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ひとすじのノート・その41

これは、日々の内省とひとすじの気づきをすくい上げて並べていく、静かなノートを目指している、書きものです。

きょうは、弱さと向き合うための前提について、思索を巡らせてみた結果としての断想を4つ、綴ります。


死を願ってしまうときにまず整えるもの

自死に関する思考や情報は、精神保健の観点上、非常に注意深く扱う必要があります。したがって、報道に非常な注意を要すること、それゆえ一定のガイドライン類があり、ソーシャルネットワークにも適用されることは、やむを得ないことでしょう。一方で、自身の死を願う気持ちがふと芽生える事実は、あるのではないでしょうか。私は、その現実を否定してはならないと考えます。なお、公的な機関等が、自身の死を願う気持ちについては相談することを呼びかけています。もちろん相談は大切ですが、その際に必要なのは、言葉にすることと、信頼できない人が少しでもいる場には伝えないこと。そのためにこそ、祈るという行為は大切です。祈ったところでそれは相談ではないのだから、なんの解決にもならないのではないか、という疑問がありそうですが、それは一種の期待違いで、祈ることで起こるのは、その人自身の中で、解決の前提が整うということです。

身体の必要を侮らない

精神的なものを大切にしようとするときにありがちなことは、「寝食を忘れる」というくらいで、身体的な必要を忘れるということです。私たちはいかに精神的な存在であるといえ、身体を持たずに生きることはできませんから、身体的な必要を忘れて生きていくことはできません。そして案外、私たちは身体的な必要を満たすことを、面倒くさがるものでもあります。特に、身体的な必要を満たすことが、私たちの立てた計画を邪魔すると映るときには、特に面倒くささを感じるものではないでしょうか。そして、私たちはそういった、必要だと頭では分かっているが本音では邪魔なものを、軽く見積りがちでもあります。特に、冷静な第三者の目では明らかに弱っているのに、差し出された身体的な必要を拒みたくなったら、注意しましょう。相手に迷惑をかけたくないという建前すら芽生えるようでしたら危険です。それは、身体的な必要への侮りであり、傲慢ではないでしょうか。

会いに行くことの意味

遠隔での会話が成立してしまう時代になりました。実際、実際に顔を合わせたことはないが、相互に相手を知っている、ということも、もはや稀なことではありませんし、なんならそれで、共同作業さえできてしまいます。技術の進歩それ自体は、手放しでよろこんでいいことだと、私は思います。一方で、「会いに行く」ことの意味がより鮮明になっていることも確かです。これを、私たちは媒体によるものと考えがちですが、実際に会った相手との間においても、光はともかく、会話の音声は空気という音声媒体を介しますし、匂いといったものも物理的な媒体を介します。ここまで考えたとき、「直接」顔を合わせるとはどういうことなのでしょうか、と問うと、答えに詰まるはずです。本質は、会うことがどれだけ自身の意思であるかではないでしょうか。私たちは、相手の人格に関心を向けるということを、意外なほどに怠りがちなのではないか? と心得るとよさそうです。

不完全な思考と、ふりかえり

券などではよくあることですが、家のどこかで券をなくしてしまい、仕方なくその券が必要な場所に赴いて、事情を説明しなければならないことがあります。そしてまさにその場所で、なくしたはずのその券が見つかるということもあります。なくすということについていえば、本人の問題として片付けられてしまうものかもしれませんが、気づくということについていえば、私たちは案外、その「時」が来ないと気づくことができないという面を持っているようにも考えられます。私たちの思考は常に、どこかに偏っていて、何かを見落とし、限られた、不完全な判断材料によって行われるものではないかと考えます。そして、そのようだと考えてはじめて、「あとになって気づく」ということを前提として、私たちがふりかえりをする、その必要性にも気づくのではないでしょうか。私たちの思考が不完全であることを認めれば、余分な気の張り方をしなくてもよくなるでしょう。

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