 
 俺があまり現実的じゃない考えに没頭していると、警察官がこちらに近づいてきた。

「神田くん? 神田雅弘くん、だよね? おじいさんとおばあさんがそこにいらしてるんだけどいいかな?」

 俺が飛び上がるように立って玄関側を見ると、心配そうな面持ちでじいちゃんばあちゃんが立っていた。
 保護者の連絡先を聞かれて仕方がなく、じいちゃんの電話番号を教えた。
 なにせ両親が逮捕されているのだから本当に仕方がないのだが、いきなり警察から電話が来て娘夫婦が逮捕されて孫が事情聴取なんて言われたらさぞや驚くだろうなと思うと申し訳なく、会ったら謝ろうと思っていたのだ。

「雅弘……!! 大丈夫か!? ケガしてないか!?」
 
「じいちゃん……ばあちゃん……。あの、俺、保護者はって言われてじいちゃんの電話番号、教えちゃって……!」

 しどろもどろになった俺の言い訳を遮るように、じいちゃんばあちゃんは俺を強く抱きしめた。安心する匂いがする。畳とか、線香とか日差しの匂い。小さかった頃に包まれていた、いつもの匂い。じいちゃんばあちゃんからは、涙が出るような良い匂いがした。

「いいんだ雅弘。いいんだ。ごめんな、いままで助けてやれなくて……。今日からうちに来い。もうこれ以上お前はなんも苦しまんでいい。もう充分だ。……充分だ……!」
 
「雅弘がいてくれて、本当に良かった。本当に……! 無事で本当に……良かった……! 雅弘が生きてるだけで、私たちは幸せよ」
 
 涙が溢れて止まらない。安心なのか、これまでの辛さなのか、申し訳なさなのか寂しさなのか情けなさなのか。俺が今まで無理矢理ねじ伏せてきたありとあらゆる感情が決壊して、涙と嗚咽になって溢れ出した。
 俺は知り合いが事情聴取で席を外しているのを良いことに、じいちゃんばあちゃんの温かい手と匂いに包まれて思う存分涙を流した。そしてその間、じいちゃんばあちゃんはずっと俺を抱きしめてくれていた。
 
 

  ◇

 次の日、俺は学校を欠席した。
 犯罪者どもと長らく生活を共にしていたり血がつながっていたりと警察からすると俺のキナ臭さは留まるところがなく、俺の事情聴取にはほぼ一日かかったのだ。厳密に言うなら俺自身についての事情聴取だ。事件や両親についての聴取は都度お呼びがかかるらしい。面倒だが仕方がない。あの異臭の中で暮らすのと比べれば奴らの余罪でもチクってやった方がスッとする分まだ良い、と思うことにした。
 警察の話によると、あの場にいた教祖や信者、俺の両親を含む幹部連中は皆逮捕されたが、姉の方は逮捕されていないらしい。俺の撮影した集会の動画にも姿は映っておらず、「マサくん。大丈夫? ちゃんと撮れたぁ?」という音声のみが入っていたので存在は確認できるものの、現場近くでの目撃証言すら得られていないという事だった。
 あの女はどこに消えたのだろう。あのままのたれ死んでいるという可能性は望み薄であるようなので、次に会ったときは確実に殺そうと心に誓った。
 警察の方でも重要参考人として目下捜索中らしい。つまり俺と警察のタイムアタックだ。これは負けらんねえな。
 施設に忍び込んだらしい壁登り男についても聞かれたので、「元信者らしい体長二メートルくらいの大柄な茶髪野郎が包丁を振り回して一階隅にある部屋のドアを半壊させていた」と証言しておいた。信者たちの証言と食い違うと首を傾げる警察官には知らないフリをした。
 
 あとは引っ越しの準備だ。
 俺はありがたいことにじいちゃんとばあちゃんの家で暮らすことになった。準備は取り調べに比べるとものすごく簡単だった。いつも持ち歩いているボストンバッグに加えて、家に置いてあった少しの着替えやタオルと数冊の参考書、除霊に使う酒瓶や札と、後輩に預けたままにしていた手に馴染む金槌を詰めただけのリュックを完成させたら実家から俺の荷物は無くなってしまった。
 じいちゃんばあちゃんちは実家に比べて学校まで少し遠くなる。じいちゃんは「家族が逮捕されたという事情もあるから、近い学校への編入を考えてもいいかもしれない」と言ってくれたが、断った。じいちゃんばあちゃんにあまり余計な金をかけさせたくなかったし、何より今まで行ったどの学校よりも居心地良くなるような気がしていたから。
 
