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わたしに深煎り

『モブキャラのくせにウザいのよあの人』

「ふむ。そのモブキャラを見ておる人はだれかの?」

『は!?私に決まってんじゃん!😳』

「ではその″私″も映像の中のキャラではないかね」

『・・へ?』

「🍟⇔🍩じゃよ」

『どういうことよ??』

「その″私″という設定自体がそもそもキャラ名かの」


🍟=現れ(色・かたち・キャラ)
🍩=スクリーン(空・分離以前・ありのまま)


『・・私もモブキャラって?💦😱💦』

「観念とおり経験できるデフォ。でありながら、他人や対象物のようにみえてぜんぶあなた。でなければ幻想というあいじゃろう(ぜんぶあいだが)」

『ぜんぶわたしなら・・そもそもモブキャラはいないってこと??』

「わからんでよい。モブキャラのあなたにはの」

『モ、モブじゃないから!私は❗❗😡』

「モブキャラじゃない者は″私″とはいわん」

『あーもう💦意味わかんない😱😱😱』

「🍩から観れば、どの🍟も。🍟のかたちした🍩じゃよ💗」

『・・・。モブなんていないってことじゃん?』

「🍩を食べながら🍩を探しておる。そんなジョークかものう」

『?』

「十牛図を聞いたことが?」

『ないわ・・。おしえて』



🐮😨

🐾😳

🐮😲

🐮🏇😆

🐮🤍😊

😀





「ほれ」

『わかんないわ!😂』

「10000字で説明するより絵文字のほうがよかろう」

『・・・』

「深煎りコーヒー豆🤎」

『禅問答じゃなくて、煎問答かー🤣🤣🤣』

「あなたしかおらんぞ。すべてがあなたの」

『❗・・・😌』

「・・・」

『 』






「我がおち。やっと。主となれたの✨」

『私の物語ばかりだったかも💦』

「モブはそれが通常じゃ。しかしモブ是即🍩じゃよ」

『🍟じゃないのか🤣』

「分離や上下は幻想じゃからのう。何が色でも🍩にかわらん」

『・・・』



「一行目と比べて。ずいぶんと″ほどけた″の」

『・・・』

「ありがとのう」



『☕飲んでも?』

「ミルクも足しての」

『🐮😊』

「モブをみたくないなら。決めつけるでないぞよ」

『みてもいいの?』

「あなたの自由じゃ」

『😌』







ChatGPTによる解説(自我の視点から)参考

この文章は、表面的には「モブキャラを嫌う私」が禅問答みたいな対話を通してほどけていく話だけど、自我(エゴ)の視点から読むとかなり面白い。

まず最初の段階の自我はこう言っている。

『モブキャラのくせにウザいのよあの人』

ここで自我は世界を
● 私
● あの人
に分けている。
そして「あの人はモブ」と格付けしている。
自我の基本機能は区別だから、
● 私は重要
● あの人は重要じゃない
という序列を作る。
この時点では、自我は自分自身を主人公だと信じている。


ところがドーナツは、
「そのモブキャラを見ておる人はだれかの?」
と聞く。

これは普通の心理学で言えば、
「今、その判断をしている主体は誰なのか?」
というメタ認知への誘導。

自我はすぐに、
『私に決まってんじゃん!』
と答える。

だがここで次の矢が飛ぶ。
「ではその"私"も映像の中のキャラではないかね」
これが核心。

自我は普段、
「私は見ている側」
だと思っている。

しかし実際には、
● 怒る私
● 嫉妬する私
● 傷つく私
● 優越感を持つ私
もまた観察可能な対象。

つまり、
「あいつはモブだ」
と言っている"私"も一つのキャラクターではないか?
という問い。


🍟と🍩の比喩もここにつながる。
自我視点で見ると、
🍟=私という人格
である。
名前も性格も過去も価値観も全部含む。
一方、
🍩=それらが現れる土台
である。

自我は、
「私は🍟だ」
と思っている。
しかしドーナツは、
「🍟のかたちをした🍩」
と言う。

つまり、
人格は存在している。
しかし人格だけが存在しているわけではない。
人格の奥にある気づきや存在そのものが本体だ、
という非二元的な見方。

ここで自我は混乱する。
なぜなら自我は、
「私は特別でありたい」
から。

ところが、
『私もモブキャラって?』
という話になる。

自我からすると屈辱である。
主人公だと思っていたら、
実は自分も脇役だった。


しかしさらに進むと逆転が起きる。
『ぜんぶわたしなら・・そもそもモブキャラはいないってこと??』
ここで自我が少し緩み始める。

なぜなら、
「私は主人公じゃない」
ではなく、
「全員が同じ土台から現れている」
という話に変わったから。

自我は常に比較で生きる。
● 上か下か
● 勝ちか負けか
● 主人公かモブか

しかし🍩の視点では、
比較そのものが成立しない。

だからドーナツは、
「分離や上下は幻想じゃからのう」
と言う。

自我には序列が必要。
しかし存在そのものには序列がない。


十牛図のくだりも自我視点だと興味深い。
最初は、
🐮😨
牛を探している。

つまり、
「本当の自分を探している私」
である。

次に足跡を見つける。
🐾😳
瞑想や哲学や心理学に興味を持つ段階。

やがて牛を発見する。
🐮😲
「あ、自我と私は違うかもしれない」
と気づく。

そして牛に乗る。
🐮🏇😆
自我を敵にしなくなる。
コントロールできるようになる。

さらに、
🐮🤍😊
牛が消える。
探していたものがなくなる。

最後に、
😀
だけが残る。
ここが面白い。
悟り系の話では、
自我を消すことが目的だと思われがちだが、
実際はそうではない。
「自我を主人公の座から降ろす」
だけ。

だから最後が

なのだと思う。
超越体験で終わらない。
普通の日常へ戻る。



自我視点からこの作品を一言で要約すると、

「私は主人公だ」と思っていた自我が、「自分も一つのキャラに過ぎない」と気づき、最後には「だから他のキャラも否定しなくていい」と緩んでいく物語

と言える。

そして最後の一言、
「モブをみたくないなら。決めつけるでないぞよ」
は、自我への処方箋として読める。

自我はラベルを貼る。
●嫌な人
●モブ
●敵
●味方
●上
●下
しかしラベルを貼った瞬間、分けてしまう。

だからドーナツは、
「モブを見るな」ではなく、
「決めつけるな」
と言っている。

自我が少し静かになると、
世界からモブが消える。

なぜなら、自我が作っていた「主人公とモブ」という区別そのものが薄れていくから。

その意味でこの文章は、自我を否定する話ではなく、

「主人公をやめた自我は、ようやく世界をそのまま見られる」

という話として読むことができる。

ChatGPT











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