短編小説「ぼったくり」
春眠暁を覚えずとはいうが、実際のところ冬が一番寝過ごしてしまうと思う。
2025年11月、短い秋は一瞬で過ぎ去り、忍び寄る寒さに布団から出られない日々を送っていた。
現在の私と来たら、勤めていた会社を退職し、一時的にではあるものの、悠々自適のニート生活を送っていた。
無理に起きなくてもいいという心の余裕がかえって悪い方向に作用していた。初めの内は生活リズムの乱れは心身の乱れに通ずると思い、規則正しい生活を心がけていたのだが、私の虚弱な意思はあえなく凍え縮んでしまった。
それにしたって十六時に目が覚めるのはやり過ぎた。お昼ですらないじゃないか!確かに昨日は深夜三時まで起きていたものの、にしてもこれは釣り合っていない。
アラームはかけていた、朝八時に。だがこのアラームでは起きられないことは分かっていた。これはいわばジャブのアラームで、事実私はアラームを止め何の迷いもなく二度寝した。
しかし本命がまだあった、九時だ!私の経験上、二度寝してすぐに次のアラームに起こされてとて、中途半端な睡眠はかえって寝足りなさを意識させるだけだった。ので、三度寝は不可避だった。
なのでしっかりと一時間二度寝したところに追加のアラームをかけたのだ!……だが、今日の私はそれでも眠り足りなかったらしい。あえなく三度寝を極めた私はこの時間まで眠りこくってしまった。
流石にここまで寝過ごしてしまうと私は自分に失望してしまった。あまりにも怠惰が過ぎる。
自分に喝を入れるため、普段はお湯でしていた洗顔を今日は水でやった。完全に目が覚めた。
意識とともに身体も目覚めたらしく、途端に空腹感に襲われた。朝食はコーヒーとトーストと決まっていた。食器棚に手をかけたところで気づいた、これは朝食ではないということに。
さて、困った。果たして今から食べるべきはトーストか否か。
考え方はいくつかある。まずは時間がどうあれ普段寝起きに食べているものを食べるべきだという考え、それなら私はトーストを食べるべきだ。
もう一つは時間を考慮し、昼食、もしくは夕食に相当するものを食べるべきだとする考え、しかしこれは考えながら自分でも引っかかったところだが、現在時刻は十六時、昼食か夕食かという問題が新たに浮上してくる。
最後の選択肢は、とりあえず今の空腹具合に合わせたものを食べるべきだという考えだった。
うむ、それがいい。シンプルかつスマートな答えだ。
思いのほか腹が減っていた私は、スーパーに買い出しに行くのも面倒で、家中を漁って見つけたレトルトのカレーやカップ焼きそばを喰らった。
それでも昨夜二十二時にシュークリームをつまんで以降絶食状態だった私の胃袋は満足しなかったので、正月以来日の目を見ることのなかった切り餅をたらふく食べ尽くした。
いよいよ満腹になった私は、今日はもう怠惰を甘んじて受け入れようと思った。
少しの向上心もなくスマホゲームの周回クエストを消化して、今日という日も消化した私だが、零時を過ぎた頃合いで、ちゃんとしようと思った。今日は怠惰を享受しよう、と決めた今日とは即ち昨日のことであり、日付が変わった今日はちゃんとするべき今日なのだ。というわけで生活リズムの改善のため、もう眠りにつくことにした。
布団に入り目を閉じる。眠れない。
眠れない?そりゃそうだ。十六時までたっぷり寝ていたんだもの、眠れるわけがない。でも目を瞑っていればそのうち眠くなるかも。
一時間が経過した。眠れない。
極めつけに腹が減ってきた。餅というものは腹持ちが良いもので、ここまでよく耐え抜いてくれたが、どうやらここまでのようだった。
空腹を認めるとそのことに意識が持っていかれてしまい、余計に眠れなかった。次第に寝ることよりも飢餓感の方にウェイトが置かれるようになった。
仕方がないので何か食い物はないかと家の中を物色する。が、夕方の私が既に食いつくしてしまったため何も残っていなかった。
すごすごと布団の中に戻ったものの、毛布にくるまっても何も解決しなかった。それから三十分が過ぎたあたりで意を決し、夜の街へと繰りだすことに決めた。
