ひとすじのノート・その42
これは、日々の内省とひとすじの気づきをすくい上げて並べていく、静かなノートを目指している、書きものです。
きょうは、偶像礼拝を問い直してみた結果としての断想を4つ、綴ります。
偶像は存在ではない
「偶像」というこの言葉は、宗教の文脈を離れてもなお、ある種の侮蔑的なニュアンスを伴っているといえるでしょう。また、「アイドル」が「偶像」と訳されることも広く知られていますが、「本来拝むものではないのにもかかわらず拝まれているもの」として用いられているようです。私たちは、間違ったものに依存すると身を滅ぼすことを、経験的に知っています。そして、間違ったものに依存していることを、間違ったものを拝んでいることと同義とみなすことはできそうです。では、間違ったものに依存しているといいますがそれは、存在してはいけないものなのか、という問いが立ちます。中にはそのようなものがあるとしても、すべてがそうではないようには見えないでしょうか。私たちが見出す楽しみの中には、依存の危険性がありつつも、存在が許されているものは多い。そして、禁欲ということそれ自体も、そこに安住するならば、また偶像になり得ます。
寄留者
どのような宗教でもいいのですが、私たちは「神」のための「場所」を作ります。しかし、それらの場所を本質的に「神」は超えてきます。むしろ、本当にその場所に固定されているならば、私たちの畏れ方は「神」に対するそれとは違ってくるからです。逆にいうと、私たちは「留まる」ことに注意しなければならないともいえます。なぜなら、留まっているその場所を本質的に「神」は超えていくからです。つまり、本質的に私たちは「安住」はできないのです。宗教者はよく寄留者であると譬えられますが、「神」は本質的にその場所を超えていき、超えてくるので、私たちはどこにでも、行けるようにしておかなければいけないということです。「安住」してどこにも行けなくなってしまうことが一番のリスクでありましょう。そして、それこそが依存の本質ですから、「いざとなればどこにでも行ける」限り、どこにいてもいいと言えるのではないでしょうか。
健全
私たちは、さまざまなものを、そのときはまるで永遠であるかのように思いますが、同時に50年前、100年前、1000年前から残っているものを、驚嘆の目で見ることがあります。私たちが、まるで永遠であるかのように思っていたものが、すぐに消える、そのような経験を飽きるほどしていても、です。私たちの「永遠」は、実際のところ、なんと短いものでしょうか。いま大切にしているものを、大切にすることはいいのですが、しかしそれがなくなることはいつでもありうる、という、健全な諦めを持てるかどうか。一方で、健全な諦めによる健全な距離感を以て楽しめるものがあるならば、そのような楽しみは、そのときの刹那を最大限に楽しむことがよいのではないか。その刹那の楽しみを、偶像と呼んではいけないのではないか。なぜなら、もしそれを偶像と呼ぶならば、逆に私たちは、偶像から逃れられないという逆説が成立してしまうからです。
意思決定の軸
楽しみが見出せるものを、私たちは好みます。そして、私たちひとりひとりが好むものと好まないものの違いは、私たちに意思決定の軸をもたらしてくれます。好きも嫌いもない、そのような世界を、想像してみると分かります。私たちは日々、選択をして生きていますが、好きも嫌いもなければ、ほとんどすべての選択が、止まってしまいます。残る選択は、感覚がもたらすものだけでしょう。そしてそれはほぼすべて苦痛であり、私たちは、苦痛を頼みとし、苦痛を和らげるための行動だけをする者となってしまうのではないでしょうか。そのような意味で、私たちは、自分が好きなもの、自分が楽しいと思えるものを、誘惑だと決めつけてはならず、軽んじてはならないはずです。楽しみと偶像は、時に混同されやすいものですが、偶像に縋ることを恐れるあまり、楽しみと偶像を混同してしまうと、私たちは逆に、人間ではなくなってしまうのではないでしょうか。
