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道迷いの俺を愛犬が助けに来てくれた話

汗ばむTシャツが肌に張り付く。
時計を見ても、もう何時間経ってるのかが曖昧だった。木々のざわめきと自分の呼吸音だけが確かで、頼りのスマホはバッテリー切れ。地図とコンパスを何度も睨みながら行ったり来たりしているのに、一向に道が分からない。どうやら完全に迷ってしまったようだ。
焦燥感がじわじわと心を蝕んでいく。

「これは、本格的に困ったぞ……」
思わず声に出して呟いた時だった。不意に、草むらがざわついて、ガサゴソと音がした。

なんだ?鹿?まさか熊? と身構えた僕の目の前に現れたのは、見慣れた、でも、もう二度と会えないはずの顔だった。

黒と茶色が混じった短い毛並み。鋭い、でもどこか優しい目。筋肉質のがっしりとした体つき。——愛犬リキだ。

僕の2メートルほど前で立ち止まると、リキは嬉しそうにひと吠えした。

リキのはずがない、それはわかっていた。でも何の疑問もなく、ああリキが来てくれたんだと感じた。
不思議な感じはなかった、ただ「おお、ずいぶん久しぶりだな」と素直に思った。同時に、胸の奥が一瞬熱くなり、懐かしさと切なさがこみ上げた。

リキは、なぜかそれ以上近づく事はなく、その場で僕をじっと見つめている。

「リキ、迷っちゃたよ」
僕が困った声で言うと、リキは「任せろ!」とでも言いたげにまた一つ吠え、スタスタと歩き出した。
僕は何も考えずに、その背中を追いかけた。
リキは時折立ち止まり、僕がついてきているか振り返りながら薮をかき分け進んだ。その背中は昔と変わらず頼もしく、見ているだけで胸のざわめきが静まっていく。枝が頬をかすめても、足元が泥に沈んでも不安はなかった。

道なき道を、僕たちはただただ無言で歩いた。話したい事はいくらでもあったはずなのに、会話は必要なかった。昔みたく一緒に山を歩いてる、その事実だけが、何とも嬉しかった。いつの間にか時間の感覚は薄れ、枝葉のざわめきも、土の匂いも、遠くに霞んでいった。リキの背中と息遣い、それを追う僕の足音と呼吸の音だけが残った。

不意にリキが立ち止まり、クン、と鼻を鳴らした。

その先には、山頂とバス停を示す標識、くっきりと踏み固められた登山道があった。

僕は安堵のため息をつき、リキに視線を戻した。

そこにはもう揺れる藪と、ガサゴソという音しかなかった。甘えて鼻を鳴らす声が聞こえた気がした。
「待っ」
追いかけようとして思いとどまり、代わりにナルゲンに残っていた水を飲み干した。思わず愚痴のように独り言がこぼれた。「水ぐらい飲んでいけよ、リキ…」

リキが完全に姿を消したその場所には、何もなかった。ただ、少しだけ、湿った土の匂いの中に懐かしい匂いと、わずかな体温が残っているような気がした。
登山道にはいつの間にか柔らかな陽がさしていた。頰を撫でるように吹き抜ける風が心地良かった。

もしかしたら夢だったかもしれない。
疲れた僕が見た幻覚だったのかもしれない。だけど、僕の心には、温かくて、少し切ない足跡が、確かに残っていた。

最期を看取ってからもう三十年近く。僕も随分と歳を取ったが、そういえば、お前は、若い頃のまま、一番元気な頃の姿だったな。

「ありがとう、リキ。   
       ——またな」
僕はそう呟き、歩き出した。
安心感から来る疲れが心地よく、まるで身体が山に溶け込んでいくような感覚があった。
いつも登頂にこだわっていた僕だがこの日は素直に下山しようと思った。

きっと、また会える。なぜかそんな確信があった。


【送り犬/オイヌサマ】
送り犬(おくりいぬ)は、日本妖怪の一種。東北地方から九州に至るまで各地で送り犬の話は存在するが、地域によってはではなくであったり、その行動に若干の違いがある。単に山犬(やまいぬ)、(おおかみ)とも呼ばれる。
真神は、古名異名、「まこと」「正しい神」を指す言葉。「大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)」「御神犬」とも呼ばれる。
武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」の伝説があり、日本武尊の東征の折、霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白いが表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を導いたという。

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