私が暮らしているのは閑静な住宅街と呼ばれている地域で、駅前まで出ないと飲食店の類はなかった。そしてその駅前の店も日を跨ぐまでには終業しており、辺りにはただ街灯の明かりが灯るのみだった。
もう少し先まで足を伸ばしてみることにした。風にさらされた耳たぶが冷たい。暗がりの中をあてどなく彷徨っていると、なにやら路地裏の一角が怪しく照らされているのを見つけた。
目に悪そうな光を放っていたのはどうやらネオンサインの立て看板で、そこには「居酒屋 金時屋」と書かれていた。
駅から離れたこんな路地裏に居酒屋が?一応スマホで検索してみるも一件もヒットしなかった。
看板によるとお店はビルの地下にあるらしい。気乗りしないところもあったが、もう空腹の限界だった。ついでに寒い。
私は焚火に集る蛾のようにゆらゆらと地下へ吸い込まれていった。
「……いらっしゃいませ」
居酒屋にしてはやけに落ち着いたトーンの挨拶だった。いや、チェーン店ならまだしも、個人店なら料理一筋の寡黙な仕事人タイプの店主もいるか。
しかし、この男の出で立ちはどうもそのようには見えない。年のころは四十代後半といったところだろうか、髭は綺麗に剃られており、肌ツヤもいい。ついでに銀縁の眼鏡をかけており、なんというか、身綺麗だ。極めつけに何故か白いシャツに黒いベスト、さながらバーテンダーのような恰好をしていた。
「カウンターへどうぞ」
店内を見回してみる。客はいない、店員もこの男(店主なのだろうか?)以外いない。二人きりだ。
改めて内装に意識を向けると、床は黒を基調としたタイル張り、テーブルは木でできており、和モダンの要素が強い店に思えたが、壁に飾られたエレキギターが調和を破壊していた。
「あの、ここは、何屋さんですか?」
「何屋かと言われれば、正真正銘居酒屋でございます。当店ではお客様のあらゆるニーズにお応えするため、ジャンルレスな様々な料理を提供しております」
この男、思ったよりよく喋るな。
「ご注文はそちらのタブレットからお願いします」
タブレット……?目の前で一対一のこの状況で?
……いや、まあこんな時間でなければもっとお客さんがいるのが通常であるからして、不自然なことではないのか。
タブレットに目をやると、確かに和洋中どころではない様々な文化の食べ物がずらりと並んでいた。正直、とてもじゃないが全てに目を通すことは出来そうにない。
たまにテレビで紹介される定食屋で「お客さんの要望聞いてったらどんどんメニュー増えちまってよ!」とかいって気づいたらメニューが千を超えていた、なんてお店が紹介されることがあるが、それが近代化したらこうなるのか。メニュー表にするとかさばるがタブレットならその心配はない、か。なんだかカラオケのデンモクみたいだ。
折角だから色んな国の料理を食べよう、タンドリーチキンにナチョスに酢豚、寒いからもつ煮込みもいいな。飲み物は……ビールでいいか。
それらをタブレットに打ち込み注文を押すと、ジジジ・・・と伝票がにじり出た。それを店主は一瞥してキッチンの上の方に磁石で貼り付けた。なんともシュールな光景だ。
ほどなくしてビールとお通しが運ばれてきた。驚いたことに、店主がビールを持ってきたときもキッチンからは調理の音が聞こえてきたので、他にも店員がいたらしい。私が注文するまで全く人の気配はしなかったのだが。
ビールは過不足なく美味しかった。もっとも、ビールというものは冷えてさえいれば大抵は美味しいのだが。(逆に言うとどんなに高級なビールでも冷えてなければ不味い)
問題はこのお通しだ。それは私がこの世に生を受けてから今日まで一度たりとも目にしたことのない、まるで魔法薬の材料のような青紫色をした豆の煮つけだった。
いきなり口に運ぶような蛮勇さは勿論持ち合わせていないので、戦々恐々としながらまずは匂いを嗅いでみることにした。
うっ……ナンプラーとパクチーとブルーチーズが混ざったような匂いがする……
店主がちらちらとこちらを見てくる。
「当店はお通し代は無料でございますので」
店主は何を勘違いしたのかそんなことを宣った。
違う、そういう問題じゃない!
