ひとすじのノート・その45
これは、日々の内省とひとすじの気づきをすくい上げて並べていく、静かなノートを目指している、書きものです。
きょうは、人生で守るものについて考えを巡らすことからはじまった断想を4つ、綴ります。
備え
人生が揺り動かされる瞬間というものが、ときどき、必ずやってくるのが不思議だとは、思いませんでしょうか。どのような出来事にどのような意味付けをするのかで決まる、と言ってしまえばそれまでですが、私たちは、出来事の前には実は無力なのではないでしょうか。そして鍵は、ときどきではありますが必ずというところで、そこに気づいていないところにまた、自分自身の驕りも見えてはこないでしょうか。何かしら備える、準備するといったことはもちろん大事ですが、その備えさえも役には立たない場合もある。反省して、立ち直るということは大事ですが、そのときどこまでも「想定外」をなくすことを要求するとなると、疲弊して動けなくなってしまうことがあり得るのではないでしょうか。備えというものは、それ自体を目的にしがちですが、人間というものを弁えないで進める懸念がありますから、その前の目的も見定めたいところです。
躊躇
困ったときに助ける、ということは、あたりまえにできることであるとも、あたりまえにできないことであるとも、言えるようです。助けたほうがいいとき、助けないほうが本人のためになるとき、助けられるとき、助けられないとき、そしてその判断を正しくできるとき、また判断を誤るとき。これだけの「変数」があることで、私たちは「助ける」という「あたりまえ」のことを、躊躇してしまうことがあります。ですが、助けるというあたりまえのことを躊躇する心の動きを、憂うのはともかく、よくないものとして断じることには、やや違和感を覚えます。なぜなら、その「変数」を慮ることこそが助けるという行為の前提になるからです。認知や認識に限界のある人間が、躊躇のひとつもなく、他人を助けられるものなのか。経験知が作用することもあるでしょうけれど、基本的には知ることができない領域を、覗きに行くのですから、土足で踏み込むことは不遜だと思います。
助けと試練
慰めがほしいと思っているときに叱責がやってくることがあります。助けがほしいと思っているときに試練がやってくるということもあります。理不尽と思うこともあるでしょう。ですから、慰める側や助ける側に立ったとき、そのようなことは極力ないようにすべきでありましょう。それを怠ることは、文字通りの怠慢です。一方で、慰められる側や助けられる側に立ったとき、辛くてもそれはまず受け入れることが、正しいように思います。なぜなら、慰められる側や助けられる側として、私たちは常にどこか歪みうるからです。何かしらの深い配慮があってのことか、それともただの配慮不足か、助けを受ける側には分かりませんが、その見極めをしようとするほどの余裕は本来、ありません。さらにいえば、仮に、助け手の配慮を見定めようとすることは、分をわきまえないとも言えることであり、助けられる側が本来なすべきことをしていないと分かってしまうからです。
余地
いざ助ける側に立ったとき、どのように助けを出すか。いわゆる父性的な面を出したり、またはいわゆる母性的な面を出したり、加減に悩んだことのない人はいないのではないでしょうか。ここを間違えると、せっかく出した助けが逆効果にさえなりかねないからです。そして残念ながらというべきでしょうか、おそらく、その悩みは、尽きることがなさそうです。というのも、私たちはどうしても、私たち自身の不完全さによって、または私たち自身の限界によって、助けるということそのものさえも縛られるからです。ですから、腹をくくるしかないと思います。自分の助けを絶対視してはいけません。自分以外の助け手が来ることを想定し、その誰かが入り込む余地を作ることを忘れないようにしましょう。そう心がけると、助けるということさえも、ひとつの務めとして淡々と果たしていくくらいしか、できることはないのかもしれません。
