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自分あらば「好き」語り・その28──玄米

玄米が好きです。

この「好き」という気持ちは、健康志向やダイエットといった理由から来ているものではなく、もっと単純で、もっと感覚的なものです。色、味、かみごたえ。そのすべてに、穀物がもともと持っている生命の力のようなものを感じるのです。全粒粉のパンにも似た、あるいは、先週書いた武蔵野うどんのような「噛む」楽しさに惹かれているのかもしれません。


一粒一粒の存在感

白米がふっくらと炊き上がるとき、あのつややかでやわらかな白さには、完成された美しさがあります。一方で、玄米の炊き上がりには、もう少し素朴で、力強い美しさがあります。透明感のある薄茶色の粒が、光を受けて控えめに輝く。その姿を見ていると、まるで「米」という植物そのものを感じ取っているような気がします。

一粒一粒に皮があり、噛むたびに舌の上で「ぷちっ」とした感触が返ってきます。これがなんとも好きなのです。噛めば噛むほどに、ほのかな甘みと香ばしさが滲み出てきて、食事というより、穀物を「味わっている」実感が湧いてきます。

この「噛む時間」が、私にとってはとても大切です。玄米は、急いでかきこむことができません。仕事の昼休みのように、限られた時間でさっと食べるには向いていません。

けれども、夜にゆっくりと時間をとって、たとえば、炊きたての玄米を茶碗によそい、湯気を感じながら一口ずつ噛んでいく時間には、日々のあわただしさをほどいていくような静けさがあります。体にも、そして心にもいいような気がする。いや、本当のところどうなのかはわかりませんが、そんな「気がする」ことこそが、食事の幸福なのかもしれません。

玄米を選ぶということ

ここ数年、玄米を選べる外食がずいぶん増えたと思います。定食屋やカフェ、さらにはチェーンのカレー店などでも「白米・玄米をお選びいただけます」という表示を見かけるようになりました。あるいは、そもそも「うちは玄米ごはんが基本です」というお店もあります。

以前は、玄米といえば「炊くのが難しい」「時間がかかる」「ぼそぼそしている」といった印象が強く、特別な人が食べるものという雰囲気がありました。けれども最近は、白米と同じように炊ける玄米や、浸水時間が短くてもふっくら仕上がるタイプも増えてきて、ずいぶん身近な存在になりました。

私も、自宅で炊くときには、そうした「手軽に炊ける玄米」を選んでいます。

炊飯器のボタンを押して、しばらく待つ。

炊き上がったときの香りがまたいいのです。少し香ばしく、少し穀物くさく、でもやさしい香り。その香りをかぐたびに、少しうれしくなります。

どう食べるかの自由

玄米の魅力は、そのまま食べてもおいしいことにありますが、アレンジの幅も意外と広いものなのです。定食で味噌汁と一緒に食べるのも好きですが、私のおすすめは、たまごかけごはん。白米のようにさらさらと混ざらず、少しざらりとした食感が残るのですが、その「混ざりきらなさ」、そして。卵のまろやかさと玄米の歯ごたえが口の中でほどよくぶつかり合って、自然な食べやすさと、白米のたまごごはんのような、べちゃっとした水気があるわけではないところに、なんとも言えない満足感があります。

あるいはカレーをかけるのも好きです。カレールーの濃い味とスパイスの香りの奥に、玄米の香ばしさがしっかりと存在する。白米だと完全にカレーに「溶けてしまう」ことがありますが、玄米には主張があります。一皿の中で、ルーと米の両方がそれぞれの個性を保ちながら調和している感じが、心地よいのです。

「好き」と言うことの珍しさ

あるとき、友人に言われました。「玄米を食べる人は聞くけど、『玄米が好き』って言う人は珍しいね」と。

確かに、そうかもしれません。いや、そうでもないかも。

健康のために玄米を食べている人は多いと思います。栄養価の高さや血糖値の上昇を抑える効果など、科学的なメリットを語る記事も多い。けれども、私の場合はそういう方向ではありません。