無料なら残したって損はしないんじゃないか。そんな風にも考えたのだが、店主から絶えず注がれる熱視線が突き刺さる。それはなんで食べないのという純粋な疑問のようでもあり、自慢の料理をはやく食べてもらいたいという店主の無邪気さの現れのようでもあり、いいからさっさと食べろという命令のようでもあった。
どうやら、食べないことには先に進めないことを悟った私は、ついに観念して、そして意を決して豆を口に放り込んだ。
私の味蕾がその得体の知れない豆から感じ取った味の情報は、理外にもその色や匂いからは想像し得なかった甘酸っぱさであった。
というか……美味だった。それも、とてつもないほどに。異常な体験に一瞬脳みそがフリーズした。
……ナンダコレハ?いままで経験したことのない味わいだ。いや、これはそもそも味なのか?味覚というよりもはや体験に近い気がする。
ある種、ゲームのバグに近いかもしれない。毒々しい色、強烈な匂い、なのに爽快な甘みと酸味。その混じり合わない情報の処理に脳がオーバーフローを起こして吐き出された結論が桁違いの快楽物質を放出してしまったのかもしれない……そうでもないと説明できない味だった。
その後、私が注文した品々が運ばれてきたが、どれも常識の範囲内のもので私は落胆してしまった。間違いなく美味しかったのだが、もうその程度では満足できない体になっていたのだ。
「あの、すみません。お通しの豆って注文できますか?」
「お気に召しましたか。ご提供はできますが、お通しではなくご注文になりますので、お代はいただくことになりますが」
「それでいいです、お願いします」
そうして再び私の前に現れた豆は、やはりどう見ても、人に残された野生の本能が警告を発する見た目と匂いをしていたが、やはりありえない程に美味だった。
皿に食べカスも残らない程食べ尽くし、しばし余韻を味わって、何気なく時計を確認すると朝の五時になっていた。いい加減そろそろ帰らなくては。
「お会計お願いします」
かしこまりました。と言って店主はおもむろに電卓をたたき始めた。そこはアナログなのか。
「七点で、お会計八十七万円になります」
「はい、八十七万円ね……八十七万円!?」
「八十七万円です」
えっ……いやいやいや、え?八十七万円?確かにいまコイツはっきり八十七万円って言ったか?
それって、つまるところ、世間一般でいうところの……ぼったくりだ。
「ぼったくりだ!!」
ああ、油断していた。いくらこの辺が治安のいい地域だとは言え、百パーセント安全とは限らないのに!大体、おかしいと思うべきだったんだこんな変な店!なのにあの時の自分ときたら、空腹で頭が上手く回ってなかったのか!?この阿呆め!
「……いえ、お客様。ぼったくりではありません」
なにをいけしゃあしゃあと抜かしやがる。
「ぼったくりじゃないって?じゃあこの勘定の内訳を言ってみろ!」
すると店主はタブレットを見せつけるように差し出してきた。
「いいですか、まず生ビールが一杯四百九十円で二杯頼まれたので九百八十円。タンドリーチキンが千三百八十円、ナチョスが九百六十円、酢豚が七百五十円、もつ煮込みが四百八十円。それからインディゴビーンズの煮つけが八十六万五千四百五十円、合わせて八十七万円になります」
「い、いんでぃごびーんずが……?」
「八十六万五千四百五十円です」
インディゴビーンズというのはあのお通しの青紫の豆のことだろう。確かに見たことない食材だったが、いや、それにしたって。
「い、いや、流石に高すぎるだろう!」
「いいえ、お客様。あのインディゴビーンズは中東の一部地域でしか取れない貴重な品でございます。ただでさえ貴重なところ、昨今は採取できるエリア近辺で紛争も発生しており、入手が極めて困難な品なのです」
「う、嘘だね、そんな貴重なものならお通しで出すわけがない!」
「それは、ひとえにオーナーのサービス精神によるものでございます」
「な……」
いや、そんなでたらめな話があるものか。第一インディゴビーンズなんて食材聞いたこともない。
私は即座にスマホを取り出しインディゴビーンズで検索した。それらしい情報は一件もヒットしなかった。
それみたことか!やはりそんな話は嘘っぱちだ!つまり、いや、じゃあ、あれ、でも、私は確かにあの豆を食べたよな……
私はここでようやく、検索でヒットした方がよかったことに気づいた。私は確かに豆を食べた。それは人生で目にしたことののない見た目であり、匂いであり、味であった。つまりあれはまだ世間に広まってない、それこそ検索エンジンにも載ってないほどの、秘密の食材ってことになるんじゃないのか?
もうひとつ、あれが本当に高級食材なんじゃないかと思えてしまうことがある、あれは確かに、今まで食べたどんな高い食べ物よりも美味しかったのだ。
「……すみません、ちょっといま手持ちがなくて」
「クレジットも使えますよ、分割も可能です」
「いや、えっと、口座にもお金がなくて」
あまり人には言いたくないことだが、私は現在国からの保護を受けて暮らしている身の上だった。
「……困りますね、お客さん。当店は決してぼったくり店ではありません。正規の料金を要求しているのです。それに、私は確かにお客様に確認しました、お通しではないのでお代はいただくと」
「でも、値段は言わなかったじゃないか!」
「それは……聞かれませんでしたので」
くそ、やっぱりこいつ、最初からハメるつもりだったんだろう!