 ◇

 俺は聴取を終えて警察署から出た。外の澄んだ空気が心地いい。深呼吸をした後、昨晩ずっと警察に押収されていたスマホを取り出しばあちゃんに電話を掛ける。ばあちゃんはすぐに電話に出てくれた。

「あ、ばあちゃん? 今聴取終わったから、これから帰る」
『車で迎えにいこうか? 遠いでしょ?』
「えっと、さっきラインきてたんだけど後輩がさ、この後自転車くれるんだって。自分は使ってないからって。だからその後輩と一緒に帰るよ」
『あら。良いお友達ね。じゃあ、やっぱり学校は変えない方がいいね』
「………………うん」

 友達。友達と言われると少し戸惑うが、特に否定もする気にはなれなかった。
 俺は電話を切ると、警察署の敷地を出るために歩き出した。一日座りっぱなしだったから下半身が凝り固まって痛む。思いきり伸びをしながら歩いていると、遠くから知った声が飛んできた。

「神田先輩ッ! おつとめご苦労様ですっ!」
 
 噂をすればバカな後輩がバカな事を言いながら自転車を押してきているのが目に入った。

「服役覚悟でかかと落とし食らわせるぞクソ上野」

 いつものように人懐こい笑顔を浮かべながら「殺す気じゃないですか~」と笑う後輩を見て本当に日常に帰ってきたと実感する。そして、あんなことがあってもずっと態度を変えずに接してくれるのが何より嬉しかった。

「疲れただろう雅弘! 顔を見に来たぞ! これは俺からの餞別だ!」

 上野の後ろからひょっこり出てきたのは秋葉先輩だ。この人は面倒見がいいからこういうときに心配して顔を出してくれる、と先日まで思っていたがどうなんだろうか。真意はよく解らないがまあ、心配してくれていたようでありがたい。
 俺は秋葉先輩の目をまっすぐ見て「ありがとうございます」とお礼を言う。そして餞別として渡されたオカルト同好会部への入部届を紙飛行機にして上野の頭に飛ばした。

「ああっそんな! 何故だ雅弘!」
 
「いてぇ」
 
 騒ぐ先輩の横で上野が間抜けな声を上げた。上野は入部届を拾ったあと律儀に砂を払ってなぜか自分の鞄にしまった。どうする気なんだそれ。
 ふと見るとさっきまで騒いでいた秋葉先輩は俺の方をみてニヤニヤと笑っていた。

「そういえばいいのか? 雅弘。部員じゃないから下の名前で呼ぶなと俺に言わなくて」

 うぐ。
 確かに俺は前まで秋葉先輩にそういったツッコミを毎回とばしていた。下の名前で呼ばれても何とも思わなくなった理由の言語化が出来ず、なんだか恥ずかしくなった俺は適当にはぐらかすことにした。

「別にもういいですよ。言っても聞かないですし。それに、意味わかんねえ名前で呼ばれるより、自分の名前で呼ばれるほうが何倍もマシです」

 秋葉先輩はそれを聞いて満足気に笑っていた。なんか負けた気分だ……。
 ニヤニヤ笑うバカ上野も調子に乗ってそこに参加してくる。
 
「僕も名前でお呼びしますか? 雅弘先輩……」
 
「お前はやめろ。これ以上距離つめてくんな」
 
「なんでですか先輩ー!!」

 ◇

 秋葉先輩と上野と別れ、俺は上野からもらったサドルの低いままの自転車を立ち漕ぎしながらじいちゃんばあちゃんちへ向かう。周囲は薄暗くなり、家路に急ぐ人々が増え、各家庭からは夕食を作っている匂いがし始めていた。
 両親、家、家族。普通の家庭がうらやましくないと言えば嘘になるかもしれないが、俺の周りにはこんなにも自分を想ってくれる人達がいると分かった。だからもういい。両親や姉との幸せだった記憶も、辛かった記憶も全部あの家の俺の部屋に置いてきた。捨てはしないがもう取り出さなくていいものだから。
 実家の前を自転車で通りかかる。家の前にはパトカーが赤色灯を消した状態で停まっている。宅内は未だ捜査中だ。中で何が行われていたかは一年中外で時間を潰していた俺には解らないが、警察の捜査が終わればキチンと中の掃除をしてあの家を引きはらうつもりでいる。外に逃げた俺と違って、宗教や他人や狂った家族に蹂躙され続けるのを耐え抜くしかなかった哀れな家だ。以て瞑すべし、だろう。
 俺はやっと苦しみから解放されたように見える最後の家族を横目で見ながら自転車を走らせた。
 