白米が嫌いなわけではなく、むしろ、白米の甘さや軽やかさも好きです。ただ、どちらを選べる状況であれば、9割方、私は玄米を選びます。それは理屈というより「味が好みだから」という理由です。

穀物としての「まるごと」感、舌に残るざらつき、かむほどに変化していく味。それらを好ましいと感じる感覚そのものが、私の「好き」です。

玄米の記憶

私は、子どものころから玄米を食べて育ったわけではありません。ごく普通の家庭で、白米か胚芽米が日常でした。玄米という言葉を知ったのは、小学生のころに読んだ学習雑誌の記事がきっかけだったと思います。

そこには、こんな話が書かれていました。

「白米を食べていた平家に対して、玄米を食べていた源氏が源平合戦で勝利を収めた」

「徳川家康は玄米を好んで食べ、長生きした」

子ども向けの健康コラムのような記事だったのでしょうが、そのエピソードがなぜか強く記憶に残っています。

こういった逸話を、すべて鵜呑みにするつもりはありません。ただ、どこかで「玄米は強さの源」「長生きの秘訣」といったイメージが、私の中に刻まれたのかもしれません。

健康志向ではない、でも「健やか」ではある

繰り返しますが、私は健康志向で玄米を食べているわけではありません。有機栽培や無農薬といったラベルにも、特にこだわりはありません。「自然派」というカテゴリーに自分を置く感覚もありません。

けれども、玄米をゆっくりと噛んでいると、自然と呼吸が落ち着いてくるのです。食事という行為が、単なる栄養補給ではなく、心の動きを整える時間になっている。そういう意味では、確かに玄米は「健やかさ」を運んでくれているのかもしれません。

食卓の上に、ただの一杯のごはんがある。それを少しずつ口に運び、噛みしめながら味わう。

その時間の中に、日々の喧騒から離れる小さな静寂があります。私はその静けさが好きで、だからこそ、玄米を選び続けているのかもしれません。

発芽玄米という選択

柔らかい玄米もあります。

最近では、水に浸して発芽させた「発芽玄米」も手に入りやすくなりました。発芽玄米は、玄米の風味を保ちながらも、ややもちっとした食感があります。

私はこの発芽玄米が特に好きで、もしお店で選べるなら迷わずこちらを頼みます。噛みごたえがしっかりしていながら、どこか優しい。「硬すぎない玄米」という絶妙なバランスが、心地よいのです。

白米のもっちりした口当たりと、玄米の香ばしさ。その中間のような発芽玄米には、両方の魅力が共存しています。それを食べながら、「ああ、自分はこの『間』が好きなのかもしれない」と思うことがあります。自然体で、ほどよく調和している食べもの。玄米という存在に惹かれる理由は、そんなところにもあるのかもしれません。

穀物の原風景

玄米を見ていてふと、思うことがあります。米という植物は、本来この姿なのだということ。白く磨かれる前の、ありのままの姿。

精米という工程は、人間の工夫の結晶でもあります。けれども、磨かれる前の玄米の粒には、どこか「自然のまま」の力強さがあります。それを食べるとき、私は人の手と自然との境界をほんの少し感じるのです。もしかしたら私は、玄米そのものというよりも、「磨かれていないもの」への親しみを感じているのかもしれません。未完成で、少し荒削りで、それでも確かにおいしい。それはどこか、人間らしさにも通じる気がします。

おわりに──白と茶のあいだで

白米の美しさを否定するつもりはありません。むしろ、白いごはんの清潔さや、どんなおかずにも合う包容力は、すばらしいものです。

けれども、玄米のほうが今の自分にはしっくりくる。それは、ただの味覚の好み以上のものかもしれません。忙しさの中でも、どこかに「ゆっくり噛む時間」を残したいという思い。自然体で、少しだけ粗削りでいたいという願い。そんな自分のあり方が、玄米という食べものに映っているような気がします。


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