午後3時の子どものような
一日が短い、と感じることが増えました。
朝、きょうこそはこれをやろうと書き出し、時間も気力も十分にあるつもりでスタートします。ところが、何かひとつに集中し始めると、時間は驚くほど速く流れていきます。気づけば夕方で、あれ、もうこんな時間?」と小さくつぶやいている自分がいます。
確かに何もしていないわけではありません。むしろ、集中している時間は濃密です。調べ、考え、書き、整え、手応えもあります。それでも、なんとなく期待していた成果の大きさに比べると、できていることはほんのわずかに思えるのです。山のようにあったはずの時間が、気付いたらごっそりどこかに運ばれていたような、そんな感覚のような気がします。
そうすると、できていないこと、やり足りていないことばかりが目につきます。あれも途中、これも構想段階のまま。頭の中にはまだ形になっていないアイデアがいくつも浮かんでいるのに、現実の進捗は控えめです。その差分が、もどかしさになります。
AIがある時代です。調べものは速くなり、文章の壁打ちもでき、発想のきっかけも得られます。けれども、だからといってすべてが一瞬で片づくわけではありません。いまどうなっていて、これからどうしたいのかを決めるのは自分です。その方向を定め、選び、手を動かし続ける責任は、やはりこちら側にあります。AIは伴走者にはなっても、人生のハンドルまでは握ってくれません。そして、考える時間の長さが目立つようになって気づくのですが、AIで短縮される時間は、多いようで意外と少ない。
最近は、「残された時間」という言葉が、以前よりも少しだけ現実味を帯びてきました。無限にあるように感じていた時間が、実は有限であると静かに気づき始めているのかもしれません。
それは、午後3時くらいの放課後の子どもの気持ちに似ています。友だちと遊び始めたばかりなのに、ふと見上げて、遊び場にある時計を見て、「あと遊べるのは2時間だ」と気づく瞬間です。まだ時間はあります。でも、永遠ではありません。そのとたん、遊びは少しだけ真剣になります。何をして過ごすか、どこまでやれるかを、子どもなりに考え始めるのです。
一日が短いと感じるのは、焦りだけではなく——と、きれいに意味づけたくなる自分もいます。けれども実際のところは、そんなに整理のついた話ではありません。時間には限りがあると知りながら、では何を削って何を残すのかと問われると、うまく答えられないのです。あれもやりたい、これも気になる、どれも中途半端。集中しているはずなのに、どこかで「これで足りているのだろうか」と囁く声が消えません。
午後3時の放課後、あと2時間だと気づいた子どもは、遊びに本気になります。でも同時に、もうすぐ終わるという寂しさも抱えているはずです。もっと遊びたい。まだ帰りたくない。その気持ちは、どうやっても消えません。
最近の私は、そのあたりに立ってような気がします。時間をうまく使えているのかもわからないまま、時計だけが進んでいく。焦っているのか、欲張っているのか、それとも単に段取りが悪いのか。
答えは出ていません。ただ、「一日が短い」と感じている自分がいる。それだけが、やけに確かな事実です。
