ひとすじのノート・その38
これは、日々の内省とひとすじの気づきをすくい上げて並べていく、静かなノートを目指している、書きものです。
きょうは、問題を前にした私たちの態度について、思索を巡らせてみた結果としての断想を4つ、綴ります。
告発
進捗や成果、効果、影響といったものが分かりにくいと、私たちはつい不安になります。不安はないに越したことはありませんから、社会においては、分かりやすさというもので価値を測られることがあります。そして、そのことに異論を挟む余地はないように思います。それがよいことかどうかは、何に照らし合わせるかによりますから、現実としてまず、私たちは分かりやすさを求めてしまうものだということは、まずおさえておきましょう。その上でやはり、分かりやすさだけで測られることには、抵抗をしたほうがいいとも思います。もちろん、その過程ではどうしても、分かりやすさを確保しなければならない面があるでしょう。けれども、分かりにくいというだけで見向きもされなかったことがらから、私たちにはさまざまな問題がもたらされているのではないでしょうか。分かりやすさだけで測られることへの抵抗の結果としての告発は、耳を傾ける必要があるはずです。
問題だけを
私たちひとりひとりが日々目を背けていた問題が、ある日襲いかかってくる、ということは誰しもあると思います。働くべきときに働かず、休むべきときに休まず、工夫をすべきときに工夫せず、頑張るべきときに頑張らず。本来は解決不要な問題だったのかもしれません。正直、嫌になりそうです。必要なのだけど効果や影響が自分にとって分かりにくかった、だからつい。自分の中で何度聞いたことか。一方で、私たちひとりひとりの生活は、どうしても問題から日々目を背けて生きている、そうでなければ生きていけないという面もあります。問題を解決する側である私たちひとりひとりが、当時は力不足であった、ということもあるでしょう。ですから、私は、問題を解決するときには、問題の原因となった人を責めることなく、いま・この先の問題として、問題だけを解決しにいく姿勢で居つづけたいと願っています。過去は、必要なときに、必要なだけにとどめましょう。
傲慢を思い知らされるために
問題から目を背けつづける生き方は無責任としか言いようがありませんが、かといって、問題をすべて解決できるという態度もまた、傲慢ではないでしょうか。逃げるということを軽く見てはいけないように思います。逃げてまた戻ってくることもあれば、別の道に進むこともあるでしょう。なぜなら、問題をすべて解決できるという態度はもちろんですが、ひとたび導き出した問題の解決に誤謬がないと考えることもまた、傲慢だからです。さらに、逃げた先で、新しく問題を正しく捉えたり、問題を解決したりするためのヒントを見つけることもあります。こういったものも軽くみるべきではないように思います。ですから、私は、逃げることの意味を、捲土重来のためではなく、自らの傲慢を戒めるためとしたいものです。逃げるは恥だが役に立ついいますが、逃げることが恥と感じられるのは、そのときには自らの傲慢を思い知らされるからでしょう。
その場で
考えないようにしよう、そう思えば思うほど、考えてしまう。いろいろ言われている科学的な説明や対処方法を否定するつもりはありませんが、もし考えるなら、重荷を負いすぎてはいないか、ではないかと思います。私たちは、本来与えられたことであったとしても、それを為そうとする中で、どこかで何かを間違えて、余計なことをしてしまう、壊れたところがあるからです。少なくとも私にはあります。私たちは、重荷をつい、「ここに置いてはあとで大変なことになる」と言って、その場に置くことを案外しないものではないでしょうか。重荷を負いすぎているならば、一歩も前に進めないはず、なのにです。私たちは、何かを成せば、どこかしらに進んでいる、と思い込んで、実際にはその場で足踏みをしてしまっていることに気づいていないことが多くあるようにも思います。「もう疲れた」という心の声が勝っているときは、何も考えず、その場で重荷を下ろしましょう。
