見出し画像

マネ×ゴト Vol.34──つらくても「自責」である方がいい理由

いろいろと、つらいです。

仕事をしていれば、当然のように、つらいことに出会います。自分の判断ミスや準備不足が原因であれば、まだ納得もできますし、反省のしようもあります。

けれど、どう考えても自分のせいではないトラブルに巻き込まれたときは、別格につらい。

自分はちゃんとやっていた。
注意もしていた。
避けようと思えば避けられたはずの原因は、別の誰かのところにある。
それなのに、なぜか自分が矢面に立たされる。
なぜか自分が説明し、なぜか自分が謝る。

この手のつらさは、仕事を長くつづけているほど、何度も経験することになります。そして、それが単なるトラブル対応ではなく、人の健康や人生、時には生死にまで関わる話になってくると、つらさは想像を絶します。

「つらい」という一言では、とても足りません。


誰かを責めたくなる

そういう状況に置かれたとき、人は自然と、誰かを責めたくなります。

「悪いのはあの人だ」
「判断を誤ったのは別の部署だ」
「自分は被害者だ」

そう思いたくなるのは、ごく自然な感情です。むしろ、そう思えない方が不自然かもしれません。

責めたい。
誰かのせいにしたい。

私自身、何度もそう感じてきました。

だからまず、この点ははっきり書いておきますが、「他責にしたくなる自分」は、否定する必要はありません。それは人間として、とてもまともな反応です。

でも、それはやめよう

ただし、です。

「他責にしたくなる自分」を認めたうえで、それでも、そこに留まるのはやめた方がいい。誰かのせいにしたくなる自分を否定するのではなく、誰かのせいにして「終わらせてしまう自分」と戦う。

これが、今回書きたいことの核心です。

「他責」の何が問題なのか

一般的に「他責思考は良くない」と言われると、多くの場合、「責任の所在を誤るから」と説明されます。でも、私は少し違うところに問題の本質があると思っています。

それは、責任の所在が正確かどうか、ではありません。

たとえ、
本当に相手が悪い
客観的に見ても相手に非がある
第三者が見ても自分は被害者
こうした条件がすべて揃っていたとしても、「他責」であること自体が問題になる場合がある。

それはなぜか。「他責」である状態には、解決に関わる主体としての「私」が、そこにいないからです。

他者の責任を追求することと、「他責」の違い

ここで、少し整理しておきます。私は、「責任の切り分け」や「原因分析」そのものを否定しているわけではありません。

再発防止のために、
どこで判断を誤ったのか
どのプロセスが機能しなかったのか
誰がどの役割を担っていたのか
を明らかにすること、つまり「他者の責任を追求すること」は、つらいけれども、とても重要です。

一方で、問題なのはこういう状態です。

「悪いのはあの人だから、自分はこれ以上何もしない」
「自分の責任じゃないから、動かなくていい」
「決めた人が何とかすればいい」

この瞬間、問題解決のテーブルから、「自分」というリソースが消えます。

これが、私が問題だと思っている「他責」です。

自分というリソースを、解決に回す

仕事において、最も確実にコントロールできるリソースは何か。それは、「自分」です。

他人の判断を変えることは難しい。
組織の構造を一瞬で変えることもできない。
過去に起きた出来事をなかったことにもできない。

でも、

自分がどう動くか
自分が何を拾いにいくか
自分がどこまで引き受けるか

これはいま、この瞬間からでも決められます。

「自責」で考える、というのは、自分を責めることではありません。自分というリソースを、解決側に置く、という意思決定です。

「自分の責任じゃないから動かない」という無駄

「自分の責任じゃないから動かない」

この選択は、一見すると合理的に見えます。

余計な仕事を背負わなくていい。
損な役回りを引き受けなくて済む。

感情的にも、少し楽になります。

でも、実はこの選択は、あなたの人生にとって、かなり高くつくことが多い。

なぜなら、

問題は解決しない
状況は長引く
結局、別の形で自分に跳ね返ってくる

からです。その間に失われるのは、時間、集中力、精神的な余力。「自分の責任じゃない」という理由で動かない時間は、シンプルに、無駄です。

責任とは「悪者になること」ではない

もう一つ、これもよくある誤解なのかもしれません。

それは、「責任を引き受ける=悪者になること」という認識です。

でも、「責任」という言葉は、本当にそのような意味なのでしょうか?

責任とは、「与えられた任を果たすこと」なのではないでしょうか?

役割に応じて、自分が担うと決めた範囲を、やりきること。

誰かが悪者になる、というのは、実はそんなに頻繁に起きる話ではありません。

「引責辞任」というフレーズがよく使われる(?)取締役クラスであっても、本当に「悪者」として責任を問われるのは、よほどのことがあった場合くらいです。多くの仕事は、「誰が悪いか」ではなく、「誰が引き受けるか」で前に進みます。

自責は、覚悟の置き場所を決めること

「自責」で考える、というのは、自分を追い込むことでも、全部を背負い込むことでもありません。これは、覚悟の置き場所を、自分の中に置く、ということです。

この状況で、何ができるか
どこまでなら引き受けられるか
どこから先は、助けを求めるか

それを、自分で決める。誰かのせいにした瞬間、その決定権も、手放してしまいます。

他責は、あなたの人生の無駄遣い

少し強い言い方かもしれませんが、他責は、シンプルに、あなたの人生の無駄遣いです。怒りや不満を溜め込み、解決しない状況に身を置き続け、「本当は自分は悪くない」という思考を何度も反芻する。そこからは、新しいスキルも、信頼も、経験も、ほとんど生まれません。

一方で、

自責で考え
自分が動き
状況を少しでも前に進めた

この経験は、確実に自分の中に積み上がります。

つらくても「自責」でいる、という選択

もちろん、自責で考えることは、楽ではありません。ときには、理不尽を飲み込むことになります。損な役回りを引き受けることにもなります。正直、つらいです。

それでも、長い目で見たときに、自分を自由にしてくれるのは、ほぼ間違いなく「自責」の方です。

自分で選び、
自分で動き、
自分で区切りをつけられるからです。

おわりに

誰かのせいにしたくなる自分を、否定する必要はないでしょう。

でも、そこで終わらせない。「では、自分は何をするか?」を考える。その選択を積み重ねてきた人は、静かに、でも確実に、強くなっていきます。

つらくても、自責でいる方がいい理由は、結局のところ、とてもシンプルです。その方が、あなたの人生を、あなたの手に取り戻せるからです。

いいなと思ったら応援しよう!