「正しさ疲れ」から降りる|意見を持つ前に、距離を持つ
以前、「事実」と「解釈」を切り分ける、大人の作法について書きました。
出来事をそのまま見ることと、自分の物語を重ねることは違うという話です。
今回はその先にある、「すぐ正しさを決めない力」について考えてみます。
どちらが正しいのか。
誰の意見に賛成するのか。
自分はどちら側に立つのか。
そう問われ続けると、少し疲れてしまうことがあります。
ニュースを読む。
SNSを眺める。
会議で意見を求められる。
友人との会話でも、いつの間にか立場を決める空気になる。
もちろん、意見を持つことは大切です。
曖昧に逃げ続ければ、何も選べない人になる。
けれど、すぐに意見を持つことが、いつも知性とは限りません。
むしろ、早く決めすぎることで、見えなくなるものがあります。
スマホの画面を伏せたとき、急に戻ってくる静けさがあります。
さっきまで流れていた言葉の圧が、ふっと遠のく。
その数秒で、ようやく自分の呼吸に気づくことがある。
正しさにも、それに近い圧があります。
正しいことを言わなければならない。
間違ってはいけない。
遅れてはいけない。
無関心だと思われてはいけない。
そうして私たちは、考える前に立場を選ばされる。
でも、本来の思考は、もう少し遅くていいはずです。
出来事を見る。
情報を分ける。
自分の感情に気づく。
相手の前提を考える。
まだ足りない材料を探す。
その途中にある時間を、雑に飛ばさないこと。
これが、意見を持つ前に必要な距離です。
哲学には、判断を一度保留する態度があります。
すぐに肯定も否定もしない。
わからないものを、わからないまま少し持っておく。
それは優柔不断とは違います。
雑に決めないための、静かな抵抗です。
実際、私たちは「正しさ」の顔をしたものに弱い。
強い言葉。
わかりやすい結論。
誰かを責める構図。
白黒がはっきりした物語。
それらは、一瞬で頭に入ってきます。
でも、入りやすいものほど、疑う余地も必要です。
正しさ疲れから降りるために、ひとつだけ言葉を持っておくといい。
「今は、まだ判断材料が足りない」
この一言です。
逃げではありません。
考える場所を守る言葉です。
意見を持つことは、早押しクイズではない。
誰かより早く正解を言うためのものでもない。
自分の中で、事実と感情と解釈を分けたあとに、ようやく置くものです。
距離を持つ人は、冷たい人ではありません。
むしろ、物事を粗末に扱わない人です。
すぐに決めない。
すぐに責めない。
すぐに同調しない。
その小さな間に、思考の品性は宿るのだと思います。
