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ひとすじのノート・その43

これは、日々の内省とひとすじの気づきをすくい上げて並べていく、静かなノートを目指している、書きものです。

きょうは、迷うことに関する断想を4つ、綴ります。


タイムパフォーマンス

タイムパフォーマンスを追求する時代になったと言われますが、これはおそらく、「無駄なもの」が可視化されたからではないかと考えます。なぜかというと、私たちはそれでも迷うからです。そして、迷いこそが「無駄なもの」の最たるものであるにもかかわらず、迷いをこそ「無駄なもの」として本気で排除するようにはとても見えないからです。私たちは、たまたま見えた「無駄なもの」を排除して、目的を果たしたとは言わないまでも、目標への障害を取り除いたと、自負してはいそうです。もちろん、無駄なものを排除することが、まったく意味がないわけではないでしょう。しかし、「タイムパフォーマンスを追求する時代」という表現には、私たちが迷うものであるという真実への洞察がない分、不遜なものを感じはしないでしょうか。迷うということを、無理に肯定するわけではありませんが、否定しきれないことは確かです。迷うことを軽んじないようにしましょう。

迷いを測る軸

古今東西、人生を道に喩える文化は数多くありました。いまもそのような文化はあります。道にも時間にも、方向があるからでしょう。一方で、「人生という名の道」を歩くときは後戻りをすることがあり、あらためて別の道に進むことがあります。そして、多くの人は、そのことを決して無駄ではなかったと総括します。結果としては、その通りだと思います。決して無駄ではなかったはずなのに、ちょっとした後戻りやちょっとした迷いをかえって無駄とするところに、私たちが、迷いというものへの向き合い方を違えている理由が何かあるのではないか? そう思えてなりません。おそらくは、後戻りが、いや、迷いが、無駄か無駄ではないか、という軸で測られることそのものがおかしいのではないでしょうか。私たちが迷うものである以上、迷ったときに何を頼りとしたのか、それは本質的に頼りになるものであったのか、迷いを測る軸は、そこだと思います。

客観

地理的な意味で道に迷ったときは、地図やコンパスや天体といったものを頼りにするはずです。最近ではスマートフォンも含まれますが、これらはいずれも、頼りになるかどうか、論理的に解明されているものです。しかし、人生を道に喩える文脈で、道に迷ったときに頼りにするものは、おそらく論理的には解明されないのでしょう。なぜならば、人生自体が論理的に解明されるものではないからです。「我思う、ゆえに我あり」とはいいますから、強いて言えば、考えることが、人生を生きる人間の存在を確認する根拠にはなり得ましょう。しかし、だからといって人生自体が論理的に解明されているわけではありません。おそらくは、これからも。地理は客観的に見ることができますが、人生そのものを人生から離れて客観的に見ることはできません。迷ったときに頼りにしようとしているものが頼りになるかどうかは、変わらないかどうかで測るしかないのです。

通訳

変わらないということは、変化がないということではないでしょう。なぜなら、変化ということ自体が時間の流れを前提としているものだからです。そうすると、時間を超越していることが、変わらないということにおいてはひとつの要件となりましょう。そして、時間を超越していなければ、迷いを超越できませんから、迷うものである私たちを、四方八方から取り囲むことはできないでしょう。そのように考えると、私たちが迷うときに、思いつくものはすべて、迷ったときに頼りになるものではないことが分かります。したがって、人生における解決は本質的に、思いもよらないものであることも分かります。ただし、それは努力が無駄になるということではありません。私たちの努力がなくとも人生における解決はもたらされますが、私たちの努力があれば人生における解決がこの世の中における意味を、努力自体が通訳してくれるはずなのです。

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