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『駄目な時ゃダメよ』を聴きながら

きょうは、美川憲一さんの『駄目な時ゃダメよ』をリピートしながら帰ってきました。

明確にダメなことがあったわけではないのですが、あんまりうまくいった感じはしない一日でした。

私たちは日々、何かを「よくしよう」とか、「どうにかしよう」とか、頑張ったり、背伸びしたりして過ごしています。うまくいかないことがあると、それがまるで自分の努力不足であるかのように思ってしまったり、あるいは他人や社会のせいにしてしまったり。でも、「駄目な時ゃダメよ」というその一言は、そうした一切合切を、ささいなことにしてくれます。

駄目な時って、ありますよね。
どんなに準備しても、うまくいかないこと。
どれだけ考えても、答えが出ないこと。

そんな時に。
「駄目な時ゃダメよ」。
なんて、潔いのでしょう。

「駄目な時ゃダメよ」という声は、決して投げやりではなく、あきらめとも違う、どこか優しさのある諦念を湛えています。「そういう日もあるわよね」くらいの、気だるさと、でも少し微笑んでくれているような気配。この歌を聴くと、なぜか「駄目な日」すらも、そんなに悪くないもののように思えてきます。

人間は、「よくなること」にばかり重きを置きすぎているのかもしれません。うまくいくこと、向上すること、成果が出ること。そのすべてが素晴らしいのはもちろんですが、「うまくいかなかったこと」や「駄目だったこと」には、まるで価値がないかのように扱われてしまう瞬間があります。

でも、駄目だった時間も、確かに生きていた時間で、そこには小さな発見や、感情や、誰にも見せなかった葛藤があって、そういうものも含めて、自分の一部だなと。そのことを、ふわっと思い出させてくれるのが、この『駄目な時ゃダメよ』という歌でした。

どこかとぼけたテンポに、何度か笑いながら帰りました。

noteを書いていると、「誰かの役に立つことを書かなければ」とか、「何か意味のある話にしなければ」といった気持ちが、ふと顔を出すことがあります。それ自体は悪いことではないのですが、そういう気持ちに縛られすぎると、書きたいものが書けなくなる瞬間もあります。ですので、今日はただ、ひとつの歌を聴いて思ったことだけを、こうして残してみました。

このnoteを読んで、何か感じてもらえたらうれしいですが、特に何も感じなくても、それで構いません。

駄目な時ゃダメ。

意味のないものに意味を求めないで、ただ、そういうものとして読んでいただければと思います。

それにしても、Apple Musicは便利ですね。

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