鷹ノ巣山で水切れを起こした話(武蔵國山行妖異録)
稲村岩尾根から鷹ノ巣山を目指す。
さすが、奥多摩三大急登は伊達じゃない。
果てしない登りに、照りつける太陽と蒸し熱さに火照る体。
水の減りが異常なくらいに早い。
異常な喉の乾きに、調整しながら水を飲んでいたものの、尾根の半ばで手持ちの水が尽きてしまった。
らしくない、初歩的な、重大なミスだ。
浄水器はある、しかしそもそも水がどこにもない。
確か鷹ノ巣山避難小屋まで行けば水場があったはずだ、なんとかそこまで飴やジェルで凌ぐしかない。少しでも喉の乾きを抑えるために、汗をかかないよう、体力を消耗しないように、極力ペースを落とす。
喉がカラカラだ。
浄水器は、持っている。
泥水でも何でも水があれば飲みたい。
もうこの際、小便でも良いが、あいにく尿意すらない。
頭の中に小さな声が響く。
水が欲しいか?
欲しいなら、やろうか?
やろうか、やろうか。
ヤロカヤロカ
ああ、なぜだろう、俺はこのやり取りを知ってる。
水が欲しい。
くれよ、くれるならくれ
そう言いたいが、応えてはいけなかった気がする。
口に出してしまうと確か、何か大変なことが起こってしまう、そんな記憶がわずかにあった。
そうか、昔、じいちゃんが、愛知のじいちゃんが教えてくれた昔話だ。
飴を舐める。
一時しのぎにはなるが、本質的な解決にはならない。
頼りのジェルもとっくに飲み干した。
鷹ノ巣山のピークまで、避難小屋まではあとどれくらいだろうか。
声がだんだんはっきり聞こえてくる。
ヤロカヤロカ
岩の隙間から声が響く
ヤロカヤロカ
風に乗って声がする
応えてはいけない
自分に言い聞かせる
応えては、イケナイ
声に出して呟く
ヤロカヤロカ
後ろから誰かが呟く
ヤロカヤロカ
頭の上で誰かが囁く
水が欲しいなら、あげようか
優しい声が俺を誘惑する
ヤロカヤロカ
焼け付くような喉の乾きと比例するように、だんだん声がはっきり聞こえる。
ヤロカヤロカ
耳元で誰かが囁く
俺は、もう何も考えられなくなり、思わず呟いた。
ヨコサバ、ヨコセ
我慢していた台詞を口にすると、もう歯止めが効かなかった。
ヨコサバヨコセ!
腹の底から願う
ヨコサバヨコセ!
体力の消耗も気にせず叫んだ。
水が欲しい
水を、くれ
それ以外には何も考えられなくなっていた。
ヨコサバヨコセ!
ヨコサバヨコセ!
狂ったように叫ぶ俺の顔にポツン、と雨粒が落ちてきた。
まさか?
雨はあっという間に豪雨となった。
いや、豪雨などと言う生易しい雨ではなかった。
視界が全く効かない、まるで滝の中に入ったようだった。
雨以外の音と景色が消え、山が雨に入る。
天を仰ぎ口を開くまでもなく、大量の、待望の水が口に入ってくる。
息ができないほどの雨だったが、俺にはまさに恵みの雨だった。
体に水分が染み渡る。俺はずぶ濡れになるのも気にせず雨を堪能した。
ナルゲンの蓋を開けると、みるみる水が溜まって行く。
助かった。俺は心から安堵した。
半刻ほどで雨は止んだ。
足元は、ひどく泥濘みぐちゃぐちゃだったが、この際どうでもよかった。
火照った体も雨でよい具合にクールダウンでき、なんとも心地よかった。何か大変なことが起こると言うのも杞憂だったようで、特にそれ以上のトラブルはなく無事に下山できた。
だが、この時俺は知らなかったのだ。
この日奥多摩を襲った異常な大雨によって、稲村岩尾根に大規模な鉄砲水が発生し、尾根の形が変わるほどの被害が出たと言うことを。
《山行記録 補足メモ》
【奥多摩三大急登】
奥多摩ハイカーのなかで語られる特にキツイ登り尾根だが、公式に定められたものではない。
よく名が挙げられるのは下記の4コース。
鷹ノ巣山 稲村岩尾根
六ツ石山 水根ルート
本仁田山 大休場尾根
三頭山 ヌカザス尾根
対抗としては以下の4コース
鋸山 鋸尾根
大岳山 馬頭刈尾根
天祖山 表参道
蕎麦粒山 鳥屋戸尾根
と数々の手強い登り尾根が候補にあがるが、稲村岩尾根は大抵筆頭で挙げられる。
【鷹ノ巣山】
東京都西多摩郡奥多摩町にある標高1,736.6mの山
石尾根の中間に位置する雲取山に次ぐ東京都第2位の高峰
山頂が都県境を跨がない山としては都内最高峰
【稲村岩と稲村岩尾根現状】
稲村岩尾根は未だ通行止めのままである。
(2025年10月奥多摩ビジターセンターにて確認)


【コースタイムと地図】
奥多摩駅からバスで中日原か東日原まで
稲村岩の分岐まで大体1時間、分岐から稲村岩は往復20分。死亡事故も起きてる岩場、濡れてる時は歩きたくない一コケ即死のデンジャーラスゾーン。
分岐から稲村岩尾根を2時間ほど登ると鷹ノ巣山。途中、ヒルメシクイノタワというそそられる名の小ピークがある。
下山はいろんな道が取れるが、バスで帰るなら奥多摩湖に下りる水根沢林道かハンノキ尾根が便利。どちらも3時間くらいの長丁場。

【脱水症状例】
こまめな給水を

【ヤロカ水】
ヤロカ水とは、江戸時代、尾張国、美濃国に出現した妖怪。遣ろか水、ヤロカの水、ヤロカの大水ともいう。
柳田國男の『妖怪談義』に記述。
愛知県、岐阜県の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域一帯、特に木曽川流域で伝承される。
激しい雨の夜、川が増水するとやがて、「ヤロカヤロカ」(欲しいか欲しいか)という声が川の上流から聞こえてくる。この声に答えて「ヨコサバヨコセ」(貰えるのなら頂戴)と叫ぶと、瞬く間に川の水が増し、その答えた村人のいる村は一瞬のうちに水に飲み込まれるという。また、川面に赤い目や口が見えることもあるという。
【武蔵國山行妖異図録より】

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