やりたくないこと
先週、こんなことを書きました。
日々の生活や仕事の中で、「やらなければならないこと」と「やりたいこと」のあいだで揺れる瞬間は、誰にでもあると思います。
今度は、もうひとつ踏み込んで「やりたくないこと」について考えさせられました。
犠牲がなければ相手のためではないのかもしれない
週報にあったことばを持ち出します。マザー・テレサの言葉と伝えられているようなのですが出典は不明。
ビジネス界の方々、ライオンズやロータリークラブの方々、貴族、その他いろいろの気前のよい、小切手を持ってきてくださる方々へ。私はこうお願いします。あなた方が私にくださるものは、余ったものからではなく、神の愛のためにされた犠牲の実であると希望します。あなた方は、あなた方が好むものではなく、あなた方にとって痛みを伴うものを与えなくてはならないのです。そうすれば、あなた方はほんとうの意味で必要なものまでも奪われて生きている貧しい人たちの兄弟となるでしょう。
私は、これを読んで、創世記に出てくる、農夫のカインと羊飼いのアベルの話を思い出しました。カインが神に地の産物を捧げたのに対してアベルが神に羊の初子を捧げて、神は羊を好まれたとされています。これは神が肉を好んだ、という意味ではなく、何かを犠牲しているかどうかを問う意味なのだと私は読むのですが、自分の何かを犠牲にすることというのは、ふつうは「やりたくないこと」です。
何かを犠牲にしているわけではないものは、本当の意味で「相手のため」ではないのかもしれないし、それはおそらく見透かされてしまうのだろう。そんなことを考えました。
今週の予定
仕事
夏休み明け。怒涛の進行になるでしょう。
note
先週お休みした『30secインテリジェンス・レビュー』『ひとすじのノート』と『自分あらば「好き」語り』『マネ×ゴト』の号数が揃ったので、わずかながら書きやすくなりました。
片付け
かなり捨てましたが、まだ捨てるべきものがありそうです。そして、ものの残し方も考え直す必要がありそうです。
今週のテーマは「やりたくないことにこそ取り組む」
自分の余裕の範囲で差し出すだけではなく、むしろ痛みや負担を伴う「やりたくないこと」にこそ価値があり、そこに踏み込むときにはじめて相手に通じるのかもしれません。避けたいことを避けつづけるのは容易ですが、それはやはり「余りもの」に過ぎないのでしょう。相手は、自分が犠牲を払っているかどうかを敏感に感じ取るものです。だからこそ、やりたくないことに取り組むことは、相手のためであると同時に、自分自身の成長や真実のつながりを築くために必要なことだということを、感じたのでした。
何かしらの犠牲を伴わない行為は、本当の意味で相手のためになることではない。この自覚を胸に、今週は取り組んでいこうと考えています。

