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私のnoteの読み方・書き方

noteを使い始めてしばらく経ちました。自分で記事を書いたり、他の人の文章を読んだりしていると、「note」という場の特徴や、そこに集う人たちの雰囲気、自分自身のスタンスについて、いくつか気づいたことがあります。

この文章では、その小さな気づきをひとつひとつ書き留めています。結論があるわけではありませんし、なにかの指南をしたいわけでもありません。


『成功』がもたらす焦りと誘惑

統計をとっているわけではありませんが、noteでは「成功」を扱っている記事をしばしば目にするように思います。申し訳ないのですが、私は、そうした記事が好きではありません。そこで、タイトルの時点で明らかに「成功」をアピールしているようなものは開かないようにしていますし、読んでいる途中で「成功」を扱っているようだと分かると、その瞬間にそっと閉じてしまいます。

これまた私だけなのかもしれませんが、「成功」というものに対して、なんともいえない警戒心が働くことがあります。分かる人と分からない人がいそうではありますが、「成功」を指し示すものには、どこか焦りや不安を煽る力があると感じます。そして、そういう焦りや不安を煽る力というのは、誘惑と密接に結びついているようにも感じます。おそらくこれは、人生の目的や目標をどこに置いているか・どうとらえているかということと深く関係すると思います。

『スキ』という指標が示さないもの

noteの特徴的な仕組みに「スキ」があります。noteでは「スキの数」が一種の指標として表示されます。ですから、「スキ」が多い記事は、いわゆる「バズっている記事」ということになります。

しかし実際には、「スキ」が多くても自分にはまったく刺さらない記事もあります。逆に、誰にも読まれていないような記事に深く共感することもあります。これはnoteに限った話ではないかもしれませんが、「たくさんの人がいいと言っているからといって、自分にとってもいいとは限らない」ということを、noteを通じてあらためて実感しました。

noteは、SNSのようでいてSNSではない。情報発信の場のようでいて、「誰か」と繋がるための場でもない。だからこそ、数字に惑わされず、自分にとっての「いい」を見つけていく姿勢が大事だと感じています。周囲と自分の感性が異なるとき、それを無理にすり合わせようとしないこともまた、大切ではないでしょうか。

フォローや「スキ」の基準と、noteという場の距離感

SNSとしての要素もあるnoteですが、私は他のSNSほど「つながること」に重きを置いていません。私はnoteという場を「連絡を取るためのプラットフォームではなく、作品を通じて何かに出会うプラットフォーム」と考えているため、更新頻度が高くて、自分に刺さる記事を書く確率が高そうな人をフォローすることにしています。

また、「スキ」をすることもありますが、自分が「スキ」をする基準はだいぶ上げています。というのも、「スキ」を押すと、それが可視化されるからです。「スキ」のような機能は時に、相手の気を引くために使われることもあります。しかし私は、そのように「スキ」を使うことで、自分の行動でnoteで大切にしたい空気を歪めてしまうということがないように、気をつけています。

私はnoteという場を「作品を通じて何かに出会うプラットフォーム」と定義しましたが、「何か」、つまり、自分の興味の網の目が、誰かの興味の網とどこかで重なる——そんなweb of interestが、ここにあってほしいと願っていると、最近気づきました。

生成AIとのつきあい方と、noteで書くことの責任

さて、これはnoteだからという話題ではないのですが、ここ2〜3年の生成AIの進歩は凄まじく、文章の量が生産性の指標になる人にとっては、生成AIを使う・使わないで生産性に決定的な差が生じています。

私もそのような、「文章の量が生産性の指標になる人」のひとりですから、いまでは当然のように生成AIを使って文章を作成(生成?)するようになりました。

noteではどうでしょうか。前提として、私はnoteでは文章だけ、つまり記事だけを発表していますので、画像や動画、音声など文章以外の作品については考える範囲の外に置いています。そこで、記事についてを書きますが、noteでの記事については、生成AIにすべてをお任せするのではなく、文章の素案を作ってもらうこともあれば、自分で書いたものを生成AIに推敲してもらう、という使い方を主にしています。

率直に言えば、生成AIに文章の素案を作ってもらったとしても、それをそのまま使うことはまずありません。たいていの場合は、「いや、そういうことを書きたいわけではなくて」とか「私が体験したことはそういうことではなくて」とか、心の中で呟きながら、9割がた書き直します。特に、生成AIは私の体験を知っているわけではないので、ほとんどが間違っています。とはいえ、書き直すための下地を生成するという意味では、生成AIを使うことは圧倒的に効率的です。

いずれの場合にも共通しているのは、最終的に推敲を生成AIに任せるという点です。自分でほぼ全てを書いた文章であっても、生成AIの素案を書き直した文章であっても、最終的には生成AIに推敲してもらいます。いろいろな言い換えを提案してくれたり、文章のおかしいところを指摘してくれたりするのは、自分で言い換えを考えたり文章のおかしいところを見つけたりすることに比べれば、生成AIを使うことは圧倒的に効率的です。

ところで、文章を生成AIに書かせたとして、AIが書いたかどうかは必ずしも明記する必要はない、というのが私のスタンスです。これが、イラストなどのように、「作風」の比重がより大きく、AIの生成結果が誰かの作品のフェイクと扱われるおそれのある分野ですとまた違ってくるのですが、文章に関してはそこまでシビアに考えなくてもよいように思います。AIに生成させた文章はそれっぽくなりますし、実際、それっぽさを感じるところは大抵自分で書き直したくなるところです。ですので、最終的に「自分のnoteに載せる」と決めた時点で、それは自分の責任になります。ですから私は、「これはAIが書いたものです」とわざわざ明記しなくてもいいと思っています。

これが「誰か」、つまり人格を持っている存在が代筆したとした場合は、おそらく倫理的な問題となるでしょう。なぜなら、文章の内容と人格は深く結びついていて、別の人格が書いた文章をその人が書いたとすることは、人格を偽ることになるからです。また、生成AIは人格を持たないからこそ、文章の下書きをさせることを私は問題視していないわけですが、イラストなどの作風と人格は深く結びついていますから、生成AIによるイラストは、特に特定の作風と類似する場合は、その旨をなるべく宣言した方がよいように考えます。

なお、コードや技術的な話については、私は別の場所に書くようにしています。noteはどちらかというと「人に語る」ためのプラットフォームで、「技術を整理して共有する」プラットフォームとしてはやや弱いと感じています。

おわりに

noteを使いながら、私自身の好みやスタンスが少しずつ明らかになってきたように思います。誰かに影響を与える文章を書こうとか、バズを狙おうとは思っていませんが、自分の気づきをこうして言葉にして残しておくことには、大きな意味があると感じています。これからも、noteという場とほどよい距離感を保ちながら、自分の言葉を、少しずつ整えていきたいと思います。

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