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マネ×ゴト Vol.31──選択肢を減らす

仕事でも生活でも、「選択肢を増やすことが良い」と言われる場面は少なくありません。キャリアの幅を広げる、スキルを増やす、人脈を増やす──確かに、選択肢が増えることで未来の可能性は広がります。しかし、その反面で「選択肢が多すぎることによる疲労」は、思っている以上に私たちの生産性を削っています。

私は最近、この「選択肢を減らす」という行為のほうに、むしろ価値があると感じるようになりました。視野を狭めるという意味ではなく、「不要なものに思考のリソースを奪われないようにする」という意味での「減らす」です。


選択肢は「そこにあるだけで」コストになる

明らかに不要な選択肢でも、それが存在する限り、私たちはその選択肢を「検討してしまう」ものです。

仮に、一つの選択肢について検討する時間を等しく10分としましょう。不要な選択肢が3つあれば、それだけで30分を失います。そして問題は、その30分は一度きりではない、ということです。

選択肢を排除しない限り、同じことを選ぶたびに、毎回、同じように30分失い続けるのです。

最初は軽微な負担でも、積み重なれば莫大な時間になります。仕事において「改善」が重視される理由のひとつは、「不要なプロセス(選択肢)を排除することこそが、繰り返しの未来を軽くする」ためです。その考え方を、個人の意思決定にも適用するべきではないでしょうか。

部屋を片づける必要がある理由も、結局は同じ

部屋にあるものは、それが使われていなくても「選択肢」として存在しています。

たとえばデスクの引き出しに、使っていない筆記用具が10本入っているとします。必要なのはそのうちの1本かもしれません。しかし、引き出しを開けるたびに、視界に入る10本から「最適な1本」を選ぶという行為を、知らぬ間に繰り返すことになります。

部屋が散らかっていると集中力が削がれると言われるのも、まさにこの「不要な選択肢による思考のノイズ」が原因です。「整理整頓」とは、単に見た目を整えるだけではなく、余計な選択肢から自分を守る「防衛行為」でもあります。

「思考の余白」は、努力ではなく「構造」で守られるべきだと私は思います。余計なものを目に入れなければ、そのぶん、判断のためのエネルギーを温存できます。

同じスーツを3着ローテーションする理由

最近、私は仕事のときにスーツを好んで着るようになりました。といっても、ファッションに強いこだわりがあるわけではありません。むしろ逆で、「選択肢を減らすため」にスーツを選んでいます。

同じ仕様のスーツを3着用意して、毎日ローテーションしています。朝、服を選ぶときに「どれにしよう?」と悩む時間をゼロにするためです。

もちろん、どうしてもスーツでは対応できないような汚れる作業の日は別の服を着ます。しかし、そういった例外ケースで使う服も、できる限り同じ仕様のものを複数用意しておきます。これも選択肢を減らすためです。

服装は毎日のことです。選択肢を減らしておけば、その分だけ思考のエネルギーが「本当に使いたいところ」に回せます。これは小さな改善ですが、積み重ねると大きな生産性の差になります。

……そういえば、故スティーブ・ジョブスが毎回同じタートルネックを着ていたのもそれが理由だったというふうに聞いたことがあります。情報のソースが分からないので、真偽のほども分かりませんが……

「ポリシー」は意思決定の負担を軽くする

「行動指針」と呼べるほど大仰なものでなくても、簡単なポリシーを持つだけで、選択肢を減らす効果があります。たとえば。

  • 朝に悩まないために服は3種類しか持たない

  • 使うペンはこれと決める

  • 昼食は迷わないように、平日は同じ店のローテーションにする

こうした「小さなポリシー」は、意思決定の回数を劇的に減らします。

意思決定には体力や気力が必要です。だからこそ、日常的な小さな判断を減らすことで、より大切な判断にリソースを割けるようになります。

これは、「自分のOSを軽くする行為」と言い換えてもいいかもしれません。

ただし、「無自覚に選択肢を減らす」ことは危険

ここまで「選択肢を減らす」ことの利点について述べてきましたが、当然ながら注意点があります。

それは、自覚的に選択肢を減らすことです。

なぜその選択肢が不要なのかを理解し、それを言語化できている状態でなければなりません。「よくわからないけれど使わなくなったから、まあいいか」と無自覚に削っていくと、取り返しのつかない方向に進んでしまうことがあります。

人は、完全な自由には耐えられないとよく言われます。まったく制限のない状態は、むしろ不安を生み、極端な思想に惹かれてしまう危険があります。

政治的な場面では、これが深刻な形で現れます。たとえば、反ナチ運動を行ったドイツのルター派牧師マルティン・ニーメラーの言葉に由来する『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という詩は有名です。

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。

Wikipedia『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

そこに描かれているのは、無自覚に選択肢(=自由)を減らしていった結果、気づいたときには何も選べないまま悲惨な世界に巻き込まれていったという悲劇ではないでしょうか。

これは極端な例かもしれません。しかし、私たちの身近な日常でも同じリスクがあります。「慣れているから」「考えるのが面倒だから」という理由だけで選択肢を減らしていくと、知らないうちに行動の幅や思考の広がりまで狭め、ときには倫理的な問題をさえ起こしてしまいます。

ですから、選択肢を減らすときには、常にこう自問したほうがいいでしょう。

「なぜ、これは不要なのか?」

この問いを自分に投げかけ続けることが、「選択肢を減らす」ことの健全さを守る唯一の方法ではないでしょうか。

余計な時間を減らし、必要な選択を守るために

選択肢を減らすとは、決して「自由を狭める」ことではありません。むしろ逆で、本当に大切な選択肢を守り、そこに十分な意思決定エネルギーを注ぐための工夫です。

日常のノイズを消し、疲れを減らし、判断を軽くする。こうした小さな積み重ねが、結果として「集中すべきところに集中できる自分」をつくります。

選択肢を増やすことが未来を豊かにするのと同じように、選択肢を減らすことも、未来を軽やかにします。

時間は有限であり、思考のエネルギーも有限です。だからこそ、私たちは「余計な選択肢」から自分を守る必要があります。そして同時に、「無自覚に選択肢を奪われていないか」にも注意を払うべきです。これは、時間以上に大きな損失になり得ます。

私はこれからも、「選択肢を減らす」ことを意識しながら、その裏側にあるリスクにも敏感でいたいと思います。それが、自分の時間と自由を守るための、ささやかな工夫であり、そして強さでもあるのだと信じています。

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