 
 ◇

  外から差し込む日差しと鳥のさえずりで自然と目が覚めた。
 時計を見ると午前六時十分を指している。
 一階の方からは微かに足音が聞こえていて、俺は寝坊したのだと悟り飛び起きた。
 
「あ……」

 しかしそこに広がっていたのはいつもの俺の部屋ではなかった。
 じいちゃんばあちゃんが用意してくれた俺の部屋はそれまで物置になっていたせいで、まだ片付けの途中だ。色々なものが隅へ寄せられた状態になっていてまだ部屋らしくはないが、実家の部屋よりよほど居心地が良い。
 いつもの瞑想の時間を想定してしまった俺はもう一度布団に転がって、スマホをいじったりなんかしてみた。学校から遠くなり、自転車登校である事を鑑みてもまだまだ時間に余裕がある。
 飽きた頃に布団から出た俺は、布団を上げて着替えを済ませてからカーテンを開けた。もう六月なので少し湿気ているが晴れていて気持ちがいい。
 荷物を持った。もうボストンバックではなく普通のスクールバッグに変えた。中学の時部活用品を入れるのに使っていたものだが、大きさも持ち運びにちょうどいい。俺はもう全財産を持ち歩かなくてもいいのだ。
 洗面所で歯を磨いて顔を洗う、洗面所はピカピカではないがちゃんと清潔で異臭なんてしなかったし変な壁紙やおかしな印刷物も無かった。
 長い付き合いになっている整髪料をいつもよりすこし多めに取る。毎朝思っていたが取りすぎたくらいの時が整えやすい。我ながらあの量は少なすぎだ。

「よし。良い感じ」

 元はと言えば『家が変な宗教やってるせいで身なりが汚らしい』というテンプレの道筋を辿りたくないばかりに強がって髪を軽くセットしていたので、もうやらなくてもいいのだが、俺の中ではこの髪型が俺の髪型になってしまったのでもうやめることも出来なかった。
 まあいいか。気が引き締まるし、セットが上手くいくとその日はちょっと自己評価高めに生活できるからな。
 リビングに行くと、じいちゃんとばあちゃんが挨拶してくれた。
 
「あらおはよう。早くない? まだ時間あるよ?」
「おはよう雅弘。よく寝られたか?」

「うん。ありがとう。めっちゃよく寝た。転がっててもしょうがねえし起きてきちった」
 
 じいちゃんばあちゃんと他愛のない会話をする。フローリングより畳の方が温かくて落ち着くこと、そろそろ梅雨に入ること、近々バイトでも始めてみようと考えていること。じいちゃんばあちゃんは俺にたくさん話しかけて来てくれる。目を見て話すけど、のぞき込んだりはしない。
 ばあちゃんが出してくれた朝飯が美味い。飯は和食中心だけど、パンと牛乳はもう一生分食べた気がするからこっちのほうが嬉しい。
 俺はテレビでやってる天気予報だとかニュースだとか占いだとかをぼんやり見て過ごし、いい時間になってから荷物を持って玄関で支度をした。
 外に出て倉庫から自転車を出す。サドルを高くしたせいで見た目の印象が少し変わったからか、新品みたいに見える。
 そんな自転車のカゴに学校の荷物を入れてから玄関に戻る。
 俺は家の中に向かってよく聞こえるように大きな声で言った。

「行ってきます!」

「いってらっしゃい! 気をつけてね!」

 俺は異常に耐えてやっと辿りついたゴールから、また新たにスタートを切った。

 ◇

 「ふぁぁぁああぁ」

 僕は寝不足のせいで出てきた大きなあくびをこらえもしないで大きく伸びをした。
 今日は報告書の直し作業で部活が終わりそうだ。
 僕の手元には先日出したゲームセンターの報告書が帰ってきていた。報告書の上には大きめの付箋が貼りつけてあって、そこには秋葉部長が見つけた修正箇所がずらっと書いてある。僕の場合はだいたい主に漢字間違いだ。
 たまに「なんで上野君はそんなちゃんとした文章が書けるのに漢字はダメなの?」とか不思議そうに聞かれるんだけど、そんなの僕が知りたいよ。僕がわざと漢字を間違えているとでも思っているんだろうか。そんなわけないでしょ、まったくナメないでいただきたい。僕はいつだって本気で書いて本気で間違えているんだ。理由なんか 僕がバカだから の一択だ。
 秋葉部長は今日、僕の近くで報告書のチェック作業をしている。
 二年の田端先輩が前の部長デスクで地図を広げて作業しているからだ。なんでも一気に七通届いた七人ミサキの目撃情報を地点確認中らしい。いいなあ面白そうだなあ。でもなんかたまに一人の状態で目撃されたりしてるとかなんとか。大丈夫? はぐれてない? 迷子かな?
 秋葉部長は作業の手を止め、「そういえば」と言って報告書から顔を上げた。

