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「間合い」の建築論

この文章は、滋賀県内で進行中の古民家リノベーションの計画をきっかけに構想された建築論である。ただし、noteで扱うのは具体的な改修内容ではなく、それを通して見出された「間合い」という概念の理論的考察である。

1. はじめに(既存建築について)


計画中の古民家の既存ファサード

本計画は、滋賀県内のある集落における古民家のリノベーションである。
既存建築は築100年を超える旧商家で、延べ床面積はおよそ300㎡(約100坪)を有する古民家である。
また、過去にも改修された記録があり、どこまでがオリジナルでどこまでが過去の改修なのかを明確にすることは難しい。これこそまさに日本建築の真骨頂であるかのような建築である。
それゆえ、意匠設計者としては、どこから手をつければよいのか、なにを改修の手掛かりにすればよいのかが判断しずらくなる。
構造や設備であれば、改修すべきポイントは定量的に判断することができるため、とっかかりは見つけやすいし、なにしろ共感・共有されやすい。

このような前提のなかで見いだしたアプローチであり、手法である「間合い」について深堀していく。

2. 「間合い」とは何か

「間合い」とは、一般的に日本の武道において相手との間にある距離のことをいう。それは相手から発せられるエネルギーを感じ取り、相手の攻撃が届かない、かつ自分の攻撃が相手に届くギリギリのせめぎ合いを表す。そこには相手との関係の切断と接続が反復し、その現象の発生によって相手という存在はますます顕在化する。それは、観察者としての立場では受け取ることができないものであり、その場で戦っていること、主体として、当事者としてあることによって受け取ることができるようになるものである。

「「間合い」の建築論」本文より(筆者筆)

この「間合い」における「距離」とは、単にdistanceを示すものではないということが最も重要な点である。そして、その場において「主体」としてあることのみによって立ち現れてくるものである。

外部化された観察者としてでは「間合い」は感覚不可能であり、常に主体と客体のあいだで現われるものである。

この意味において「空間」とは、単に距離によって定義されるものではなく、さまざまなエネルギーが交錯し、さまざまな関係によって生じる、そのようなものである。

3. 「間合い」は単なる距離ではない


誰もが経験したことのある「間合い」的関係

先に述べたように、一般的に「距離」は数量として測定できるが、「間合い」はそうではない。それは、主体と客体のあいだに生じるエネルギーの緊張関係であり、動的な関係の強度である。

この感覚は、武道や格闘技の経験がある人なら直感的に理解できるかもしれないが、そうではない人にこそ、ある歴史的な出来事を思い出してほしい。それが「ソーシャルディスタンス」である。

このとき、私たちは他者との距離を数値として規定された──2メートルである。そのとき私は、生まれて初めてレジに並ぶ前の人を明確に「人」として認識したように思う。それまでは、もはや単なる障害物のような、いわば「ノイズ」としてしか認識していなかった存在が、その瞬間にはっきりと「そこにいる誰か」として立ち現れたのである。

すなわち、この空間的な制約(=2mの距離)があることによって、その存在は急激に意味を帯びた
この認識の転換は、それまで「なにか」という三人称的な存在であった他者が、「私とあなた」という二人称的な関係性のなかで立ち現れる瞬間だったのである。

3.  「接続と切断の反復」としての間合い

では、この二人称的な関係性にはどのような現象が内在しているだろうか。それは、接続と切断が反復される緊張状態である

「間合い」は、完全に他者と一体化してしまうわけでも、完全に断絶してしまうわけでもない。むしろ、つながりそうでつながらない/離れそうで離れきれないという関係のゆらぎそのものが「間合い」の本質である。そして、このゆらぎは無ではなく有である日本的な「間」の考え方に通ずる。この「間」が向かい「合う」状態(二人称的関係)が「間合い」なのである。

「間合い」は、武道における感覚に近い。相手の呼吸や重心の微細な変化に反応しながら、自らの立ち位置を調整する。その関係性のなかでは、「接続」は相手を感じ取ることであり、「切断」は自分を保つことでもある。

そして、こうした緊張のなかでこそ、相手は単なる“もの”ではなく、「あなた」として顕在化する。

建築においては、「切断」とは、一般には壁やラインによる空間の分節を指す。「接続」は通路や開口によって空間を連続させることと理解されている。しかし、ここで語ろうとしているのは、それよりも繊細な関係性の変化である。

