【第三章】2本の映画が教えてくれた、これからの暮らしの「羅針盤」
前回の記事では、家探しを始めてからBESSの家にたどり着くまでの気持ちの変化について書きました。
BESSの家を建てると決め、理想の土地に出会った今、僕の頭の中ではこれからの暮らしに対する想像がどんどん膨らんでいます。
そんなワクワクする時間の中で、ふと、僕がこれまでの人生でとても好きだった「2本の映画」のことが思い出されました。
1本は、前回の記事でも触れた、愛知県のニュータウンの片隅でこつこつと暮らしを手作りし続けた老夫婦のドキュメンタリー『人生フルーツ』。
そしてもう1本は、東北の小さな集落で、一人の若い女性が自給自足に近い生活を送る姿を描いた『リトル・フォレスト』です。
一見、世代も環境も違う二つの物語。
けれど、今このタイミングでこの2本が同時に思い出されたことには、僕にとって深い意味があるように思えてなりません。それぞれの映画が教えてくれたこと、そしてそこから見えてきた、僕のこれからの「生き方の指針」について書いてみたいと思います。
『リトル・フォレスト』が教えてくれた、そこにあるものを活かす豊かさ
『リトル・フォレスト』の舞台は、冬には雪深く積もる東北の奥山。主人公のいち子は、スーパーもコンビニもないその土地で、自分が育てた作物や、目の前にある自然の恵みに感謝しながら、日々の「食」を本当に大切に紡いでいきます。
便利で、ないものは何でも手に入り、むしろ求めていなくても情報や物が溢れかえっている都会の生活。
それとは対極にあるいち子の暮らしを見て、僕はハッとさせられました。
彼女は、その土地ならではの厳しい寒さや、夏の高い湿気といった環境の「特性」すらも、干し柿や凍み大根を作るための「天然の道具」として、しなやかに暮らしに活かしていくのです。
「ないものを欲しがる」のではなく、「今あるもの、そこにあるものを大切にし、自分の手を動かして活かしていく」。
これこそが、人間にとって本来の、そして一番贅沢な豊かさなのではないか。そう強く感じさせてくれる映画です。

2本の映画が重なるところ
『人生フルーツ』と『リトル・フォレスト』。
この2本を並べて眺めてみたとき、僕の中で2つの共通点(バトン)が見えてきました。
ひとつは、「時間をかけて、自分の手で暮らしをつくる」ということ。
どちらの主人公も、誰かがお膳立てしてくれた「便利なシステム」をただ消費するのではなく、土に触れ、道具を使い、手間ひまをかけて自分の生活をつくっています。
もうひとつは、「自然のサイクルに自分を調和させる」ということ。
土を耕して何年もかけて良い土を育てる時間も、季節の移り変わりに応じて体を動かすことも、すべては自然の大きな循環の中に自分を置いて生きるということです。
僕が幼い頃、近所のじいちゃんたちに教わった竹細工や魚捕りのワクワク。
あれもまさに、既製品ではない「目の前にあるもので、自分の手で遊びをつくり出す」という原体験でした。
あの時の体感覚が、この2本の映画の精神と、そして今計画している「100坪の庭とログハウス」という未来の舞台に、一本の太い線となってカチッと繋がったのです。
これからの僕の「3つの指針」
この2本の映画が教えてくれた共通点から、僕はこれからの東京の西側の里山での暮らしにおいて、大切にしていきたい指針を3つ定めました。
* 「あるもの」を面白がるクリエイティビティ
「あれがない、これが不便だ」と考えるのをやめて、目の前にある自然、土、季節の移り変わりをどう活かして暮らしを面白くするか、にエネルギーを使うこと。
* 「消費するだけ」から「体験をためる」へ
庭に植える予定の果物が実る木や、キッチンガーデンで育てる野菜。
それらが実を結ぶまでの数年という「手間」と「時間」そのものを楽しみ、収穫の一粒を家族で深く感謝して味わうこと。
* 自然や家族のバイオリズムに自分を合わせる
仕事も暮らしも、常に100%のスピードで走り続けるのではなく、時には冬のように静かにエネルギーを蓄え、春が来たら軽やかに動く。
自分の体や家族のペース、そして自然のサイクルを大切にすること。
条件やスペックを比較して、頭で自分を納得させようとしていた頃の家探し。あの時の僕にとっては、これらの映画はただの「憧れ」だったのかもしれません。
でも、本能で「この暮らしがしたい」と決断した今の僕らにとって、これはただの憧れの映画ではなく、「これから自分たちの手で本当に始めていく、日々のロードマップ」になりました。
これからあの100坪の土の上に、僕らだけの暮らしを、ゆっくり、こつこつと作っていこうと思います。
