高尾山で姪をおんぶした話(武蔵國山行妖異録)
妹が娘を連れて家に来た。
旦那さんの仕事に付いてきて、半月ほど都内でホテル暮らしをしてるらしい。
妹の旦那、つまり俺の義弟にあたる大場は、そこそこ名の知れた楽団に所属するバイオリン弾きだ。職業に関連して名付けられた娘の莉音(りおん)ちゃんは2歳ちょっと、しゃべる言葉も増えて賑やかしい事この上ない。
四十を過ぎて、いまだに独り身で好き勝手している俺への親からの期待や焦り、風当たりといったものは、莉音が産まれてからというものすっかり柔らかくなり、今では両親も俺も莉音にメロメロだ。
「せっかくだから、どこか連れて行ってよ」という妹にせがまれ、秋の高尾山へでかけることとする。ちょうど涼しくなってきたころだし、登りも下りもケーブルカーを使えば、小さな子供でも楽しめるだろう。
暑くもなく寒くもなく、紅葉も見頃で、最高のシーズンと言う事もあり、秋の高尾駅は大勢の人で賑わっていた。
都心のホテル暮らしに少し飽き始めていたのだろうか、都内とは思えない自然やケーブルカーからの眺めに妹も莉音もおおはしゃぎだ。
莉音は、よちよち歩きながらも懸命に階段を上り、高尾山頂で持ってきたおにぎりを美味そうに頬張っている。
なるほど、家庭を持つというのはこういうことなのかも知れないな。護るべき存在が身近にいると言うだけで、これほどに心が満たされるものなのか。
今まで具体的には何一つイメージできなかった俺が、つかの間の親の気分を味わっている。高尾に連れて行ってくれと言った妹に心の中で感謝する。
お腹が膨れたせいか、たくさん歩いて疲れたせいか、登りは張り切っていた莉音も、下りは歩きたくないとクズリ始めた。
妹が抱っこするが、それも気に入らないらしい。
「おんぶ、おんぶ」とせがまれ俺がおんぶする。
2歳の女の子、10キロチョット程度だろうか。昔は20キロ近い荷物を背負って歩いていた俺にとってはどうってことのない、むしろ心地よいくらいの重さだ。
ケーブルカー駅までの距離はたかがしれてるが、万に一つでも転んだりすると大変だ、念のため女坂で下りようか。普段はそんなことにまで気が廻らない俺がそう考える。まるで親のように。
おんぶされて莉音はご機嫌だ。
最近のマイブームらしい自己紹介ごっこで、遊んでいる。
「お名前は?」妹が尋ねる。
「おおば、りおんです。」
たどたどしくはしゃいで莉音が答える。
薬王院の天狗の像が怖いのだろう、莉音は俺の背中に顔を埋め、こもった声で答えるのもなんとも微笑ましく、俺にも笑みが溢れる。
ちょうど腰掛け杉が見えた辺りで、突然カエルがカッカッカッと甲高く鳴いた。
何故だろう。季節外れの鳴き声は、天狗が俺を嘲笑っているかのように聞こえた。
薄っぺらな、父親気取りの俺を──
そう思った時、背中がずんっと重くなった。
「お名前は?」また妹が尋ねる。
「おおば、りおんです。」
また少し重くなった気がする。
気のせいだろうか、それとも久しく山を歩いてないせいか?
やり取りは何度も続いた。
答えるたび、少しずつ重くなる、背中の莉音が段々と石や砂に変わっていく、そんな錯覚を感じた。
冷たい風が吹き、汗ばんでいた背中がぞくっとする。
やめてくれ、もう名前を尋ねるのはやめてくれ。口には出さないが心の中で思う。
周りに大勢いた登山客の姿がいつの間にかだんだん少なくなり、人のざわめきが消える。
風の音も鳥の声も消え、いつの間にか静まり返った中に、「おおばりおんです」の声とカエルの鳴き声だけが何度も…何度も響く。
その声は次第に溶けて一つに合わさり、別の音に変化していくようだった。
「正直、お前が少し羨ましいよ」
これは、雪山への誘いを断った時の友人の声だ。
「みんながみんな、あなたみたく気ままでいられる訳でもないのよ」
俺の元から去っていく時に残した恋人の声。
「好きなように生きてる兄さんには、わかんないわよね」
呆れたような、諦めたような、諭すような、妹の声。
知り合いたちの声が頭の中に響く。
いや、ただ俺が何かを思い出してるだけなのか。
やめろ、うるさい。やめてくれ。
そのどれもが背中の「おおばりよんです」の声と合わさり、重みに変わっていく。
重い。
背中に居るのは…本当に莉音なのか?