たとえば、接続したいのに切断されている。
あるいは、切断したいのに接続されてしまっている。
逆に、この作用を応用すれば、接続したければ接続可能であり、切断したければ切断可能なのである。こうした意志と状況のわずかなズレや、確定しきらない余白のなかに、『間合い』は立ち現れる。

このような緊張を孕んだ空間は、体験者の身体に作用し、その解釈や意識に応じて関係性が変化していく。つまり「間合い」は、単なる空間構成ではなく、経験される関係の場として設計されうるものなのである。そしてこの設計において、建築は「物質」以上の意味を持つ。それは、空間において立ち現れる関係に巻き込まれながら共に存在しており、その存在自体が体験者の応答とともに、関係のかたちを変えていく。切断は、関係を拒むものではなく、むしろ他者性を確保し、関係を成り立たせるための条件である。接続は、ただ物理的につながることではなく、感覚や意識を通じて他者に向かうことでもある。

「間合い」とは、切断と接続が往復するプロセスそのものであり、建築はこのプロセスをかたちとして組織する存在になりうるのだ。


4.  建築における「間合い」ー 身体と空間

以上のような「間合い」の性質を考えると、建築における「間合い」は、図面に描かれた静的な記号ではなく、空間と身体の関係のなかで動的に生成される現象であるといえる。空間の中に立ち、歩き、立ち止まり、他者の気配に応答する身体の動きによって、「間合い」は初めて成立する。

つまり、建築における「間合い」は、切断と接続が繰り返し交差する緊張構造の具現化といえる。そして、この緊張が意味を持つためには、それを知覚する身体の存在が不可欠である。設計によって空間に関係性の“構成要素”を与えることは可能だが、それが関係として立ち上がるかどうかは、空間に投げ出された身体による応答が生じたときに限られる。

たとえば、廊下を抜けてふと立ち止まったとき、背後から近づく誰かの気配に意識が向く瞬間。または、開きかけた障子越しに気配を感じたとき、そこには物理的には見えない「間(ま)」が存在している。こうした現象は、あらかじめ設計された意味ではなく、空間と身体が応答関係にあることによって生じる。

このように、建築における「間合い」とは、空間がすべてを説明し尽くすものではなく、語りきれない余白を意識的に残す構えをもつ。それは、体験者が空間とのあいだに相互的な応答関係を成すことを可能にする場であり、空間の意味は完結せず、体験を通して常に編まれ直されていく。

さらに、こうした応答関係が生まれるためには、建築と身体の双方が自律している必要がある。成熟した関係とは、依存や一方的な操作ではなく、互いが互いの存在を尊重しながら対峙する構造である。「間合い」は、まさにそうした関係の緊張状態において生じるものである。
人間の成長においても同様の構造が見られる。たとえば幼い子どもは、まずは一人遊びを通じて自律的な存在としての輪郭を形成し、やがて他者と向き合い関係を築いていく。他方で、赤子と母親の関係のように、一方が完全に依存している状態では関係は固定化され、緊張は生まれない。
「間合い」は、自律した存在同士のあいだに張られる緊張によって初めて成立するのである

以上のような意味において、建築における「間合い」とは、空間が関係を「つくる」のではなく、すでに生じている関係構造を、空間として構成するものとして存在する。そしてその建築は、出来事を演出する装置ではなく、複数の存在が同時に存在し、その関係性が切断と接続のあいだで現れてしまうような構造として立ち現れる。

この二人称的な関わりを有する建築は、世界の外部に立つ観察者ではなく、世界の生成プロセスに内在する一員として存在する。そこでの設計とは、その構造の流れに沿そうように、すでにあるさまざまな緊張関係を空間として構成する行為である。


結語 切断と接続のあいだにあるもの

「間合い」とは、切断によって他者性を確保しつつ、
同時に接続の可能性を開いている空間的構造である。
それは、どちらか一方に偏ることのない、世界の生成構造そのものである。

人間は、他者と完全には交わらず、かといって完全に孤立しているわけでもない。ものともの、建築と世界もまた、そのような切断と接続のあいだを有する。
「間合い」は、このような世界の構造を、空間として具体的に示すものである。

建築は、この切断と接続の緊張のうちに位置し、
それぞれの存在が互いに干渉しすぎることなく、それでも共に現れてしまうための構造を担う。

設計とは、そうした構造の一部に加わることであり、
関係を作り出すことではなく、すでにある緊張関係を空間的に構成する行為である。

「間合い」は、そのような存在と存在の世界における在り方を、建築として立ち上げるための概念である。



改修計画における「間合い」
改修後のファサード


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