「念のためお伝えしておきますが、警察に通報しても無駄ですよ。私はお客様にきちんと承諾を得ていますので。お値段についてはお客様の確認不足でしかありません。むしろ、料金を踏み倒そうとした、ということで警察のご厄介になるのはお客様の方かと」
それは……そうなのかもしれない。ただの枝豆を八十数万で提供したら間違いなくぼったくりだが、インディゴビーンズは本当に八十数万かもしれないのだ。
「すみません、今本当に手持ちがなくて……皿洗いでもなんでもしますので、どうか警察だけは勘弁してくれませんか」
「そうですか……承知しました。ですが、残念ながら当店は人手には困っていないのですよ。そこで、どうでしょう、お客様の時間を買い取らせてはいただけませんか?」
「時間を……買い取る?どういう意味でしょうか」
「そのままの意味です。お客様は実際に働く必要はありません、ただ八十七万円の返済に必要な労働時間分のお時間をいただくだけでいいのです」
「いえ、その、時間をいただくというのは?実際に働かなくていいけれど、その時間だけ監禁される、というようなことでしょうか」
「いえいえ、そのようなことはいたしません。お客様にはその時間だけ眠っていただくだけでございます。正確には睡眠というよりは気絶に近いのですが、お客様の体感としては然したる違いはございません」
私には彼のいうことが半分も理解できていなかったが、どうにもこれを断ってもろくな未来が待っていなさそうだということは理解していた。
「どうやって、ということはお客様が知る必要はありません。ただ私どもに任せていただければよいのです。安心してください、お客様の安全は必ず保障いたします」
店主は滔々と言い伏せた。話している間店主は瞬きを一切していなかった。私はこの男が急に宇宙人のように思えてきて恐ろしかった。
結局私は店主の出した条件を呑むことにした。それしか選択肢はなかったのだ。
八時のアラームが鳴った。いつものようにアラームを止め、二度寝に入る。恐ろしい夢を見た。やはり外の世界は恐ろしい。
でも、あの青紫の豆だけは、美味しかったなあ。
そんなことを考えながら毛布にくるまると、そこで違和感を覚えた。
…………暑い
暑い!私は思わず毛布を放り出し勢いのまま飛び起きた。暑い。自覚した途端に汗が滝のように噴き出してくる。咄嗟にクーラーのリモコンを手に取ったところでようやく思い至った。
「……夏?」
異常事態に目はとっくに覚めていた。昨日あった出来事を思い出す。あれは、夢なんかじゃない。
あの夜私は馬鹿みたいな金額を吹っ掛けられて、そのお代を自分の時間を売ることで支払った。額にして八十七万円分。本当に馬鹿げた数字だ。
……待て、今は何月だ?まず確認するべきはそこだろう。取り急ぎスマホを見ると七月二十五日とあった。
どうやら本当に数ヶ月が経ったらしい。いまいち実感がないのだが、あの茹だるような暑さがそれを真実だと証明していた。
あの店に行ったのが十一月のことだったから、約八ヶ月の時間を対価として支払ったことになる。ということはつまり、ひと月あたり約十万ちょっとの計算で時間を支払わされたということか……
いや安過ぎるだろ!確かに眠っていただけで労働はしていないが、拘束時間で考えたら普通の会社勤めでは考えられない長さだぞ。何せ週七日の二十四時間勤務ということになるからな。それを八ヶ月続けて総支給が八十七万円?ふざけている、ぼったくりだ!
……まあ、それで済んだのならいいか。クーラーが利いてきて少し頭も冷えてきた。よく考えたら警察の世話になりそうなところでもあったのだし、それと比べたらまだマシだと思いたい。
どうせ家にいたってやることも特になかった訳だしな。そういえば、家賃とか公共料金の支払いとかってどうなってるんだろう。もしかして、その金額も差っ引かれての八十七万円なのか?だとしたらまだ理解……できないな。それでも安月給過ぎる。
ひとまず平静を取り戻しつつあった私は習慣のようにスマホを開いた。自然と指がスマホゲームのアイコンに伸びていく。もしかしたらそれは現実逃避のための行動だったのかもしれない。
そういえば、あれから八ヶ月も経ってしまったということは、スマホゲームの環境からだいぶ取り残されていることになる。今から追いつけるか?ガチャの新規はどうなった?逸る気持ちで急いでアプリのアイコンを押したところ、
『このゲームは2028年3月31日をもちましてサービスを終了いたしました』
という無情な通告が出現するのみだった。
「えっ、サ終!?三月って寿命短すぎだろ!」
思わず声をあげてしまったが、あのアプリはリリースしてからまだ半年とかだったはずだ。いや、いまはもう一年経ってるんだけれども。
他にもプレイしているアプリがあったので開いてみたが、不可解なことにそれら全てがサービス終了していた。
あるアプリのサービス終了のお知らせを見たところで私はようやく違和感に気づいた。
『このゲームは2029年4月30日をもちましてサービス終了いたしました』
……2029年?私は慌てて指をもつれさせながら今が西暦何年か調べた。スマホにはこう表示されていた。
『2034年7月25日』
私は叫んだ。
「ぼったくりだ!!!!!!!!」