これが…2歳の子供なのか?
重すぎる。
俺は、何を背負っている?
背負おうとしているのは…何だ?
重い、重すぎる。
息が上がる、少し歩いては止まり膝に手を着き喘ぐ。
「ねぇ?大丈夫?顔色悪いわよ…」
妹が心配そうに俺の顔を覗き込んで続ける。
「米俵みたいな荷物背負って登山してた兄さんも衰えちゃったわね」
違う…
背中に居るのは…
もう少しでケーブルカーの駅、と言う蛸杉辺りで限界がきた。
背中の莉音は、もう俺を圧し潰さんばかりの重圧となっていた。背骨が軋み内臓を圧迫する。息が…吸えない。
俺はとうとう歩けなくなり、膝をついた。
「莉音、おいで。おんぶはもうおしまい。おじちゃん、疲れちゃったって」
莉音が妹の手に移った瞬間、背中が、身体がウソのように楽になった。
軽々と莉音を抱える妹が、不思議そうに、心配そうに俺を見る。
妹の腕の中で、莉音が眠そうに眼をこすった。
カッカッカッ──杉の上から、笑い声のような、鳴き声のような音がした。
《山行ルート、補足メモ》
【高尾山】
標高599m、年間260万人が訪れる日本で一番人気、どころか世界で一番の登山者数を誇る人気の山。ミシュランの3つ星評価や日本遺産にも認定されている。実は日本で一番遭難者数が多い。元来は修験道の霊場であり、真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域となっている。
【立ち寄りスポット】
ケーブルカーとリフト
京王高尾線の高尾山口駅から徒歩で5分の場所にある清滝駅と標高472メートルの地に位置する高尾山駅を結ぶ。
ケーブルカーの線路では日本一の急勾配を誇る。
何とICカードも使える。
高尾山ビアマウント
6月下旬から10月下旬までやってる標高488Mにあるビアガーデン。
一度は行ってみたいが、なんせ家から遠いので帰るのがめんどくさいのでいつも素通り。
京王高尾山温泉 極楽湯
京王高尾線の高尾山口駅に隣接する日帰り温泉。
朝8時からやっているので、ナイトトレイルにも安心。
いつもやたら混んでいるのだけが難点。
【地図とルート】

【重荷/プレッシャー】
重荷(おもに/じゅうか)
重い荷物/能力を超えた大きな責任
プレッシャー(pressure)
物理的な圧力や精神的なストレスを意味する。
物理的な圧力としては、物体が他の物体に力を加えること。
精神的なストレスとしては、人が何らかの要求や期待に応えるために感じる緊張感の事。
【加齢に伴う衰え】
一般的に筋肉量は25歳をピークに毎年1%ずつ衰えていくと言われている。つまり40歳でピーク時の85%、50才で75%だが、鍛え続ければもちろん衰えは緩やかになるだろうし、逆に若い頃に鍛えていた人が何もしなければ、もっと急激に衰えるであろうことは疑いようがない。
体力のピークは男性は17歳と言われ、そこから徐々に落ちていくとも…。
【おばりよん】
おばりよんは、新潟県三条市に伝わる妖怪の一種。
大正時代の新潟の民俗誌『越後三条南郷談』には「ばりよん」の名で記載があり、他にも「おんぶおばけ」「おぼさりてい」とも言われる。
「ばりよん」は「負われたい」を意味する方言
藪の中を歩いていると、いきなり「おばりよん」と叫びながら背中におぶさってくる。その体の小ささに似合わずどんどん重くなっていき、簡単に離れなくなるとされる。
【武蔵國山行妖異図録より】

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