「恭介、雅弘は今日来ないのか?」

「先輩は今日用事があるから帰るって言ってました。昨日電話したときバイト始めたいって言ってたからお店探しかと思ったんですが違うっぽいですねえ」

 秋葉部長は僕の言葉を聞いてガタっと立ち上がった。大変ショックそうな表情だった。

「バイト……! バイトだって……!? 真面目な彼がアルバイトなんかしたらここへ遊びに来られないじゃないか……! 雅弘の話を聞くチャンスが減ってしまう! 俺は引退までもう半年を切っているのに!」

「また誘ってみますよ。神田先輩、なんだかんだ優しいからきっと遊びに来てくれます」

 ちょっと寂しいのは解る。神田先輩とあんまり遊べなくなっちゃったら嫌だなあ。まあでも先輩が新しい生活のなかでやってみたいって思えたことなら応援したいししょうがないよね。
 会話が終わり少ししてから今度は僕が「そういえば」と顔を上げた。

 「……そういえば、神田先輩のお姉さんって逮捕されてなかったらしいんですが、どこ行っちゃったんでしょう? ……出来ればあまり会いたくないんですけど……」

 あのお姉さんめちゃくちゃ怖かった。顔が神田先輩に似てるのもそうなんだけど、そんな神田先輩の勢いと強さのなかに大きな悪意が見え隠れしている人だった。ダークサイド神田先輩なんて怖いに決まってる。冗談抜きでもう二度と会いたくない。たぶん次は本当に殺される。
 秋葉先輩は僕の疑問を聞いて項垂れていた状態から顔を上げた。

「ああ、それなんだけどな恭介。俺があの教団について調べるときに電話をした知り合いがいたろう? あのあとその知り合いから情報が送られて来てね。雅弘の家族が入っていた教団とはまた違う団体で同物同治を信仰している団体があったらしい。そんな団体が近隣に二つもあるとなればおそらく分家だろう。つい一週間ほど前から確認されたその団体の教祖は若い女性らしい」

 え。嘘、こわ。絶対ソレじゃん。
 僕が顔を青くしているのを見て尚、秋葉部長は続けた。
 
「なんでも、信者数十人と山奥でひっそりと暮らしているとか。恭介。雅弘と山岳付近へフィールドワークに行くのはしばらく控えたほうが良さそうだな」
 
「そ……それは先輩に伝えたほうがいいんでしょうか?」
 
 秋葉部長はすこし考えて「ふむ」というと僕にニッコリ笑った。

「いや、とりあえず今はやめておこう。雅弘の生活は安定し始めたところだ。折を見て俺から話しておくさ」
 
「よろしくお願いします。僕だと先輩に変な気を使わせてしまいそうなので、部長が上手く伝えてください」

 多分僕が伝えたら無駄にビビってるのが先輩に伝わってまた先輩に謝らせてしまう。先輩は何も悪くないのに。あの鬼畜宗教が全部悪いのに。
 僕が頭を下げると秋葉部長は僕の肩に優しく手を置いた。

「大丈夫。雅弘は強い。あの環境にいながら真っ直ぐに自分を保ってこられた。彼は何度折れても強くなって立ち上がることができる人間だ。恭介、雅弘を信じて必要なときはしっかり支えてあげなさい。今回君がそうしたようにな」

「……! はい!」
 
 秋葉部長の言葉を聞いて僕は嬉しくなる。ああ、僕、本当に今回は助けられたんだ。よかった。本当によかった……!
 神田先輩が強いのは知っている。物理だけじゃなくて、心も本当に強い人だ。秋葉部長の言う通り、あんな生活に耐えて、あんな扱いに耐えて、ずっと自分の正義を折らないで持ち続けながら他の人を助けたりもしていたんだ。
 すこし悪霊に唆されて言う事を聞いてしまったような僕とはまるで違う。だから、なにがあっても神田先輩なら本当に大丈夫だろう。もし神田先輩が困ったときは、僕がまた助けに行くんだ!
 
 
 でもとりあえず、山に入ってお姉さんを殺しに行くとか言い始めたら全力で止めよう。


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